宇宙が存在する理由②:「人類を科学する」への個人的な回答、現代哲学を参考にした更なる考察
前回の記事で、宇宙の作者がエントロピーであることを説明しました。
今回はそこから先に、現代哲学を参考に、なぜ宇宙が存在するのか?哲学的に考えてこの宇宙は何か?を説明を試してみます。あくまで、これは個人的な考えに過ぎません。枝葉の言葉遣いや引用は間違っているかもしれませんが、幹はこの主張です。
結論:宇宙は偶然ゆえに必然的に存在する。
そして、ここから個人的には納得のいく哲学的な洞察を得ることができました。当然、これが哲学的な主張になると考えてはおらず、あくまで個人的な洞察ですが。
「空」「形」二元性
まず大前提として、この宇宙の一番最初が少なくとも無でなかったことを利用します。何も無いものに何もしなければ、何も生まれません。
何かがあること「形」は明らかなので、少なくとも一番最初は「何にもなれないタイプの無」ではなく「何かになれるタイプの無(あるいは宇宙ではない何か)」があったことは確かです。ちなみに、今の物理学では真空自体にエネルギーがあるという考え方のようです。
そしてこの「何かになれるタイプの無」には名前がついています。これこそ、「空」と呼ばれるものです。
つまり、この宇宙ができる前にはビックバンを起こせるような「空」が詰まっていたのであって、真なる無(何もないものに、何もしなければ、何かが生まれるわけがない)は存在しないのです。「無」とは何かがあった「形」のあとに、その何かではない部分に対応したものとして現れるものです。つまり、「無」のほうが後付けです。
このため、「空」「形」二元性があると言えます。あくまで「空」「形」のどちらかになりうるという性質を持つだけで、「空」「形」二元「論」ではないところには注意が必要です。あくまで、今回は最低でも宇宙の最初は真なる無ではなく、それよりは何にもなりうる空だというメッセージになります。
以下のレビューでは、「空」と「形」、そして「非二元性」について詳しく書かれています。より詳細にはこちらを参考にすると良いと思います。
※あくまで本記事は個人的な感想に近いものであり、このレビューを参考にしたものの正確に反映していない点はご注意ください。
思弁的唯物論の「偶然の必然性」これが宇宙がなぜ生まれたか?の理由になる。
思弁的唯物論を説明すると非常に長くなるため、以下を参考にして書きます。
ここでは思弁的唯物論の「偶然の必然性」を支持します。
宇宙は偶然故に必然的に存在する。
これを支持するとこの宇宙を生じさせた、ビックバンは必然的に起きたと説明できるようになります。
なぜなら、この宇宙ができるよりは前には「この宇宙になることもできる、少なくとも何かにはなれる空」があったのですから。そこに偶然(つまり、裏表あるコインをなげ、表がでればビックバンが起きる行為)が始まれば、宇宙は必ず生じざるを得ません。
このため、この宇宙は偶然ゆえに必然的に存在するのです。そして、この偶然性と必然性の両方を持ったものこそがエントロピーです。
エントロピーの正体:「空」「形」二元性×「偶然の必然性」=「宇宙が偶然ゆえに必然的に存在する」
このように捉えることができます。ここでは「空」に対して偶然をぶつけることで必然的に「形」を生み出すものをエントロピーと捉えます。
以上から(ここで説明した)エントロピーによって、宇宙は必然的に存在します。そして恐らく宇宙は、「空」「形」二元性を帯びたオムニバース全体(すべてのコイン)の中で、コインの裏表のように半々程度で存在すると考えられます。
……もちろん、どの程度のオムニバースの体積に対してどの程度の数の宇宙があるかは物理学にお任せしますが。
これにより、この引用元のなかの「即自的なものの領域の必然性」を「宇宙の偶然ゆえの必然性」によってより深く支持したこととなります。
また必然的存在者は不可能ですが特にこれと矛盾するわけではありません。この宇宙は偶然存在するが、この宇宙は偶然存在させようとした動き自体は必然的に起きていた。コインが投げられたことは必然であったが、ちょうどここのコインが表だったことは偶然、という話となるためです。
ではここから更に先に進めます。
オムニバースより外側のものは存在しないのか?この宇宙の性質を理解しても、他のオムニバースにある別の宇宙のことは理解できないのか?
ここに回答を出すために。今度はマルクス・ガブリエルの新実在論の側面から考えてみます。
新実在論と思弁的唯物論の両立を試みる(どこがどう違うのか?)
