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自分の考えるヒーロー観と『シン・仮面ライダー』感想【ネタバレ注意】



 先日公開された『シン・仮面ライダー』。
 仮面ライダー誕生50周年記念である2021年に製作が発表され、石ノ森章太郎先生が亡くなられて25年が経つ今年(2023年)ついに公開された。

 シンゴジ、シンウルトラと見てきたが、「きっと失敗するだろう」とハードルを下げ、それでもシンゴジのように「やりやがった!」という衝撃を受けるのをどこか期待している。そんな気分だった。

109シネマズ名古屋『シン・仮面ライダー』
西野七瀬さんサイン入りポスター

 正直なところ、賛否でいえば否の立場だ。
 観賞してからモヤモヤした気持ちがあり、それは何故なのか?自分のなかの『仮面ライダー』のイメージとどう違うのか?
 それを考えてみたくなった。


まず特撮遍歴を振り返る

スーパーヒーロータイム・リアタイの印象

 子供の頃はヒーロー番組を見て育つものだが、自分の場合は仮面ライダーはほとんど通っていなかった。
 というのも幼い頃の印象では、スーパー戦隊は明るくコミカルな作風でよく見ていたが、次に放送する仮面ライダーは話が小難しくて理解できなかった。なにしろOP映像を見て満足してチャンネルを変えるくらいだったのだ。

『仮面ライダーアギト』ヒーローショーを観た時の写真

 特撮や映画に親しむようになったのはその後の話で、二つのターニングポイントがあった。


①東映太秦映画村と等身大ヒーロー

 自分は小学生の頃に修学旅行で東映太秦映画村に行った際、スーパー戦隊大集合の展示を見た。ひとつめのターニングポイント。
 一般にヒーロー番組を卒業した歳だったが、そのなかで『タイムレンジャー』の説明に興味を持った。その文面はもう忘れたが、どこか心に残った。家に帰ってから親のパソコンで主題歌を聴いて、衝撃を受けた思い出がある。
 それから歴代戦隊の主題歌を聞いたが、特に好きでリピートしたのは『ああ電子戦隊デンジマン』と『電撃戦隊チェンジマン』だった。

小学校の修学旅行、東映太秦映画村にて

 その後、古本屋N書店で漫画『仮面ライダーSPIRITS』を買った。1部は昭和ライダー達のアフターストーリーから始まり、新たな戦いに巻き込まれるまでが描かれている。
 一番好きだったのが一文字隼人(2号)の話。悪への怒りで改造手術の跡が浮かぶくだり、そして子供たちの前でポーズをとって変身するシーンで好きになった。そこから中学1年生始め頃には、昭和ライダーの変身ポーズを全て覚えた。
 この他にも、漫画内の設定やデザインを原作の石ノ森章太郎の漫画から引用していると知って石ノ森先生の漫画を買い出した。中学・高校生あたりの話だ。

 N書店は高校の通学路にあって、帰りに寄ってから電車で漫画を読んでいたことを覚えている。『スカルマン』、『仮面ライダー』、『人造人間キカイダー』、『仮面ライダーblack』。特に『キカイダー』が好きだった。

 敵組織の壊滅という目標とは別に描かれた『キカイダー』における物語のテーマ、不完全な正義の心を成長させるという人生哲学とその結末には大きな影響を受けた。


②特撮博物館と巨大ヒーロー・怪獣映画

 2014年冬頃、庵野秀明プロデュースの『特撮博物館』が名古屋で開かれた。確か同じ頃にスーパー戦隊のイベントが名古屋でやっていて、どちらもCMで知った。

『特撮博物館』入場チケット

 自分は前者を選んだ。スーパー戦隊は毎年イベントがどこかでやっているが、『特撮博物館』にはこのチャンス一度しか行けないからだ。これが第二のターニングポイントだった。

名古屋市科学館(撮影:2014年12月)

