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三原脩『闘魂の男 三原脩物語』(1961?)|幻の映画②プロ野球界の”名将”伝記映画化

この記事では、1960年ごろから日活・新東宝によって映画化が企画、未製作に終わった(と思われる)三原脩の伝記映画について語ります。

※一映画ファンの調査です。これを読んでご自身で調べられるのは自由ですが、当記事を根拠とした不確かな情報拡散はご遠慮ください。



◇三原脩監督の幻の伝記映画

 1960年、6年連続最下位を続ける大洋ホエールズの監督となった三原脩は就任一年目にしてセ・リーグ優勝。日本シリーズでは「ミサイル打線」を擁する大毎オリオンズと対戦、大方の予想を覆して4勝0敗という結果で日本一に導き、世間では三原を「魔術師」「三原マジック」と称して話題となりました。

 その大洋ホエールズ監督時代の三原脩を伝記映画化する企画があったようです。

 プロ野球選手本人が出演した、いわゆる伝記映画には『川上哲治物語 背番号16』や『鉄腕投手 稲尾物語』があります。なかでも黄金時代の西鉄を舞台とした『稲尾物語』には西鉄の全選手が出演、もちろん当時監督であった三原脩も出演して作品の監修もしていました。

 野球と映画を愛好し、特に三原監督時代の西鉄ライオンズが好きな自分としてはとても興味を引かれますが、意外なことにインターネット上にはほどんど情報がありません。そこで自ら情報を収集・調査しようと思い立ちました。


◇三原脩について

 戦前は東京六大学野球のスターとして活躍し、職業野球契約選手第1号として大日本東京野球倶楽部(後の読売ジャイアンツ)に入団しました。
 戦後は5球団で監督を務め歴代2位となる通算1687勝を収めた、日本プロ野球を代表する人物のひとりです。特に監督時代の功績を語られることが多いと思います。

 もし興味があれば、『魔術師 決定版―三原脩と西鉄ライオンズ』という書籍をオススメします。この本では、三原が「読売ジャイアンツ」を追われ、新球団「西鉄ライオンズ」の監督として黄金時代を築き上げたのち「大洋ホエールズ」の監督に就任するまで、また三原の野球観について詳細に描かれています。

昭和33年の日本シリーズ。読売ジャイアンツvs西鉄ライオンズ。3連敗後の4連勝で巨人を倒した知将三原脩監督の生涯を描いたノンフィクション。彼が追い求めたものは、現在の日本プロ野球が見失ってしまったものだった。

立石泰則『魔術師 決定版―三原脩と西鉄ライオンズ』.2002.小学館.


◇日活『闘魂の監督 三原脩』映画化企画

 日本一を決めた10月15日からわずか11日後に掲載されたあるスポーツ新聞の記事を発見しました。ここでは、日活映画による三原脩監督の伝記映画化企画について報じられています。

「映画界の日本シリーズ」『スポーツニッポン 昭和35年10月26日号』.1960.スポーツニッポン新聞東京本社.6頁

大方の予想を裏切って、大洋ホエールズがパの強豪大毎を四勝無敗とストレートに破った、ことしのプロ野球日本シリーズは、映画界にもその明暗の影をあざやかに落としている。以下は日活と大映の間で行なわれた映画版”日本シリーズ”のてん末記―。

「映画界の日本シリーズ」『スポーツニッポン 昭和35年10月26日号』.1960.スポーツニッポン新聞東京本社.6頁


○明暗分かれた日本シリーズ

”シーズン前、圧倒的な優勢を伝えられていた大毎オリオンズは、いうまでもなく大映系だ。大映永田社長は同時に大毎球団の会長でもある。そこで大映は『オリオンズ苦闘の十年』という、大毎球団の記録映画を企画した。実際の製作はニュース短編会社に発注する。(略)
ところが肝心の日本シリーズが、夢にも思わなかったストレート負けと出た。一切の計画は立ち消えた。敗者のきびしい現実を、大映の映画人までがひしひしと感じたことだ。”

 この後、オリオンズの西本幸雄監督も今日では名監督として知られていますが、この日本シリーズの結果の責任を取って辞任。三原と同じく西本もこの年監督就任一年目であり、明暗を分ける結果となりました。

”一方の勝者大洋は、日活に企画を持ち込んで『闘魂の監督 三原脩』を製作しようと、いま大変な意気込みだ。セ・リーグの優勝が決まったとき、日本シリーズの勝敗に関係なく、大洋球団の映画をという話があった。まして、日本シリーズに四連勝したのだから、大洋としてはいよいよ乗り気だ。親会社の大洋漁業が、タイアップ費用として二百五十万円を出す話まである。製作費の大体四分の一にあたる額だ。もちろん、大洋の現役選手も出演させる。”


