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複雑なものを複雑なままに
学習は複雑だ。
昔から、指導とはこういうものだと信じられているモデルとして
・指導者がわかりやすく教える
・指導者が宿題など、適切な学習の指示を出す
・指導者が学習の進捗を管理し、サボっている生徒がいれば指摘する
みたいな管理型の指導モデルがある。
でも、当たり前だけど、学習とはそんな単純なものではない。
同じ授業を受けても
同じだけの課題量をこなしても
習得度合いは全然ちがう。
自習室に何時間こもっても成績が上がらない人もいれば
教科書を一読するだけで高得点が取れる人もいる。
例えばその差はIQかもしれない。
生まれ持ったIQが高ければ授業だってカンタンにわかるし、そこまで大量の課題をこなさなくても習得まで持っていける。
やる気だってIQに依存しているかもしれない。
IQが高い人は「勉強なんてカンタンだ」と思っているから、課された学習に対して
「ちゃっちゃと理解してちゃっちゃと解くか」
という気になる。
答えを写すよりもさっと理解して自分で解いた方が早いし、長い目で見てコスパが良いことを彼らは知っている。
IQが低い人は「理解するのはすごく時間がかかることだ」と思っているから課された学習が人一倍重く感じる。考えたり理解するよりも答えを写したり、教科書から答えらしい語句を拾って書き込む方が楽に感じる。
でもIQよりも学習法の方が大事かもしれない。
例えばIQのひとつの要素として「ワーキングメモリ」というものがある。めちゃくちゃ端折って言えば数字や単語をいくつ覚えられるかを測る。
ワーキングメモリを測る試験で好成績を取った人にアンケートを取ると多くが
「途中で覚え方を変えた」
と答える。
ただ愚直に覚えるだけでは限度があることを敏感に察知し、その場で覚え方を工夫してみせる。
アタマの使い方が上手いのだ。
だから勉強はIQよりも学習法かもしれない。そもそもIQというもの自体がアタマの使い方という技術なのかもしれない。
学習法よりもメタ認知能力の方が大事かもしれない。
メタ認知能力とは簡単に言えば自分を客観視する力。
もう少し詳しく言うと自分の学習状況を的確に把握し、その場に応じて自分をコントロールする力だ。
先のワーキングメモリ検査で
「途中で覚え方を変えた」
という人たちも、そもそもは
「この覚え方じゃキツい」
ということをメタ認知能力によって感じとり、それをきっかけにしている。
メタ認知能力が高い人は学業の成績が良いということは研究でも示されている。
もっと言えば自己調整学習だ。メタ認知したことを起点にして自分で自分の学習を管理・調整する人こそが熟達した学習者であり、学力向上の鍵であるという研究もある。
いや、メンタルが一番大事かもしれない。
根性論ではない。
例えば不安(自分に対する欠乏感)が強い人は外的なものに依存する傾向がある。
そういう人は良い教師・良い塾・良い教材のように、自分の外側に問題解決の答えを探す。
当然行き詰まりやすい。
メンタルは学習自体にも影響する。
上のような人は
「勉強とは用意された正解(解法)を覚える作業である」
という学習観になりがちだ。
結果として
「先生はこう解いていた」
「問題集にはこう書いてあった」
ということを、自身の思考や感覚はすっ飛ばして鵜呑みにし、意味も考えずにアウトプットしてしまう。
勉強において「他者」が必要になるのはステップ1ではない。ステップ2だ。
まずは自分で考える。自分なりにやってみる。
その結果を他者(教師の指導や参考書の解答)と照らし合わせて修正したり、人にアドバイスを求めたりする。
不安が強すぎる人はこういうプロセスが取れない。だから学習の質が著しく低くなる。
これは一例だが、メンタルは本当に勉強に影響する。
他にも
・受験のプレッシャーに押し潰されそうになると理解力や記憶力が低下する
・家庭環境が悪化すると(両親が不仲など)学力に影響する
とかもある。
そんな小難しい話ではなく、結局は「運」かもしれない。
僕の好きな言葉に「啐啄同時」という言葉があるが、勉強はタイミングだったりする。
例えば友達に何気なく掛けられた言葉でやる気が出ることがあるかもしれない。
その時に課されていた課題がたまたま、ちょうど良いレベル感のものかもしれない。
気まぐれに頑張ってみたら問題が解けて、えも言われぬ達成感を味わうかもしれない。
その達成感が病みつきになって、勉強が楽しくなるかもしれない。
IQや学習技術やメタ認知能力を超えて、「好きだ」というエネルギーで勉強ができるようになってしまうかもしれない。
風が吹けば桶屋が儲かるみたいな。
色々と書いたが、実際は色んな要素が相互作用しながら複雑に絡み合っている。
物理には「複雑系」という言葉があるが、「学習」もある意味で複雑系の一種だと思う。
何が言いたいかというと、つまり
「わからない」
ということだ。
学習にはあまりに多くの要素が影響しすぎている。
人間が全てを把握し、コントロールし切るにはあまりに複雑すぎる。
だから
「こうすれば上手くいきますよ」
なんてものはない。
こんなことを書くと
「じゃあ塾ってなんなんだ」
と言われてしまうかもしれない。
でも僕はこれを伝えることも塾の仕事のひとつだと思っている。
理由は2つある。
ひとつは、その複雑さこそが学習の醍醐味だということ。
勉強ができる人、受験に受かる人は、量もさることながら
「考えている」
自分はどうすれば目の前の課題を覚えられるのか、理解できるのか。
なぜ点数が取れなかったのか。取れた時は何が良かったのか。
今日の勉強の成果は十分か。それは予想通りか。そうでないならば、なぜ?