 会場で上映していた『巨神兵東京に現わる』のメイキングを観た。帰りにグッズ売り場で初代『ゴジラ』のDVDを買った。『ゴジラ』は2014年で60周年だった。それほど昔の作品を観るのも初めてだったが、素晴らしい作品だと思えた。
 何よりも『巨神兵東京に現わる』の特撮技術を目の当たりにして、初めて「自分も映画を作ってみたい」と思ったのだった。

ウルトラマン変身シーンのパースモデル

(撮影:2014年12月)
飛行機ミニチュアを逆さに操演

(撮影:2014年12月)

 同時期にはテレビドラマ『アオイホノオ』が放送していた。漫画家の島本和彦先生の学生時代を元にした作品で、庵野監督が才能を持ったライバルとして登場して、その経歴を知った。
 島本先生の漫画も読み始め、「自分も大学に入ったら映画を作りたい」と一層強く思った。

 そして、2016年『シン・ゴジラ』が大ヒット。

名古屋市博物館「ゴジラ展」(撮影:2017年9月)

 『シン・ゴジラ』の前評判は良くなかった。前情報で出された造形も従来のゴジラと違ったので、「どうせゴジラでエヴァみたいな作風やるんだろ」みたいな意見があった印象がある。

 自分も正直言って期待していなかったが、実際に映画館で観賞して大きな衝撃を受けた。特撮博物館で見た『巨神兵東京に現わる』の特撮技術がここまで表現できるのか、と。

 あとは以前の冒頭で、シン・仮面ライダーSTORE in 名古屋PARCOにも行ったことを書いた。

 そして現在は特撮ファンというより、主に旧作日本映画を観賞している。俗に言うポロロッカ現象だ(※ここでは元ネタを辿って時代を遡っていく意味)。


仮面ライダー観の考察と比較

 ゴジラやウルトラマンにハマる前から石ノ森ヒーロー、石ノ森章太郎先生の漫画のファンだった。結構思い入れは深い。

 仮面ライダーに対しての自分のスタンスをまとめると

・石ノ森章太郎の存命中の仮面ライダー(初代~Jまで)の知識
・石ノ森先生の漫画のファン(特に人造人間キカイダー)
・初代仮面ライダーのテレビ版は旧1号編、東映まんがまつりの劇場版3作を観賞、漫画版を読破
・平成ライダーは全く視聴していない

 色々な方の感想・レビューを見ると、意外とライダーファンでも初代のテレビ・漫画版を見ていない、あるいは仮面ライダーシリーズ初見という方が多くて驚いた。むしろ自分の方が少数派だったのだ。
 自分のなかの常識が世間一般の常識と思っていけない、とはよく言うがそれを実感した。

①ダークヒーローとしての仮面ライダー

 他の方の感想から、石ノ森漫画版仮面ライダーでは反体制的要素があるがそこを汲み取っていないという指摘があった。
 仮面ライダーの誕生した1971年、ベトナム戦争・70年安保という社会問題、公害という環境問題を抱えた時代。
 昭和元禄・高度経済成長期の反動で暗い雰囲気をまとったイメージ、それを仮面ライダーが持っているのは確かだ。

 実は、そんな時代背景がより濃く描かれているのが『仮面ライダー』の原点である『スカルマン』だった。『スカルマン』はライダーマスクの造形的な原点として語られたり引用されたりすることは多いが、その作品内容を語られることは少ないんじゃないかと思う。

 次々に起こる殺人事件と「スカルマン」と名乗る謎の男、そしてその正体を追う私立探偵。
 簡単にいえば、大藪春彦のハードボイルド小説『野獣死すべし』のような構図の劇画といった作品である。違うのは気まぐれに人殺しを実行するのではなく、両親を殺した仇(と彼の権力を笠に着て私腹を肥やす連中)への復讐という目的があったこと。

