分析的アンチワーク哲学
アンチワーク哲学vsなんちゃって分析哲学
私がアンチワーク哲学を理解するためのメモとしてここに記す。アンチワーク哲学も、分析哲学も厳密にはこうじゃないかも知れない。分析的〇〇哲学とは挑戦状であり、分析的マルクス主義とは基本的にマルクスの思想と共産主義をボコボコに叩きのめす試みであった。今回はこの挑戦状という意味合いを拝借して、私のなかでのアンチワーク哲学と、私の中での分析哲学を決闘させてみる。
……対局開始だ。
分析①:アンチワーク哲学批判はアンチワーク哲学である。
今の社会は「労働=他人により強制される不愉快な営み」が多いにも関わらず、当然様々な問題はあれど、概ね維持されている。「労働」が無ければより良くなるだろう。
これを批判をするには、より良い社会に必要な「労働」が何か示すしかない。それは「労働」が必要な範囲を定め、それを超えた「労働」は不要と主張することに等しい。
この主張もまた「労働」の必要性を限定するため、アンチワーク哲学にほぼ賛同した主張となる。これは別の角度から見ればほぼアンチワーク哲学を主張しているのだ。
100%を否定することと、1%を主張して99%を否定することは、99%は同じである。この議論を立てられれば、その批判者も基本的に「労働」が要らないことに賛同させることができる。※今の「労働」が100なのだとしたら、この賛同のほうが大事か?
そこで、アンチワーク哲学そのものを批判するには、この議論の立てかた、問いかけかた自体を批判するしかない。
分析②:分析的この議論
・「労働」という略称は便宜上、妥当である。
「労働」は旧来の労働観を一新する「他人により強制される不愉快な営み」の略称である。この略称を批判しても、議論自体の批判とはならない。アンチワーク哲学を主張する以上は、このような略称は便宜上有効だろう。よって、「労働」を想定し、縮小を目指す議論自体を批判しなければならない。
・「労働」の削減自体は正しい
まず「労働」を想定できるならば、削減を目指した議論は有益である。他の条件が同じ場合の「労働」の削減は、例えればトロッコ問題でそのまま進む片方の線路に人がいない場合の想定であり、倫理的に議論の余地がない。
①他人により②強制される③不愉快な④営み(行為の継続・反復)は、他の条件が同じ時、どれか一つでもないならば無いに越したことはない。
これに反する場合を想定したとしても、「労働」を削減する向きが正しいことは倫理的に議論の余地はない。
「労働」は効率的に想定できるか?
・アンチワーク哲学批判は、議論全体の有効性に対するものでなければならない。
このため、「労働」を具体的に想定できるか、議論を社会に活用できる具体案とできるかが批判の対象となる。
つまり、「労働」の具体的な想定が全体的に困難であるとの指摘が、議論そのものの批判となりうる。しかしその批判こそ、難しいと考えられる。
それは、旧来の労働観と比べ、アンチワーク哲学が議論を効率的に行うためである。
分析③:アンチワーク哲学はオッカムの剃刀である。
アンチワーク哲学は、「労働必須」の前提を取払い「労働」の議論を進める。これは論理を減らすことであり、オッカムの剃刀に基づく。
今ある「労働」はほとんど不要であることを前提に、「労働」をゼロベースで考え議論を節約する。
この不要であるとは、現時点で強制を拒否してやめられるか?ではなく、無くて済むならば無いほうが良いか?で判断される。
「労働」とは、無くて済むならば無いほうがいいにも関わらず、やめられないから問題なのである。
無くて済むならば無いほうが良いものを無くすことこそ、オッカムの剃刀である。
分析④:アンチワーク哲学の具体性、生産活動と政治活動とブルシット・ジョブ
「生産活動」と「政治活動」と「ブルシット・ジョブ」
そこで議論のため、
アンチワーク哲学は二つの「活動」
「生産活動」:他者の価値を生じる活動
「政治活動」:他者から価値の分配権利を得る活動を定義している。
このとき、
「生産活動」かつ「労働」:「労働」が必要な範囲が含まれる(との批判が想定される)活動