授業中だって考えている。先生が「わからせてくれる」のを座して待って、ただ飲み込むだけでない
「この問題はこうやって解くのかな?あれ?違うっぽいぞ。なるほど、こうやって解くのか。でも自分の考え方だと解けないのかな?あぁ、この部分で上手くいかないからダメなのか。テストで出て違いに気づけるかな?どこに特徴があるんだろう?あ、問題文で出されている条件が微妙に違うのか。覚えておけるかな?無理だろうな。でも提出ワークで1回やれば大丈夫かな?不安だから一応印をつけておこうetc」
学習している内容(つまり数学とか英語とか)のことだけでなく、「学習」というもの、もっと言えば「学習している自分」についての思考量と質が圧倒的に高いのだ。
こういう「できる人のアタマの中」を知ってほしい。
かなりの高IQ者を除けば、指導者の指示を愚直にこなしたから成績が上がったなんてケースはほとんどあり得ない。
(そう見えるとしたら指導者の思い上がりだと思う)
勉強が上手くなる過程で思考は主体的で、俯瞰的で、分析的で、実践的になる。
「どれだけ頑張っているか」を測る指標は決して勉強時間やページ数やテストの点数だけじゃない。
思考の質や密度。
勉強が上手くいく人が学習という複雑なものに立ち向かう時のアタマの中を覗き見ることで
「すごいな」
って思って欲しいし、それを習得する過程を楽しんでほしい。
もう一つは、
単純にフェアじゃないと思うからだ
何度も言うとおり学習はものすごく複雑だ。
しかし、ビジネスの鉄則は
・わかりやすいこと
・購買者をラクにすること
確かに
「先生の言ったことを愚直にこなせば成功しますよ」
なんて言われたら確かにわかりやすいし、ラクになる。
この論理でPRをしている塾も多いし、それを非難するつもりはない。
でも、
どうすれば勉強ができるようになるかなんて「わからない」ということも
それに対して付きまとう不安も
本当は誰かが消したり、預かったりできるものではない。
そしてこのこと自体は決して「悪いこと」ではないと思う。
「わからない」や「不安」は敵ではない。
こいつらと友達になって上手くやっていくことが人生では大事なんじゃないかと思ったりする。
そういう意味では財産ですらある。
学習者自身のである。
指導者のじゃない。
親のでもない。
学習者である生徒自身の財産だ。
だから僕は授業の時にやたら学習技術とかメタ認知とかメンタルとかの話をする。
ついでに社会やキャリアの話も。
着地点はいつも
「むずいねー笑」
だ。
ビジネスの世界では複雑なものを単純に伝えることが礼賛されるけど
(Apple製品が良い例だ。これは本当に素晴らしいと思う)
でも僕はそれを選びたくない。
それで塾が潰れるなら潰れればいい。
複雑なものを複雑なまま扱いたい。
複雑なものを複雑だと伝えたい。
だからわからなくていいし、不安なままでいいと伝えたい。
どうせ社会に出ればもっと複雑だし、もっとわからないし、もっと不安だ。
でもそれすら楽しむことができると思う。
解けないパズルに躍起になるように、自分に向き合うのは以外と楽しい。
そういう「学びの場」を提供できればいいなーと常々思う。