「きさまが黒幕のかげから支配しているあの政党や銀行屋や会社や宗教団体‥‥ありゃあなんだよ!
きさまのあやつっているテレビや新聞や警察や鉄道で‥‥それを利用して‥‥やつらもふとっていたんだぜ!!
人々の精神をくさらせているテレビ‥‥そのテレビ局の社長にかこわれている人気女優!銀行屋の不良息子!汚職や税金をむだ使いして外国観光旅行をし帰りにはどっさり腹巻きの中に密輸品をかかえこんでくる代議士ども 拳銃を不法所持している大臣のボディー・ガード!大量殺人をするための戦車用武器弾薬を作る会社 それをはこぶ貨物列車! こんな仕事に手を染めているれんじゅうにすこしも罪がないというのか!?え!?」

石ノ森章太郎『スカルマン(ペーパーバック KC)』.1997.講談社.90-91頁

 しかし、黒幕の正体はスカルマンにとって意外な人物で、救いのない結末を迎える。
 興味があれば読んでみてほしい。

 コミックスのあとがきでは、石ノ森章太郎先生による発言の書き起こし形式で『スカルマン』、『仮面ライダー』企画当初の「ダークヒーロー」としての考えを示している。

 『スカルマン』も『仮面ライダー』も、別に当時流行っていたわけじゃないんだけど、子供に見せる恐怖ものというのを狙って創った作品なんだよ。だから最初の『仮面ライダー』は非常に暗いんだよね。ホラーを目指したから。まず怖がらせようと思って、そういう設定にしたもんだからね。監督とかシナリオライターもそういう僕の意向を受けて画面を暗くしちゃったりするもんだから、最初は受けなかったんだよなぁ(笑)。まあその後人気が上がってくるにつれて物凄く明るい『仮面ライダー』に変わっていくんだけど、テレビではなかなか難しいテーマだなという思いは強くしたね。

石ノ森章太郎『スカルマン(ペーパーバック KC)』.1997.講談社.105-106頁

 あとマンガのほうもね、やっぱりテレビの『仮面ライダー』のファン層というと幼稚園とか小学校低学年なんだけど、少年マガジンの読者層っていうのは高校生とか大学生が多かったでしょう。そのギャップがあるから単純なヒーローものでは難しいわけよ。いくら環境問題をテーマにしてみたり、変身する悩みみたいなものを描いてみてもそれには限界があるからね。『仮面ライダー』はそれでもまだ良かったんだけど、『ゴレンジャー』あたりになるとそのギャップが広がりすぎて、とてもじゃないがブラウン管で映えるキャラクターを考えてるわけでしょ。それをいくらマンガのコマに描いてみても表情がなかったりとか、非常に無理がある。今でもそういうヒーローもののマンガはあるけど、やっぱりどこか不自然といえば不自然なんだよね。

石ノ森章太郎『スカルマン(ペーパーバック KC)』.1997.講談社.106頁


②正義のヒーローとしての仮面ライダー

 以下は、漫画『愛蔵版 仮面ライダー』あとがき(石ノ森章太郎「仮面ライダーは人類の未来のために戦っているのです」)より抜粋した。

 「ショッカー」とは、歪んだ技術文明の象徴である。その技術の付加によって誕生するのが「仮面ライダー」だ。後には自然の守護神(平和の戦士)になるが、言うなれば、”技術文明の申し子”あるいは鬼っ子のモンスターである。したがって、こうなる。自然(バッタによる象徴)が直接人間(文明の象徴)に反旗を翻すのではなく「仮面ライダー」(バッタと人間のハーフ)、即ち自然と人間が協力して”悪”に立ち向かう…..。自然と上手に共生することが人間の叡智。「仮面ライダー」こそが”真の文明”のシンボルなのだ。
 またもうひとつ。ナニが正義でナニが悪かが判然としない現代シラケ社会で、子ども時代「正義が必ず悪に勝つ」という単純で当然だが大切な構図(信念)を、子ども時代にキチンと意識の中にとどめていただきさえすれば、それはそれで十分意味のあることだ、と思う。

