明かりをつけましょ、提灯に(短編)
君がいなくなっても生きている。こんなにも皮肉なことが他にあるだろうか。私はきちんと君を、君のことを愛していたのだろうか。あれほどまでに君のことを知りたくて、欲していて、君がいなければ生きる意味なんてないとさえ思っていたのに。
恋は盲目と言うように、私の視界はぐっーと小さく丸くなり、そこには君が写っていた。魚眼レンズ越しみたいな君中心の世界がそこにあった。君が生きる意味なんてものはとても稚拙で、安直な思考だったと今になって思うけれど、本心なのだ。これが本心でなければ何が本心なのか、私にはさっぱり分からなくなってしまう。これ以上分からない事なんて増やしたくはない。今君がどこで何をして誰といるのか。当時は全て分かっていたのに。君が教えてくれたから。本当か嘘かなんてことはどうでも良かった、君からの知らせがあればそれで良かった。それは君が約束してくれたから。
「いいかい?僕は貴方のことがすごく好きだ。だから、約束してほしいことがある。見えていないものを見えていると言ったり、していないことをしたと言ったり、貴方自身の気持ちや感覚を偽ったりすることはやめて欲しい。」
私のことを見つめるその眼差しは真剣そのもので冷たく、でもどこか慈愛に満ちていて暖かい。そんな眼差しを送れるなんて君自身が偽りに満ち溢れているのではないかと疑問すら抱きそうになったけれど、好意を寄せていた相手からそんなことを言われた喜びでそんなものはすぐに吹き飛んだ。
「分かった。素直なままいるね、だから君も約束して欲しい。おんなじことを。」
半分涙目になりながら私は答えた。
そんな口約束を今になって思い出す。私はそんな君のことを信じて、素直でいることに努めた。女の子と2人で会うことはやめて欲しいと伝えたし、香水の匂いが苦手だったからプレゼントもした、ペットボトルをキャップをつけずに放置する癖が嫌だったことも伝えていた。それと同じように君も私に素直でいてくれたね。連絡をこまめにしてくれたのが嬉しかった。髪型や服装の好みに寄せたら喜んでくれた。好きな食べ物を美味しそうに食べるから何度も作ってあげた。君は映画や読書が好きだったから、その時間は邪魔をせずに1人で時間潰しをしていた。不思議と、君の嫌いを無くすための労力は苦痛には感じず、むしろ進んでやりたいことになっていた。君の嫌いを私の中から取り除いていく過程は、角栓を抜くことに似た気持ちよさがあった。彼も私の嫌なことは改善してくれたし、そうした作業を互いに行うことで愛情を確かめ合っていたとさえ感じていた。
だから、君から別れて欲しいと告げられた時は悲しみより先に驚きがあった。私は何が嫌だったのか、ダメだったのか、気に障ったのか、怒らせてしまったのか、隅々まで聞こうとした。なんでも直すから考え直してと懇願しようとした。けれど、そんな思いは君の一言で打ち砕かれた。
「そういうところが嫌なんだ、僕はありのままの貴方が好きだった。付き合っていくうちにどんどん昔の貴方は居なくなっていった。嫌いになったわけではないけれど、好きだった貴方はもういない。」
正直、訳がわからなかった。
「君の嫌なことは私の中からどんどん無くなっていったはずでしょ?私は素直なままでいただけだよ?どんどん好きになってくれていたんじゃないの?私の愛は伝わらなかったの?」
本当に分からなかったから、君の言いつけを守って素直に伝えた。
「だから。」
君は苦虫を噛み潰したかのような表情を浮かべた。少し間を置いて、続けた。
「だから。僕は別に貴方が素直でいることを望んでいたわけじゃないだろ。僕が好きな貴方はもっと、、もっと、、、。」
「もっと、なによ。」