「政治活動」かつ「労働」:「労働」が必要な範囲に該当せず、無ければ無いほどよい活動
と定義できる。
※しっきー氏からすると「政治活動」は社会のブレーキとして必要とされると見えるが、それがまさに「労働」である必要は何もない。美味しい店をオススメすることは相手の時間を分配してもらう「政治活動」だが、相手が自発的にその店に行き、満足していれば「遊び」である。あらゆるプロデュースという概念を撲滅する必要はなく、プロデュースが「労働」でなくなれば良いのだ。
これは完全な二分法ではない。重なる部分とどちらにも属さない部分がある。そこで、以下を加えた三分法が有効と見られる。
「ブルシット・ジョブ」:価値生産、価値の分配権利獲得にさえ役立たない「労働」
「ブルシット・ジョブ」は主観的な性質から、基本的に「労働」に含まれると考えられる。元来のブルシット・ジョブの定義は「労働」に含まれるからだ。このふりをする行為は、「労働」に含まれると考えられる。
また、部分的に「生産活動」や「政治活動」にも含まれることがある。この「労働」が自分の成長に役立つ気があまりしない、などである。明確に線分けされておらず、主観的に判断される。
しかし、この二者に含まれない「労働」は必ず「ブルシット・ジョブ」であると考えることができる。
「労働」でない場合は、いずれも必ず「遊び」となる。ここには「労働」ではない「生産活動」「政治活動」も含まれる。
「遊び」かつ「ブルシット・ジョブ」もネーモ氏は想定しているが、これをアンチワーク哲学は問題視しない。このため、オッカムの剃刀に従って「遊び」とくくり、これを「ブルシット・ジョブ」と呼ぶ必要はないかも知れない。
以上を踏まえ、オッカムの剃刀を用いて「労働」をゼロベースで考える。このとき、定義が最低限必要なのは「生産活動」になる。ここに批判者が主張する「労働」が必要な範囲が含まれる。
分析⑤:「貢献欲」が「労働」の苦痛を超えるところに、「労働」が必要な範囲があるとの批判が想定される。
このことから、
「労働」が必要条件のとき、「生産活動」による正の効果が「労働」による負の効果を上回る条件を有効に示すことができるか?
を問う必要がある。
このとき、物質的な生産量と主観的な不快感を比較するのは困難なため、「生産活動」の主観的なプラスが「労働」による主観的なマイナスを超える条件が当てはめられる。
このとき、「生産活動」とは他者の価値を生じる活動だから、他者の価値に対する主観的な判断とみなすことができる。これをアンチワーク哲学では「貢献欲」という言葉で定義している。
つまり、「貢献欲」による快楽が「労働」の不快さを超える条件が、「労働」の成立する範囲となる。よければ、この条件に略称をつけると良いだろう。
※この記事では便宜上「サイキングアップ」と読ぶ
分析⑥:分析的この条件
そこで、この条件を考える。
「労働」を必要条件とする「生産活動」とは?
これは、他者からある不愉快さの喚起が必要となる場合である。これは、問題意識の提起と変革、失敗からの学習、コンフォートゾーンからの脱却などが挙げられる。この「労働」が目的とするのは、相手への押し付けではなく、相手のアシストである。
特に、問題意識の提起と変革はアンチワーク哲学自体がそれであるため、自らの立場から肯定する必要がある。このため、アンチワーク哲学は、議論者の「労働」の縮小も前提とする。
分析的アンチワーク議論
このとき、アンチワーク哲学は以下の手順で、旧来の労働観を持つ人々と議論を行うと考えられる。
①「労働」縮小を目的として、人々をこの議論に参加させる。
②「労働」を他の条件が同じであれば無くすべきことに納得してもらう。
③現時点で「労働」が必要な範囲を議論し、それ以外の「労働」が全て不要であるとの合意を得る。
④現実にある「労働」と擦り合わせ、全体的に「労働」を減らす方針を立てる。
この議論の流れのとき、③の段階で、「貢献欲」を考えることとなる。
では、「貢献欲」>「労働」となる場合とは具体的に何か?
