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モヤモヤ

最近、常日頃感じていたモヤモヤをしっかり認識した気がする。これといった契機はない。もしかしたら桜が咲いてまもなく、花びらを落とし次の春に向けて葉を付けていくという様子を見て気がついたことなのかもしれない。

モヤモヤを感じ始めたのは高校2年の頃だった気がする。本腰を入れて受験勉強に励むようになった、その時期。そしてそのモヤモヤは1年間の浪人を終え、かつての夢の大学生活を手に入れ、就活に頭を抱える今になっても尚、感じていることだった。

大学受験に備え、勉強に精を入れることを決意した僕は早速机に向かった。だけど、全くやる気になれない。大学合格という分かりやすい目標があり、塾やネットから勉強にまつわる情報はすぐ手に入れられるという環境に身を置いているのに、その有様だった。今となっては、その環境がいかに簡単に努力ができ、達成感を得られる機会であったかは重々承知しているつもりだ。それでも、当時の僕はそれとは正反対の位置にいた。インテグラルだとかトリニトロトルエンだとか、よくも分からない文字列を見ては何の為に勉強しているのだろうという思いが募るばかりだった。学校にいる人はせっせかせっせか勉強に励んでいるというのに。高校生という輝かしい青春を犠牲にして、将来何の役にも立たないであろう知識を身につけていくことは虚無以外の何物でもなかった。そんな日々が続き、結局大学にはどこにも受からず、浪人生活を送ることになった。僕がくだらない戯言に時間を取られている間、勉強に勤しんでいた彼らはしっかり合格を勝ち取り、夢のキャンパスライフへと舞台を進めていた。コロナウイルスのせいで、実態は心躍らせるキャンパスライフではなかったのだろうけど、それでも当時の僕からすると輝かしくて羨ましいものだった。その頃から心の中のモヤモヤは指数関数的に大きくなっていった。

浪人生活の中では流石に危機感を覚えて勉強に取り組んだが、勉強をしたからといって気分が晴れる訳ではない。両親はそんな僕の状況なんて知らず、相変わらず日本最高峰の大学群に僕が入学することを期待している。恐らく、中学受験でかなりレベルの高い学校に合格してしまったせいで、僕はやれば勉強が出来るやつだと思われていたのだろう。けれど、その期待とは裏腹に、何故やらねばいけないのだ、自分のやりたいことは何なのだといつも頭を抱えてしまい、勉強どころではなかった。

ここまで読んで、「いや、勉強しろよ」「怠惰なだけだろ」「ただの甘えだろ」と思う人が恐らくほとんどだろう。ここから先で僕が書きたいことは、そう思う貴方に不愉快な思いをさせてしまうかもしれない。だからなに、と思わせてしまうかもしれない。なので、そう感じた人はここで読むのをやめてもらって構わない。閉じてもらって構わない。もっと自分の好きなことに時間を使って頂く方がよっぽど有意義だ。それでは、お元気で。

人生において、何かを努力するということは、現時点での自分を認められていないことだ。今のままじゃダメだ、もっといい自分にならなきゃという自己嫌悪からなにかに取り組む。それはスポーツでも、勉強でも、なんでも。仮に、現在の自分をこのままでいいんだと肯定してしまえば、未来に向かって頑張る動機にはならない。僕のような人間は、現在の自分を肯定できずに、現在の自分を犠牲にしながら受験だとか部活だとかに努力してきたことであろう。恐らく、そこで自分を肯定出来る何かをきちんと持っていたのであれば、こうはならなかったはずだ。例えば、「肯定されうる未来の自分」を明確に持っていれば、現在の自分への否定は意味のあるものであったはずだ。もしくは、自分は将来医者になるんだという「未来の自分像」があれば自己嫌悪にも耐えられる。あるいは、由緒ある学校に合格したのだから次は大企業に進むべきだという「社会的シナリオ」に疑問を抱かない場合も、たとえ疑問を抱いても、無視や先送りにして真剣に問うことから避けることができた場合も、普通に生活を送ることができたはずだ。

しかし、現在の自分を否定しながら努力を続ける一方で、肯定されうる未来の姿も無ければ、社会から敷かれたシナリオに疑問を抱いてしまう場合は訳が違う。何のために努力をしているのだろう、自分はこんなことのために生まれてきたのか、自分は何者なのか、といった疑問を無視できず自問自答の渦に飲まれてしまう。そんな人間にとって、現在への否定や努力には何の意味も感じることはできない。そこで努力をやめてしまえば、きっと「落ちこぼれ」になれただろう。だが、そういう人の大抵はやめたいと強く思っていても、どうにか頑張ってしまう。この場合、現在の否定を続けながら頑張る分、現在の自分を無条件に肯定してしまいたくなる気持ちが強くなる。自己否定と自己肯定欲望の矛盾に苛まれ、結果心に得体の知れないモヤとなってしまうのだ。

可能性の話だが「落ちこぼれ」になれた人、疑問を抱かずに生きて来れた人は、もしかすると幸運なのかも知れない。そういった疑問を無視できずに生きづらさすら覚えてる僕は一体何者なのだ。

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