素直でいてほしいって言ったのは君じゃないか、怒りと遅れてきた悲しみで涙が溢れそうになる。目頭が熱くなって、目が充血してきているのがわかる。見えていなくても、見えることはある。でも、君はそういうのやめてって言ったんだよ。私は今や君の理想の形で生きているんだよ。そう言いたかったけれど、君が何か言いたそうにしているのが分かったから我慢した。
「もっと、、、。いや、なんでもないよ。僕が悪いんだ。もう、いいだろ。僕はもう君のことを好きじゃないことは確かなんだ。」
こんなに狼狽える君を見るのは最初で最後だった。私が思ったより怖い顔をしていたのだろうか。それとも、あまりにも悲痛な表情を浮かべていたのだろうか。あるいは、そのどっちでもないのだろうか。そんなことは君しか知り得なくて、もう聞く術も必要もない。
その後のことはよく覚えていない。多分もうダメなんだろうと思って、物分かりのいい女みたいに分かったとだけ言って解散したんだと思う。結局もっと、の後ろに続くセリフは今も空白のままだ。何がダメだったのかなんて気にする必要もきっとないはずなのに。諦めの悪い私は友人に聞いてみたりしたけれど、みんなここぞとばかりに優しいセリフを投げかけてくれた。そんな男はこっちからごめんだの、遊びたくなっただけだよだの、あんなに尽くしてたのにね、なんて言葉ばかり聞かされてうんざりした。何一つとしてピンとくる言葉はなく、心のモヤは黒くなる一方だった。自分なりに考えもしたのだけれど、毎回枕を濡らす羽目になってしまったから辞めることにした。あぁ、もう終わったんだなと受け入れられるにはしばらく時間がかかりそうで、出会いを求めたくもない期間がダラダラと続いていた。
そんな日常を暮らすのは酷く苦痛で、何事にもやる気を出せずにいた。家にいるとモヤを意識してしまうだけだから少しずつ予定を入れるようにして、外に出るようにした。なにを買うわけでもないウィンドウショッピングの為に街に出向いたり、柄にもなく天体観測をしてみたり、癒しを求めて動物園に行ってみたり。知らず知らずのうちに、どれもこれも君と行ったことのある場所に足を運ばせていたこともある。そんな私を見兼ねたのか、母親が珍しく水族館に行こうと誘ってきた。あまり外出をしない母親が誘ってくるなんて。よっぽどだったのか私は、とため息を吐きそうになるも、グッと堪えて元気よく、行きたい!と返事をした。
「あんたと来るのももう10年ぶりくらいかしら」
手際よく当日チケットを購入する様子を見て、母親も水族館デートしたのかなぁなんて思ってみたり。
「水族館なんて久々に来たわ、私魚なんて興味ないし」
「母さんもよ、前きたのなんて貴方がこーんなに小さかったことだわ」
膝ぐらいに手を当てて母親は言う。
適当な会話をしながら、館内を巡る。様々な魚を見るのは意外と楽しく、失恋の辛さを少しは紛らわすことが出来た。単純なんだな、私。魚達に対する適当な説明を読むのは意外と楽しくて1つ1つ時間をかけて見ていたら、
「ちょっと母さん疲れたから近くのカフェで休んでるわ、出たら連絡ちょうだい」
と言って母親は水族館を後にしてしまった。
また一人ぼっちじゃん、まぁ良いんだけどさ。その後もしばらく魚達を見ていた。太平洋に住む魚の数々。縦縞の模様の小さな魚は綺麗な尾鰭をパタパタと動かして餌を追っている。イソギンチャクの中にはニモが隠れてこっちを見つめている。大きな鯛は悠々と泳いでいて、年末に見る焼かれた姿とは程遠い。地面でじっとしていると思っていたエイは意外にも活動量が多い。眠ることを知らないマグロは一心不乱に泳いでいて、恋愛中の私を想起させる。あんなに大きな海から自由を奪われ、四角い箱に閉じ込められている魚達は一体何を考えているのだろうか。私達に鑑賞物にされ、その価値を蔑ろにしてないだろうか。魚達のありのままを見たいと賢者タイムばりの思考をめぐらせた。変なことを考え始めたから、そろそろ水族館を後にしよう。