ここで具体例として、サイキングアップが挙げる。ある不安や緊張をもたらすことで、最も高いパフォーマンスを発揮させるゾーンを目指す考え方だ。このある不安や緊張を一種の不愉快さとして捉える人にとって、「サイキングアップ」は「労働」となりかねない。
以上から、「サイキングアップ」がこの「労働」が必要な範囲の一つであると考えることができる。
しかし、上記の例を嫌がる人(リラクゼーションが必要となるほど緊張する人)がいるようにこれも主観的に判断し、各人で肯定されるものである。
「サイキングアップ」を緊張感を高めることと定義するならば、ある問題への意識喚起もまた緊張感を高めるから、ある「サイキングアップ」だと言える。これが1%にあたる。
しかし、この時に更に注意しなければならないのは、強制されるとやりたいこともやりたくなくなる「アンダーマイニング効果」である。これによる負の影響を加味しても尚、貢献欲による快感が「労働」による不愉快さを上回らなければならない。
しかし、それは「サイキングアップ」を誰かは持つことを否定するものではないだろう。とはいえ、一人一人に最適量があり、これをほとんど必要としない人がいることも認めなければならない。
分析⑦:分析的「サイキングアップ」
そこで、アンチワーク哲学による「サイキングアップ」に対する態度を考える。
選択肢1.「サイキングアップ」を認める
しかし、この目的は「労働」の縮小か、ある「生産活動」の支援であり、「政治活動」には不要である。そして貢献欲、「労働」の苦痛いずれも「労働」する側によって判断される。
この「サイキングアップ」は、まさに「労働」であることが「アンダーマイニング効果」の負の側面を加味してもなお、「貢献欲」の発揮にプラスに影響していてかつ、その「労働」の苦しみを超える。この非常に限定的な条件で「労働」を認める。
選択肢2.「労働」を程度問題にして「サイキングアップ」を「労働」に含めない
アンチワーク哲学が「労働」の不愉快さを程度問題として捉えているならば、「サイキングアップ」はもはや労働ではない。アンチワーク哲学が想定する労働なき世界が理想的に叶えられたとしても、人と人が関わる限り、極めて微弱な「労働」を人はしてしまうだろう(当然それは不要である)。しかし、これを程度問題として問題視しないことは可能だ。
このとき、どの程度の不愉快さまでを「労働」とみなすかを各自で議論することとなる。それは各人によって貢献欲、「アンダーマイニング効果」の強さや、パフォーマンスの高まるゾーン、「労働」の感じ方が異なるからである。
3.「サイキングアップ」が「労働」の四要素をコンプリートする必要はないとして「労働」撲滅を訴える。
しかし、現代社会が非常に多くの「労働」に満ちており人々の苦しみの最中心にあると考えれば、このような「労働」の必要な僅かな範囲など大した問題ではなく、大胆に「労働」撲滅を主張して良いと思われる。
特に前述した①と②を両方考慮するとき、「サイキングアップ」などそこまであるのか?という問題に突き当たる。ある程度嫌な「労働」だが、その人にとってはそれが最適なゾーンへの誘導になり、より強く貢献欲を掻き立てて、その人が支持できる範囲に留まっている……なんてものはあるのか?という問題だ。それにこの「サイキングアップ」理論も、これまでの「労働」主義が作りだした価値観に過ぎないのではないか?と根本的に拒否反応を示すこともできる。
とはいえ、アンチワーク哲学は主観に基づくから、誰かの主観で判断される以上は、「サイキングアップ」はあり得ると考える。しかし、そのようなレアケースのために、「労働」撲滅を引き下げる必要はないとも思われる。
「労働」とは、殺人や交通事故のようにこの世界から何一つとして存在しなくなっても、それに越したことはないものか?