1989年11月

漫画『愛蔵版 仮面ライダー』あとがき
石ノ森章太郎「仮面ライダーは人類の未来のために戦っているのです」.1989.
中央公論社.789-790頁

 1989年、あとがきが書かれたのは石ノ森先生の描いた漫画版『仮面ライダーblack』の連載終了後辺りだろう。

 関連して、漫画版『仮面ライダーblack』では初代ライダーは劇中劇という扱いで、幼い頃にライダーに憧れた大門先輩が主人公・南光太郎にその夢を託したことで、光太郎が”仮面ライダーblack”を名乗るキッカケとなる。

「そうだ!悪と戦うことだ!!正義という言葉がパロディとしてしか通用しなくなり、悪が職業としてのさばっている、狂った世の中なんだ…!!”正義の味方”を職業にする者がいてもおかしくはない…..いや!現代だからこそ必要なんだ…..!!」

石ノ森章太郎『仮面ライダーblack 3巻(少年サンデーコミックス)』.1988.小学館.103-104頁

 『仮面ライダーBLACK』~『仮面ライダーBLACK RX』のテレビ放送時、とんねるずによる初代のパロディ『仮面ノリダー』が人気であった。
 ここでの台詞は、仮面ライダーの描いた正義がただのお笑いのパロディとして消費されるのではなく、社会の善悪を子供に示す”正義の味方”であってほしい、と考えていたのではないか。

 これらを踏まえてみると、石ノ森章太郎先生の仮面ライダーに対する考え方は、企画当初の「ダークヒーロー」から、子供人気を得た後年には「正義の味方」に変わっているとわかる。


③自分の仮面ライダー・ヒーロー観

 自分が望んでいるのは、石ノ森先生の考えでは後者の”正義の味方”としての『仮面ライダー』である。

 自分が旧1号編の中で一番好きな話は、本郷とライダー別々の姿で子供と接する第4話「人喰いサラセニアン」で、『仮面ライダーSPIRITS』で一文字隼人のエピソードを読んだこともあって、初代仮面ライダーに必要な要素は「子供に優しいヒーローである事」だと思っている。
 本郷猛についても、オリジナルではショッカーの被害に遭った子供を安心させ励ますような爽やかな笑顔、その一方で改造人間の孤独、悲哀、悪への怒りを内に秘めているというギャップが魅力的な人物像で、ヒーローとしてもカッコ良く見せた。

 仮面ライダーはこれまで何度も原点回帰作品が作られたが、ライダーの捉え方がどれも異なる。それも上記の「ダークヒーロー」、「正義の味方」と二つの描き方があるからかもしれない。
 自分が原点回帰作品で支持しているのは、テレビ・漫画版の要素と「大自然の使者」「子供を導くヒーロー」というポイントを押さえた『仮面ライダーZO』だ。庵野監督と同じリアタイ世代の雨宮慶太監督の作品だが、大ヒットした『ターミネーター2』のストーリー・当時はハリウッド映画の最先端だったSFX/VFXに影響を受けているとわかる。『シン・仮面ライダー』と見比べてみると面白いかもしれない。

 なぜ子供が必要なのか?それは子供向け番組だからというわけではない。
 石森ヒーロー『人造人間キカイダー』『快傑ズバット』のルーツを見てみると、小林旭『ギターを持った渡り鳥』シリーズ、さらにその源流はアラン・ラッド名作西部劇『シェーン』に遡る。
 『シェーン』のラストは、少年の「シェーン、カムバック!」という声を背にしてシェーンが黙って馬に跨りながら去っていく有名なシーンだ。『大草原の渡り鳥』でも同じ、子役時代の江木俊夫の「お兄ちゃん!」と何度も呼びかける声が山にこだまする。それでも小林旭は去っていく。
 それは、ある意味で未練を断ち切る男の美学だろうか。