まだ全てを見終えてはいなかったのだが、たくさんのクラゲのいる水槽や色鮮やかな熱帯魚を横目に出口の標識に従って足を進めていた。最後は深海コーナー。一角のスペースだけ照明がほとんどなく、ブルーライトのような青い蛍光灯が水槽を照らしていた。最後だし、と思って少し見ていくことにした。深海で生きる生き物達は目が退化していたり、発光器官を携えた。置かれた環境で工夫を凝らしているのかと感心していると、一際大きな深海魚が眼前を横切った。岩のような見た目に大きな口、頭にはチョロチョロと動く突起物が付いていた。チョウチンアンコウだ。どうぶつの森で釣ったことがあったから、説明を見なくともその名前くらいは分かる。ゆっくりと動くチョウチンアンコウは何故か私の目に留まった。今思い返しても何故あんな可愛らしいとは言い難い生物に気を取られたのかなんてことは分からないのだが、確かに私は惹かれたのだ。一目惚れ?まさかね。私が一目惚れをしたのはついこないだ別れを告げられた人だけで、白い肌に華奢な体つき、優しく鋭いその瞳に吸い込まれるように恋におちた。目の前にいるチョウチンアンコウなんてその真逆だ。まぁでもなにか惹かれるものがあったのだろう。そう思ってチョウチンアンコウの説明文を読むことにした。
チョウチンアンコウの大恋愛
カマキリのオスは交配の後にメスに食べられてしまうことは有名であろう。これは産卵の為の栄養を蓄える為だ。生物界においてはこうして、子孫繁栄の為に全てを捧げる種の存在は珍しくない。チョウチンアンコウもその一例だ。なんと、チョウチンアンコウのオスはメスの身体と一体化するのである。闇に包まれた深い海の底で、頭に付いた発光器官を頼りにメスを見つけたオスはメスの身体に噛みつき、癒着する。そこからオスの組織と循環系はメスに融合してしまう。メスの血液から栄養を得られるようになる代わりに、オスは目やひれ、歯、ほとんどの内臓を失い、メスが産卵できるタイミングに備える精子バンクと化すのである。ずっと一緒、を約束したオスはその全てをメスに捧げるのだ。
海の底で私の知らない愛の形があった。説明文を読んでからというもの、チョウチンアンコウはどこか1人で寂しそうにも見える。オスだったものがどこかにくっついていないかなと探して見たけれど、それっぽいものは見当たらず。というか、もしかしたら見つけていたのかもしれないが、それがオスだったものだなんて判断できるような知見は当たり前に持ち合わせてはいなかった。同時に親近感のような愛着が湧いた。過酷な環境に耐えうる為の進化の中で得た器官を全て捨て、その全てを相手に捧げるその愚かとも形容出来そうなチョウチンアンコウは私であると。自らの趣味ややりたいことを切り捨て、元恋人の理想に近づく為にあるがままの私を見失っていたのだと。彼に愛される人間でありたい、それは確かにあるがままの私の感情ではある。しかし、あるがままの私を保持してくれるものではなかった。元恋人の君が約束してくれたのはそういうことだったんだね。今更になって気がついた私はやっと深い海の底から浮き上がれるようだった。
水族館を後にすると、雲一つない青空が広がっていて、未だに海の中にいる気分だった。雑踏の中、大きく深呼吸をした。車の排気ガスとたこ焼き屋の匂い、少しのタバコの匂い、と仄かに潮の香りが身体中を駆け巡る。この近くに海なんてないはずなのにな。そういえば、と思って母親に出たよと連絡を入れた。5分程待つと、待ちくたびたよと言わんばかりのキリンのような首と表情を拵えて母親が現れた。
「あら、頭になんか付いてるわよ」
開口一番にそういう母親。手鏡で自分の頭を見ると、頭にイチョウの葉が一枚付いていた。
「それは私の提灯だよ」
「あはは、何言ってんだか」
母親はそう言ってにっこり笑った。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?