○権藤正利の引退と日活内定

 映画と野球の親会社間の関係からすると、日活はプロ球団と繋がりがないというのも選ばれた理由だろうが、これには意外な”因縁話”があったようです。

”日活と大洋には、一つの因縁話がある。ことしは名リリーフとして活躍した権藤投手も、昨年は敗戦投手続きでクサっていた。とうとう野球を投げようと決心して、先輩の小西得郎に相談をもちかけたところ、小西氏が日活と親しかったことから、九分どおり日活入りが決まった。権藤投手が文学好きである点を考えて、企画部とポジションも決まった。…”

 記事中の”権藤投手”とは権藤正利のこと。”昨年”(=1959年)は不調が続いて一軍登板3試合で0勝1敗という結果を残したため、引退を決意したということでしょう。

 日活入りを勧めた”小西得郎”は大洋の元監督・選手という関係にありました。また”小西氏が日活と親しかった”という点について付け加えると、小西は1959年公開の野球映画『東京の孤独』に本人役で出演、プロ野球選手に扮する小林旭・宍戸錠らの試合シーンの解説を務めていました。

 引退を表明した権藤正利を大洋の監督となった三原脩が説得、リリーフ転向により復活を遂げてチーム初優勝に貢献した...というエピソードは「三原マジック」のひとつとして語られていますが、この話に裏話があったとは初耳でした。
 この記事以外にもそのような記述があるのでしょうか。

 1960年、日活映画は石原裕次郎・小林旭らの「日活ダイヤモンドライン」を軸としたアクション路線を売りにしていました。記事にあるようにスポーツ選手の伝記映画を製作した実績を持っているものの、そうした大きな方針転換を行う前の話です。

 記事は10月後半だったので、手元にあった日付の近い『日活映画 1960年11月号』(日活株式会社事業部)を調べてみても、それらしい情報は見つかりませんでした。実現は難しかったのかもしれません。


◇新東宝『闘魂の男 三原脩物語』映画化企画

 二か月後、『スポーツニッポン 昭和35年12月24日号』に再び「”三原監督”を映画化」と報じられています。

 見出しには“新東宝来年の初仕事”...日活とは別の会社による映画化企画です。題名も『闘魂の監督 三原脩』から『闘魂の男 三原脩物語』と少し変化しています。

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「”三原監督”を映画化」『スポーツニッポン 昭和35年12月24日号』.1960.スポーツニッポン新聞東京本社.8頁

新東宝では一九六一年の仕事始めとして、プロ野球大洋の三原監督の伝記映画を製作することになった。

”起死回生を図る新東宝では、山梨代表取締役をはじめ、全社員一丸となって”売れる映画”の企画を種々研究していたが、このほど柴田万三プロデューサーが大洋三原監督の伝記映画を企画、二十二日大洋球団事務所に三原監督をたずね、この旨を話したところ快くこれを承諾”全面的に協力しよう”との確約を得た。そこで柴田氏は早速、新東宝山梨代表に報告、同代表も大乗り気で”大作にしよう”と意見が完全に一致、来春一月四日からクランク・インする。”

「”三原監督”を映画化」『スポーツニッポン 昭和35年12月24日号』.1960.スポーツニッポン新聞東京本社.8頁


○新東宝の起死回生の企画

 当時の新東宝は、社長の大蔵貢主導のもとで当時最先端の総天然色・シネマスコープ作品『明治天皇と日露大戦争』等の大作も製作された一方、エログロ路線かつ低予算な製作体制を続けてきました。

 しかし、ついに1960年末に大蔵貢社長が退任。他社との合併も画策されるが実現せず、その”起死回生を図る”・”売れる映画”の企画として日本一の監督、三原脩の映画化が挙がったという経緯のようです。

”題名は ”闘魂の男・三原脩物語” スタッフは脚本が館岡謙之助、監督は渡辺邦男が当たる。配役は主演の三原監督に宇津井健、夫人の妙子さんに北沢典子がふんするほかは不明だが、場合によってはホエールズ選手の賛助出演も考えられる。
ストーリーは三原監督の少年時代から始まり、ついで高松中学、早大の青年時代と、この間に野球選手としての活躍、妙子夫人とのラブ・ロマンスが織り込まれるほかプロ球界におけるその輝かしい足跡が描かれる。”

”柴田プロデューサーの話 三原監督と直接会って、本人から映画化承諾の返事をもらった。一両日中に三原邸で三原監督と渡辺邦男監督、シナリオの館岡氏らが集まって細部の打ち合わせを行ないたい。山梨代表取締役の話 会社名再建に取り組んでいる新東宝にふさわしい企画だ。新東宝の総力をあげてよい映画にしたい。” 

