深い悩みの真っ只中にいると、そのことをnoteに書ききれない。
悩んでいたり、困っていることを、noteに書こうと思って書き出すことが頻繁にある。
しかし、その悩み事が深刻であればあるほど、途中で筆が止まる。
最後まで書ききれない。
「こんなこと書いたら、読んでくれる方を不快な深い沼に引きずり込んでしまうわな・・・」と恐ろしくなるのだ。
いや、これは表向きな理由だな。
本当は、心の内を言語化してしまうことで、
「確固たる暗闇」として自分で認めざるを得なくなる、その怖さだ。
昨日、母に関する記事を書いたことで、気づいたことがある。
ということに。
実は、この記事は
「親に頼らなくなった寂しさを抱えて。」というタイトルで、
昨年の11月から書き始めていて、「今日こそ書き上げよう」と書き進めるも、毎回、「今日もダメだ」と保存して終わってしまっていた。
ソウルメイト(勝手に認定)のRihoちゃんが発信している記事に何度も触発されて、記事を引用させてもらってでも、私も母との関係について投稿しよう、と自分を鼓舞してきたのだが、それでも、どうしても記事を完成させられずにいた。
変わりゆく母との関係性。
私にとってはなかなか深刻で、悲しくもあり、罪悪感もあった。
私自身の幼少期からの体験や、思考の癖のようなもの、
それに加えて、母自身の体験や物事の捉え方、そして私にとっては受け入れがたい母の思想なども含めて、もつれにもつれてしまい、
母を想うと、心が前を向けなくなっていた。
それが、今回、久しぶりに母に会い、楽しい時間を過ごしたおかげで、
凝り固まった感情がスルスルとほどけ始めるのを感じた。
そうして、やっと、昨日記事を書き終えて、投稿することができた。
悩んでいる状態から少しだけ脱したおかげで、やっとそうすることができたのだ。
少しでも「脱した状態」を着地点にしないと、何より、自分自身が苦しくて書ききれないのだ。こんなこと書いてごめん、という母への申し訳なさもあって。
悩みは悩みで、投稿にたどり着かなくても、下書きにためておこう。
もういつまでも完成しない、と嘆いて、消したりしないでおこう。
時間が経って、冷静に客観視できるようになったり、
何かの拍子にスルっと脱したりできるかもしれない。
その時に、書きたい、と思えば、書き終えて投稿してみたらいいんだ。
同じように悩む人に、何かを届けられる可能性もあるのだから。
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