殺人や交通事故はパラケルススの言葉を借りるならば、明らかな服用量の過剰である。しかし、「労働」そのものは服用量の指定が各人の主観に委ねられている。つまり、人によっては効用を感じる場合がある。
このため、①②必要量(許容量)を決めよう③過剰だからまずはとにかく減らそう、のどちらかになると思われる。今回の分析から見る限り、アンチワーク哲学の基本スタンスは③であり、①②も重視していると考えている。というのも、アンチワーク哲学が訴えるベーシックインカムは、「労働」をしない選択肢を強制的に行政によって与える「労働」だからだ。それは、より小さな「労働」にせよ、お金を配る公務員や一方的に受け取る人達の「労働」が前提されている。現時点での妥協案としてベーシックインカムはあるのだ。
ベーシックインカムとは、「労働」という価値観を撲滅することを強制するより小さな「労働」である。これは、「労働」に対するリラクゼーションになる一方で、アンチワーク不足の人達に対してアンチワークという緊張感を与える「サイキングアップ」である。これを考えると①②の要素も無視していないことは間違いない。
とすると、結果的に問題のある「労働」を終わらせられるならば、「サイキングアップ」がどのくらいか?などという些細な議論の正当性よりも、実効性により重きを置いた方が良いかも知れない。
アンチワーク哲学の圧倒的な強みはその簡略さにあるためだ。簡略であることは、その価値観のアクセル、普及しやすさとして機能する。この分析的アンチワーク哲学がそのブレーキとなりかねないことは留意すべきことである。これらをまとめて、分析的アンチワーク哲学の戦略を考えてみる。
分析⑧:分析的アンチワーク哲学の戦略
1.「アンチワーク哲学」を「労働」撲滅論として主張する。議論の場に参加させる。大体の人はこれで納得させる。
2.これに対する批判として、「労働」が必要な範囲を主張した場合、それもまたアンチワーク哲学であるとし、その「労働」が必要な範囲「サイキングアップ」を明晰化させる。
3.この時、各人にとって主観的に肯定できる「サイキングアップ」が成立する範囲が非常に狭いとして、主観的に「労働」撲滅に帰結させる。この時、誰であっても必要と感じる「労働」はある範囲に収まると想定できる。
※今ある社会の「労働」を100としたとき、この議論が成功していれば、各人に必要な「労働」は0〜1あたりで正規分布を描き、0の人もいて、100よりは全ての人が有意に低くくなる、というイメージを想定している。
「労働」が必要な範囲はあるとしても非常に狭い
「労働」撲滅を主張した時、「労働」が必要な範囲を提示する批判は想定される。津波が迫る時、隣家の人を叩き起こしてはならないのかや、明らかに無謀な装備で危険な山を登る人の態度を改めさせなくていいのか、国防や、正当防衛をどう扱うかなどだ。この場合に、「貢献欲」が「労働」を上回るような「サイキングアップ」を具体的に想定することができる。
このような戦略が有効となるから、「労働」を想定することが難しいと批判するのは困難なのだ。それはアンチワーク哲学が地動説としての性質を備えることからも見て取れる。
分析⑦:アンチワーク哲学は地動説である。
地動説はオッカムの剃刀、観測結果との整合性、計算の簡易さを理由に天動説を退けた。
アンチワーク哲学は、このうちオッカムの剃刀だけでなく、観測結果との整合性、計算(議論)の簡易さを有している。
観測結果の整合性は、他の条件が同じならば、自発的で愉快なほうが、強制され不愉快であることよりも主観的に良いため、演繹的に肯定される。
また自己決定理論により、基本的に他人による外発的動機よりも内発的動機による決定が個人の幸福や生産性などを高めるため、帰納的にも肯定される。
この前提に基づき「労働」を捉え直すことで、「労働」を最小限に抑えることができる。このため、アンチワーク哲学はこれまでの「労働」観を二重の意味で一変するコペルニクス的転回、地動説なのだ。
地動説であるということは、今後広がる可能性が高い理論であることを示している。アンチワーク哲学を背景として、ボブ・ブラック「労働廃絶論」が現れたとの主張は正しい。