 上記を踏まえてZOのラストを見ると、宏少年の「お兄ちゃん!」の声に一度バイクを止めるが主人公は振り向かない。ここまでは同じ。そして「ライダー!」の声に振り向き、笑顔を見せながらライダーの姿でガッツポーズをとる。
 何度見てもこのシーンが感動するのは、去っていく男の美学を踏襲しつつも“仮面ライダーは戦い続け、たとえ遠く離れていっても君(宏少年やスクリーンの向こうの子供たち)といつも共にある”というメッセージを感じるからだ。

つまり自分のヒーロー観とは、西部劇に登場するような子供と共にあり、頼りになるお兄ちゃんだった。

 …余談ではあるが、石ノ森章太郎先生の漫画では西部劇の決闘シーンを再現したカット割りや演出が見られる。
 確か石ノ森漫画で初めて見たのは『サイボーグ009』だったと思うが、パッと思いついた例でいうと漫画版『人造人間キカイダー』の最終回など、主にガンアクションで多様されている。

石ノ森章太郎『人造人間キカイダー 6巻(サンデー・コミックス)』.1974.小学館.162-163頁

①向かい合う二人を望遠で映す
②それぞれの顔を極端にアップ
③撃ち合う二人
④静寂

 この一連の流れは、セルジオ・レオーネ監督の演出でよく使われているイメージがある。(自分がイメージしたのは『夕陽のガンマン』
 自分が映画に親しむ前に石ノ森先生の漫画でカッコイイと思っていたのは、後から見返したらまさにコレだった。

 自分は往年の映画をはじめに西部劇も好きであり、まだテレビのない時代に映画少年であった石ノ森先生が影響を受けた辺りの作品をよく観ている。
 そういう意味では、自分は石ノ森ヒーローと波長が合うのかもわからない。今後、石ノ森先生の映画論も読んでみたい。


シン・仮面ライダーの感想

①オリジナルとの比較

 まず気になったのは、オリジナルの名前をそのまま使っていたことで元々のキャラクターイメージに引っ張られたこと。特に本郷猛は、前述のように子供に優しい姿とその内に秘めた哀愁や怒りが魅力的であった。
 本作では「コミュ障」というキャラ付けや、哀愁を強調したかったのか終始感情に乏しくとても納得できなかった。仮にシンウルトラマンの”ハヤタ隊員→神永”のように変更していれば、まだ別モノとして見られたかもしれない。

 もう一つは、漫画版の「13人の仮面ライダー編」をそのまま映画のラストに持ってきたこと。
 藤岡弘さんのバイク事故から、テレビ版はしばらく藤岡弘不在のまま番組を続けたが急遽主人公を交代、一文字隼人が登場して作品自体の雰囲気が大きく明るく変わった。それに伴って漫画版では当初の主人公だった本郷猛を殺して一文字隼人に交代する、という原作者にとっては不本意で不完全燃焼な終わり方をした。
 自分が「シン・シリーズ」のリメイク・リブートに期待しているのはオリジナルの完全再現より大きく超える表現、シンゴジラのような「そうきたか!」という衝撃だったが、本作は不完全燃焼な漫画版のラストをそのまま引用した。ということはそれ以上の答えが出てこなかったのだ、とガッカリした。

 とはいえ、本作は悪いところばかりではない。
 0号は「イナズマン+V3」と思って見ていたが、0号はスカルマンからも来ているのではないか?という他の方の考察を見て少し納得いった。
 あくまで自分の解釈であるが、石ノ森先生の示した二つの可能性…「正義の味方=仮面ライダー」を1・2号、社会への復讐から暴走した正義感を持った「ダークヒーロー=スカルマン」を0号としたのであれば、それは面白いと思う。

 1号の左脚がひん曲がった負傷は、藤岡弘さんの撮影中のアクシデントが元だろう。その前後のルリ子退場、2号誕生の流れ含めて、ここのネタの拾い方は上手いかもしれない。
 唯一驚いたのが、協力するアンチショッカー同盟の組織の二人の名前が最後に明らかになったところ。「立花」と「滝」。言わずもがな立花藤兵衛と滝和也だろう。お前がおやっさんかよ!

