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コーチングと出会って、人間関係で悩む点と点が、線でつながり始めた。
昨日、友達親子とともに、お花見をしながら遊べる大きな公園に行って終日遊んだ。
この公園には、対象年齢2~12歳くらいの大型遊具がある。
網や、ボルダリング、はしごや階段など多方面から登ることができ、最終的には、滑り台で下りてくる感じのやつ。
我が家の3歳長女も、はしごによじ登り、一人では怖くて滑れない滑り台に、ママも一緒に滑ろうと催促し、エンドレス滑り台がはじまった…。
長男と次男は、別のところで友達親子とバトミントンで遊んでいる。
私は娘のすぐ後ろで、お尻を支えるような形ではしごを登っていると、すぐ後ろから、小学校低学年くらいの男の子が登り始めてきて、私たちに迫っていた。
娘は登るのが遅いうえに、途中で不安そうに止まったりもするので、後ろの男の子に悪いなと思い、追い越してもらうように声掛けをしようか、と一瞬考えた。
いや、でもこれって、
子どもたちの、問題解決の機会を奪っている?
そんな声が自分の中で聞こえた。
何が正解かなんて、全然わからない。
だけど、私は結局、後ろの男の子に声をかけず、必死に登る自分の子だけを見つめた。
私が「先にどうぞ」
と言わなかったことで、
その男の子が
「小さい子だし、遅くて仕方ないよね」
と思う優しい気持ちを応援したことになったかもしれない。
そんなふうに思いたかった。
風井麻希さんという方に、私はコーチングセッションをしていただいてから、どんどんと興味が湧くようになり、自分もコーチングができるようになる講座を、先日受講した。
その際、コーチングでは、相手の課題を引き受けないという考え方を教わった。
また、相手に共感するのではなく、共感的に理解する、と。
(共感的理解は、相手の目線で、相手の言葉や心情を捉えようと努めること、だと私は解釈している。共感は、自分自身の目線で、相手の言葉などを受け取っている状態かな?と思う)
その理論を知ってからというもの、私は思考、行動にいちいちそれを当てはめながら考えるようになっていた。過去の行動も含めて。
そうしていたら、私は、相手の課題を自分の課題にしまくって生きてきたんじゃないか?と気づいてしまった。
両親の不仲。
私がなんとかしなきゃ、から始まってる。たぶん。
最近だと、夫と、夫の父親のコミュニケーションが希薄そうだからと、姑が亡くなってからのこの数年、私がずっと手を貸さなきゃと、夫の代わりに舅に連絡を入れたりしていた。
でも、ちょっと疲れてしまって、今年に入ってから、私は何もしなくなった。
だけど、私の変わり身に、舅は怒りを感じているかもしれない。だから、何か取り繕わなきゃ、という居心地の悪い焦燥感がずっとあったのだが、
夫側の家族の問題に、私はでしゃばって介入しすぎたせいで、彼らの問題解決できるチャンスを奪っていたのではないかと、思い始めた。
それなのに1人で私はイライラモヤモヤを募らせていた。
そのことを夫に打ち明けた。
夫は、なるほど、なるほどと聞いてくれた。
なんだか、とてもホッとしたし、嬉しかった。
夫の共感性が低いことを気に食わないと思っていたけど、取るに足らないこと、どころか、共感性が低いことが長所にさえ思えてきた。
それほどまでに、コーチングの考え方が、
今までの私の、不完全で、不健全な認知による人間関係の悩みを解決してくれるのではないかという予感。
話を公園に戻して、
私は男の子に「お先にどうぞ!」と声をかけても、良かったかもしれない。
周りへの配慮、思いやり、という考え方もあるんだしな。
なんだかそのあたり、まだまだ混乱しているが、私は今までの思考回路に革命が起きているような感覚さえあるのだった。
その話を、公園に一緒に行った友達にすぐにでも聞いてもらいたかった。
しかし、子どもたちがわちゃわちゃすぎて、当然のことながら、そんな話ができる状況ではなかった。
ちなみに、この日一緒に遊んだのは、以前、こちらの記事で書いた友達。
私にとっては、今のところ、彼女以上に「共感的理解」をナチュラルに実行している人は身近にいなさそうなのだ。
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