分析⑧:既存の経済学からの発展性
具体的には、類似した価値観が今後の経済学の主要テーマになる可能性が高い。経済学は、生産性を付加価値÷労働投入量で計算する。このため、投入量を減らす目的を待つ。
ここで、アンチワーク哲学は内発的動機に基づく活動を「労働」に含めない。付加価値基準のお金に強く否定的であり、数値化による内発的動機の縮小・外発的動機の拡大を問題視している。
対して、経済学も自己決定理論を参考に、外発的動機の原因となるお金と、労働の指標の見直しに迫られている。経済指標の見直しは今まさに経済学のメイントピックでもある。
このため、「生産性=内発的付加価値指標÷『労働』投入量」で計算する価値観が広まる可能性は高いと考えられる。この経済学とアンチワーク哲学の違いは、数値化のモチベーションとなる。
アンチワーク、「労働」から逃れる権利は経済学的に考えると、誰もが同時に使用できる非競合性を持つが、ほとんどそれが基本的人権であるにも関わらず、現時点では排除性を持つ。特に「労働」である必要は無いにも関わらず、「労働」として用いられている。それどころか、経済的な豊かさが「労働」脱出の手段とならない。このため、現時点ではクラブ財に位置するアンチワークを公共財にしなければならない。このような主張が経済学からも出ることを望む。
結論:アンチワーク哲学のほぼ完封勝利
アンチワーク哲学は、オッカムの剃刀に基づき、「労働」と外発的動機を前提としたあらゆる制度設計を省き、「アンチワーク」と内発的動機を前提とした制度設計に変える議論の場を設ける。この議論は、観測結果との整合性、議論の簡易さを満たしており、コペルニクス的転回の条件を満たす。
アンチワーク哲学がコペルニクス的転回である以上、今後の経済学者はアンチワーク哲学を奇跡論法的に、自転車の再発明として発見する可能性が極めて高い。この時にアンチワーク哲学という名前を入れられるかが勝負になる。
またアンチワーク哲学はそれが社会哲学であるから、様々な社会学に応用することができる。
アンチワーク哲学批判もアンチワーク哲学になる。逆に、アンチワーク哲学は批判を必要としている。「労働」が必要な範囲を決めることで、それ以外の「労働」が不要であることを主張できるためだ。
そして、この「労働」が必要な範囲は、ある生産活動に対して、ある「サイキングアップ」を行うことを目的としている。アンチワーク哲学は、不愉快さを生じる可能性のある問題提起である以上、「サイキングアップ」的なものである。
まとめ:批判的?意見
アンチワーク哲学がベーシックインカム論と完全にイコールではない以上、アンチワーク哲学がメインで主張するのはその地動説さにあると思う。
そもそもこのような視点に立ち、新たな社会を考えることや組織作りをすることが有効なのである。このためアンチワーク起業論など一見矛盾するような範囲にまで適用できると考えられる。こうした範囲拡大を目指したいというのが個人的な考え方である。
あとがき①:功利主義とアンチワーク哲学
今回ここでは取り上げなかったが、アンチワーク哲学の中心となる主張の根幹は、本来、強く功利主義に支持されるものである。
であるならば、なぜ功利主義は最大多数の最大幸福を主張するにも関わらず、アンチワークに至らなかったかを考えなければならない。
なぜアンチワーク哲学という「そもそもなぜ私たちは仕事をしなければならないのか」「労働とは必然か」といった問いを立て、「労働」そのものを社会的・哲学的に再検討するアプローチを待たなければならなかったのか?今後の倫理学を考える上で、これは決して避けられない道になるだろう。
この記事を書いた者としての思い「反苦痛主義」
私はより深く、そもそも人に根付く「苦痛主義」の解体をしたいと考えている。
間違った人間には苦痛を与えるべきである、人間は苦痛がなければ成長しない、努力しないものや競争に負けたものは貧しい思いをすべきである、とした価値観である。全てのパワハラや体罰、いじめ、炎上などの根底にあるあの価値観だ。これらは、リラクゼーションを必要とするような生産性を落とすハイパーストレス状態を前提としている。あの価値観の根底を疑っている。