 今回の作品で打ち出したテーマとは違うが、いっそのこと石ノ森章太郎の当初想定したであろう仮面ライダーのイメージのまま「藤岡弘のバイク事故がなかったら(主人公交代がなかったら)」のIFをやっていたら「そうきたか!」と唸ったかもしれない。どういう結末になるのか想像もつかない。多分やらないだろうけど。


②旧作日本映画的視点

 蝙蝠男はマッドサイエンティストで、狂気的な笑い方が死神博士役の天本英世さんを連想した。(しかし「死神グループ」と別のセリフにあるので違うかも)あるいは庵野監督のリスペクトする岡本喜八監督の映画『殺人狂時代』の溝呂木省吾か?(同じく天本英世さんが演じる)。
 蝙蝠男といえば舞台、劇場というイメージがあったが、漫画版『仮面ライダーblack』の「オペラ座の怪人編」だったと思い出した。どうせなら十字架(あるいはそれを模した何か)を突き刺して倒して欲しかった。

 蜂女戦では、片肌脱いで刺青晒して日本刀握る姐さんな感じが、同じ東映の任侠映画『緋牡丹博徒』の藤純子さんみたいだった。東映の得意とする任侠ものを取り入れたのは、東宝のシンゴジ・シンウルトラでは出来ない表現で面白かった。


③自分が本当に期待していたもの

 しかしながら、本作に対して自分が本当に期待していたのは、庵野監督の言う「仮面ライダーへの恩返し」ではなく「未来を担う子供たちへの恩送り」だった。(※誰かから受けた恩を別の誰かに送ること。)

 終盤の家族愛やら意思の継承やらも多少理解できたが、家族愛というテーマや上位互換のライダー亜種が出てきたりそのエネルギー源を壊したりというのは、それこそ雨宮監督が30年前にZOでやってるし、新鮮味はない。
 意志の継承にしても、本作の2つのキーである本郷のライダーマスクを一文字に託し、赤いマフラーを名もなき少年に託す(それはライダーに憧れた庵野少年であり、今の子供たちであり、観客の我々の投影でもある)とかいくらでもやりようはある。前売券を買ったらマフラーが付いてきたから、それならまだ納得できた。

 シン・仮面ライダー観賞後、友人に勧められて『仮面ライダークウガ』第1・2話をYouTube公式配信で視聴した。石ノ森先生死去後の作品で幼い頃の平成ライダーのイメージから少し抵抗感もあったが、第1話の主人公の初登場シーンを見て思い直した。
 迷子の子供をあやして、親が迎えにきたのを見て泣き止んだ子供に向けてサムズアップ、そしてバイクで去っていく。
 この短い間だけで、「彼は仮面ライダー(ヒーロー)なんだ」と直感的に理解できた。

 要するに自分の場合は、姿は関係なくヒーローの中に宿る正義の心を見ていたのかもしれない。これは『キカイダー』の経験からアクションより人間ドラマに注目しているからかも知れないが。

 『シン・仮面ライダー』は初代のリスペクトや再現に拘っていた。しかし、ノスタルジーに浸って過去を振り返ってばかりで次世代に繋ぐ姿勢が見えなかった。
 今の映画ファンとしての自分は、庵野秀明館長の『特撮博物館』がきっかけだったので、そんな庵野監督の作る仮面ライダーに対して期待はあった。それ以上に石ノ森章太郎先生への思い入れの方が大きかった。
 少し残念ではあったが、自分のなかのヒーロー観を見つめ直す機会になったのでそういう意味では観て良かったのかなと思う。石ノ森ヒーローへの熱も戻ってきた。

石ノ森先生が亡くなって25年、石森ヒーローを見て育った世代が今度は現代・未来を生きる次の世代に夢を託す。それは『シン・仮面ライダー』の本郷と同じく、たとえ石ノ森章太郎が死んでも彼の遺した作品が描いた夢・思いは受け継がれていくこと。

これが本当に望まれる石森リスペクトのはずだ。


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