「”三原監督”を映画化」『スポーツニッポン 昭和35年12月24日号』.1960.スポーツニッポン新聞東京本社.8頁


 以上の2つの記事から、作品の内容は日活・新東宝の両方とも若い頃から現在までを振り返る内容となっていることがわかります。その構成としては『川上哲治物語』が近かったのもしれません。

 つまり、物語前半・若い頃を宇津井健が演じ、物語後半・現代を本人が演じる形です。しかし本人も出演という旨は記事にないため、出演せずに監修という形だけかもしれません。


◇「封切予定一覧表」“1961年2月第3週公開予定”

 『近代映画 1961年3月号』の「封切予定一覧表」に『闘魂の男 三原脩物語』が載っており、1961年2月第3週公開予定だったとあります。しかし、新聞記事以上の新たな情報は見つかりません。

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「封切予定一覧表」『近代映画 1961年3月号』.1961.近代映画社.p170

闘魂の男 三原脩物語
”監督 渡辺邦男
最下位から日本シリーズに優勝した大洋の立役者三原監督の半生記
宇津井健、北沢典子ら (新版併映)”

「封切予定一覧表」『近代映画 1961年3月号』.1961.近代映画社.p170

 また、自分が所有している同時期の『キネマ旬報』何冊か調べてみても、やはり『三原脩物語』に関する情報は確認できません。


◇まとめ

 最後に、これまでの調査から判明している情報、製作経緯を以下にまとめた。

○判明しているクレジット

新東宝『闘魂の男 三原脩物語』(1961?)

企画:柴田万三
脚本:館岡謙之助
監修:三原脩
協賛:大洋漁業

三原脩:宇津井健
妙子夫人:北沢典子
ほか
賛助出演:大洋ホエールズ選手

監督:渡辺邦男

○企画の経緯

・大映は記録映画『オリオンズ苦闘の十年』を企画していたが、日本シリーズのストレート負けで立ち消え
・一方、大洋は日活に伝記映画『闘魂の監督 三原脩』の企画を持ち込んだ(大洋のセ・リーグ優勝時点で映画化の話があった)
・球団親会社の大洋漁業はタイアップ費用250万円出資、大洋の選手も出演
・日活に企画を持ち込んだ理由は、前年の権藤正利選手引退騒動の貸しがあり、過去にスポーツ選手の伝記映画をいくつか製作した実績を持っているから
・二か月の間に新東宝に企画が渡っている

○年表

1960年10月2日 大洋ホエールズ セ・リーグ優勝(大洋球団の映画化話が浮上?)
1960年10月15日 大洋ホエールズ 日本シリーズ優勝
1960年10月26日 日活『闘魂の監督 三原脩』製作企画報道(スポーツニッポン)

1960年12月1日 新東宝 大蔵貢社長退任
1960年12月22日 新東宝・柴田万三プロデューサー、三原脩を訪ねて映画化を承諾
1960年12月24日 新東宝『闘魂の男 三原脩物語』製作企画報道(スポーツニッポン)
1961年1月4日 クランク・イン予定
1961年2月第3週 公開予定


 もしこの作品が実現したとしたら、単なる一監督の伝記映画としてだけでなく、三原脩が影響を与えた日本プロ野球の歴史を見るうえでの史料価値もあったのではないかと思います。

 この1961年に新東宝は倒産、三原脩監督下の大洋ホエールズも以降優勝から遠ざかったという結果からすれば、映画化のチャンスはこの時だけだったのかもしれません。個人的には是非とも観てみたかった作品の一つです。



※一映画ファンの調査です。これを読んでご自身で調べられるのは自由ですが、当記事を根拠とした不確かな情報拡散はご遠慮ください。


【参考文献】1)立石泰則『魔術師 決定版―三原脩と西鉄ライオンズ』.2002.小学館
2)中島治康「三原脩 ”考える野球”の若き実践者」『ベースボールマガジン 1972年秋季号 プロ野球スーパースター50人』.1972.ベースボール・マガジン社.p28-29
3)「映画界の日本シリーズ」『スポーツニッポン 昭和35年10月26日号』.1960.スポーツニッポン新聞東京本社.6頁
4)「グラフ・映画界現勢」『映画年鑑』.1962.時事通信社.p56-57
5)「”三原監督”を映画化」『スポーツニッポン 昭和35年12月24日号』.1960.スポーツニッポン新聞東京本社.8頁
6)「封切予定一覧表」『近代映画 1961年3月号』.1961.近代映画社.p170

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