何かの達成に対して苦痛が必要条件となるケースはあるかも知れない。しかし、それは「苦痛主義」が考えるよりもずっと少ない。それがまさにちょうどその苦痛でなければならない場面があまりにも少ないのだ。しかし、改めて「反苦痛主義」を訴える必要はない。「アンチワーク哲学」はそれよりずっと些細な苦痛に「労働」を位置付けているからだ。だから、真に苦しいことへの予防策としても、私はアンチワーク哲学を徹底支持する。
あとがき:いずれ経済学者の誰かはアンチワーク哲学支持者になる。極めてまともな理由で。
この包括的な経済的自由を与える方法とは、ベーシックインカムである。今の社会はほとんど経済的自由を与えられていないから、人々は苦しい。やっぱり経済学者はいずれアンチワーク哲学に気付く。そしてすでにベーシックインカムは経済学者の中でますます支持されつつある。
しかし、アンチワーク哲学と経済学者はその時、法の支配をどう捉えるのかでまた対立するだろう。このとき、労働なき世界でも全ての法が無くなることは考え辛い。アンチワークとして「労働」に対する法は残り続ける。私はこれを真の正しさと位置付けていた。
①真の豊かさ:「労働」が少ない状態
→「労働」なき世界
②真の正しさ:「労働」を縮小するためのより小さな「労働」
→ベーシックインカム(お金を配る行政を強制するから)、アンチワークな法律、「サイキングアップ」など
③仮の豊かさ:アクセルかつ「労働」
→「苦痛主義」など
④仮の正しさ:ブレーキかつ「労働」(真ではない)
→ブルシット・ジョブ、競争
逆に考えればアンチワークの目的を持たない法は、将来的には撤廃される可能性があるのだ。つまり、身体や尊厳、自由、人権、安全安心を守るためのアンチワークな法律は概ね維持させる一方で、
社会的善を推進する法律(わざわざ明記しなくていいから)、細かい制度や手続き、お金や資産に関する法律はなくなる可能性がある。著作権などである。
余談:構造主義と実存主義の調停案が今後の哲学である。人は社会構造に囚われてもいるし、自分でも決めることができる、自分でも本来決められるのに囚われている。
アンチワーク哲学は、自分でも本来決められるのに囚われていることについて言及する立場である。
このとき、どのような構造が良くないもので、どのような構造は良いもので、どうすれば私達は悪い構造に抗い、よい構造を残せるか?が今後の哲学である。全部の構造を疑えとか、人間は構造に支配されてて絶対に抜け出せない!とか、人間は自由だ抗うすべがある!(どう抗うかは言わない)は、いずれ飽きられてしまう。
これを考えると、現代哲学の三つの転回(自然主義的転回・メディア論的転回・実在論的転回)のうち、この調停案を最もよく打ち出しているのは、自然主義的転回のITSR情報論理実在論(現実を簡単に満遍なく説明できたら優勝)だろうか。
ニーチェやら力の意志というのでアンチワーク哲学は観念論や構築主義に思われるかも知れないし、実在がどうか?は問いていない。その必要がないからだ。その点は竹田青嗣氏の欲望論っぽさ(いつまで構造実存問題であーだこうだしてるんだ先進もうぜ)もかなり感じるし、アンチワーク哲学はその先をいく行為と欲望の哲学である。とはいえ、構築主義が否定されたところでその後釜が構造実在論やプラグマティズムであるならば、アンチワーク哲学はそれに乗り換えることができる(レイヤーが浅い?社会哲学だから)。
この二つを比べた時、偶然の必然性のようなもの(言うてそんなこと起こるか?)をテーマとせず、厳密な実在を捉えるというよりも、いずれも普遍的で満遍なくとても簡単に現実を実用的に(具体的な解決策を目指して)記述する方法を目指している。この哲学の日常性は構造主義と実存主義の調停からしか出てこないだろうし、プラグマティックさ(じゃあ対案は?)を無視できない。
そういう日常的な哲学を人々は欲していたのであって、日常的さは今後の哲学に欠かせないと思う。だったら、哲学科博士課程を出た哲学者ではない人達をもっと哲学界隈は参考にしないとならない。その代表格がアンチワーク哲学なのだろう。
……そう思った。