1万円を拾った。
昨日の夕方、近視が進んで止まらない長男の眼鏡のレンズを換えに、眼鏡屋へ連れていき、そのあとスーパーに寄った。
そこでなんと、1万円を拾った。
床にペロンと貼りつくように落ちていて、気づいた自分が恥ずかしいほど。
とっさに私が思ったのは
「よっしゃー!これで焼肉でも行こうぜ。わー嬉しい。長男の眼鏡のレンズ交換がまだ無料期間だと思ったら1週間前に切れていて、ちくしょー6600円もかかるんだ。これで回収ってことでもいい」
と早口の自分が脳内でまくし立てた。
しかし、長男の教育にどうなんよこれ。とすぐに思い直し、いい人ぶって、「たろうちゃん(仮名)、、、この1万円どうしたらいいと思う?」と聞いてみた。
「届けたほうがいいと思う。落とした人かわいそう」
「そうだよね…!さすがたろうちゃん。優しいのね。ママもそう思う」
と取ってつけたようなコメントをして、スーパーのサービスカウンターへ向かった。
そのとき、私の中で10歳の時の記憶が苦々しくよみがえってきた。
小学校4年生のとき、地元の大型スーパーで1000円を拾った。
一緒に来ていた友人が後ろから何か叫んでいるのが聞こえたが、夢中で走ってレジに届けに行ったのだった。
レジにいた人は、びっくりした表情で「はぁ、どうも」という感じで受け取っていた。
友人が後ろから追いついて、
「知ちゃん!!どうして?どうして届けたの?そのお金で、後でぽっぽでポテト食べれたじゃん…どうせお店のお金になっちゃうだけなのに。あ~あ」
私はそのときひどく後悔した。交番に届けるならまだよかったのか。
その友達はしばらくむすっとしていて気まずいし、あぁ~馬鹿正直すぎたのか、という何とも後味の悪い思い出だ。
長男と私、そしてとぼとぼ歩く10歳の私も一緒に、スーパーのサービスカウンターにたどり着いた。
「あの、1万円落ちていました」と届けたところ、スタッフの女性は少し慌てたような、恐縮したような態度で、「少々お待ちくださいね…!」と言い、他のスタッフの方と額を寄せ合って何やら相談している。
きっとあまりないケースで、マニュアルの確認が必要なんだろう。
うわーめんどくさいだろうな。
私も昔働いた航空会社の予約カウンターで、「航空券をなくしたんですけど」という人が現れて、ひどく泡を食った。
まだ、紙の航空券しかなく、電子チケットが登場する前の話だ。
マニュアルを必死に読むものの、どうしてよいかわからず先輩たちに急かされて、後から𠮟られた記憶がまたよみがえる。
ことごとく苦い思い出ばかり…。
結局、「取得物件仮預り書」なるものを書き、3か月以内に落とし主が現れなければ、私たちのものになるらしい。キャッホー!
そのときは、身分証明書を持って、警察に行くことになるようだ。
「えーと、そしたら、3か月ってことは、2月頭くらいに『そろそろかなぁ』とソワソワして待っていればいいんですね?」とちょっとふざけて言ってみたら、スタッフの方たちは苦笑いを浮かべていた。
長男から「ママ。落とした人が気づいて、取りに来てくれたらいいね」と少しにらまれた。
人間はいったい何歳までこんなふうに善良でいられるんだろう。
いや、私だって、だいぶ善良な方だと思っていたから、軽く自分にショックを受けている。あまりにさもしいじゃないか。
お財布を拾ったなら、迷わずに届けるだろう。
なのに、お金だけが落ちていたら、どうして自分のものにしようという発想が生まれるのだろうか。5万円だったらどう?100万円だったら?
金額がどれだけ上がろうと、お金だけが落ちていると、所属先のないものと認識してしまうような気がする。
首輪をしているネコちゃんは連れて帰らないが、首輪のない野良ネコちゃんは連れて帰ろう、みたいな感じだろうか。ちょっと違うか。
落として困っている人が気づいて「見つかってよかった~~~」と安堵してくれるのがいちばんだが、気づかれていないのだったら、その1万円の存在を気にかけている私たち親子がその1万円の持ち主としてふさわしいのではないか。
ネコちゃんに置き換えて考えたら、人格者だなぁ私、と思えるのに、なんでお金のことになるとこんなに卑しさが出ちゃうのだろう。不思議だなぁ。
うん、3か月後が楽しみ。やっぱりそれが本音だ。