現代哲学の中で新実在論と、思弁的唯物論が特に目立つものでした。しかし、新実在論と思弁的唯物論は、そもそも根底の考え方が全然違うため、相容れないどころか、この二つの間で揺れ動く議論もあまりなかったように思います。
思弁的唯物論はむしろ相関主義を突き詰めていった結果、相関主義を超えること。人間を優位に置く哲学を転覆させることを目指しています。
一方で、新実在論の目的は自然主義と構築主義の批判にあると言われています。自転車とサイクリングモデルでも説明されるように、むしろ新たな人間優位性を生み出そうとしている態度は真逆にも違い動きです。
ただ、全く相容れないものでもありません。
思弁的唯物論が示す以下のうち、新実在論でもいくつかは、賛同しています。
・「人間の認識の範囲外ではどのようなことでも起こる可能性がある(=偶然性)、という命題は人間の存在の有無に関わらず成り立つ(=必然性)。」
・必然的存在者は不可能である
・存在者の偶然性は必然的である
・矛盾した存在者は絶対に不可能であること(無矛盾律)
・即自的なものの領域の必然性
このうち、以下はむしろ強く支持されていると思います。
・必然的存在者は不可能である
→〇意味の場すべてを含む単一の世界は存在しない。
・即自的なものの領域の必然性
→〇認識と関係ない領域(自転車)を認めている。
このうち以下は、新実在論では気にしない問題となっています。意味の場に現れることが、偶然であっても必然であってもそれは根幹を揺るがすものではありません。
・「人間の認識の範囲外ではどのようなことでも起こる可能性がある(=偶然性)、という命題は人間の存在の有無に関わらず成り立つ(=必然性)。」
・存在者の偶然性は必然的である
つまり私が調べた限りでは、
・矛盾した存在者は絶対に不可能であること(無矛盾律)
が新実在論と思弁的実在論の一番相容れない部分だと思います。新実在論では、矛盾したことも意味の場に現れるので、これの存在を認めています。これを超えることが、この二つを繋ぎ合わせられる部分となるのではないでしょうか。
ここで、新実存主義が示す意味の場は、宇宙やオムニバースよりも大きい領域を表しているということを指摘します。ようは、新実在論は思弁的唯物論よりも大きい領域を扱っている。
つまり、新実在論のうち思弁的唯物論が通じない領域があるが、その領域を除けば思弁的唯物論が成立すると捉えることができます。そして、その領域が「矛盾した存在者」となります。
フィクションは新実在論の範疇ではあるが、思弁的唯物論ではない場所ということです。そこで折衷案に移ります。
両者を合わせた考え方
①基本的には新実在論を根底とする。
意味の場に現れたものが存在する。
全てを包括する意味の場は存在しない。
意味の場は宇宙より大きい。
即自的なもの(自転車、脳)の実在を認める。
②意味の場を矛盾した存在者を成立させられる領域(サイクリング、精神)と、宇宙領域(自転車、脳)に分ける。
矛盾した存在者は意味の場には存在するが、宇宙には存在しない。精神の領域(サイクリング)は宇宙の領域(自転車)には存在しない。宇宙がなければ精神は成立しない(脳は精神の必要条件である)。
自転車を調べても精神のことは分からない。
矛盾した存在者は精神の中に生み出すことができる。矛盾した存在者も同時に宇宙を調べても理解できない。
③宇宙領域(自転車、脳)では思弁的唯物論が成立する。
人間の認識の範囲外ではどのようなことでも起こる可能性がある(=偶然性)、という命題は人間の存在の有無に関わらず成り立つ(=必然性)。
宇宙は偶然存在する。あるいは偶然ゆえに必然的に存在する。
宇宙は認識に関係なく即自的に存在する。
宇宙での存在者の偶然性は必然的である。
④意味の場での意味の現れかた
意味の場には偶然意味が現れる。今後どのような意味が現れる可能性もある。矛盾する存在者は宇宙には存在せず、精神の領域に存在する。
しかし、矛盾しない存在者も精神の中に存在することができる。
宇宙での存在者の偶然性は必然的(どのようなことでも起こる可能性がある)であるため、精神の中に存在した無矛盾な存在は、これに対応する意味(存在)が宇宙にも存在しうる。しかし、あくまで対応しているだけで共通の意味を持つわけではない。
精神と宇宙の対応性:無矛盾な物語には宇宙に対応した存在がありうる。
そして、この「宇宙での存在者の偶然性は必然的であるため、精神の中に存在する無矛盾な存在は、これに対応する存在が宇宙に存在しうる」というのが、メインで伝えたいの趣旨になります。
例えば、数学は宇宙に元々存在していたものではなく、人間が精神側の意味の場に存在させた概念です。ですが、無矛盾であるが故に、宇宙にも対応したものが存在しているのです。1や虚数という意味が元々人類がいない時に宇宙に存在していたわけがありません。しかし、1+1=2や虚数などが無矛盾であったが故に、宇宙はその数学的法則に従っているではありませんか。
つまり、無矛盾な存在者は精神(サイクリング)側の意味の場に登場させたとしても、宇宙側にも対応したものが存在する。だから、物理学と宇宙さえも別の意味であるが、それは対応している。こうなるのです。
ただ少々強い主張をすると、無矛盾な物語を描いた場合、それはこの宇宙にこそなくても他の宇宙には存在しうるのです。「空」「形」二元性と、偶然性による必然性(エントロピー)によって。歴史も精神の中にあり、実際に起きていたこととは別物ですが無矛盾であれば対応しうるのです。つまり、他の宇宙のどこかにはあったとなります。
つまり、この宇宙、このオムニバース(この宇宙+他の宇宙+空)は無矛盾な物語によって記述しうることになるのです。数学はこの宇宙と矛盾しないのでこの宇宙でも成り立っています。しかし、それは数学という完全な形を取っているというよりは無矛盾ゆえに綺麗に対応しているのです。
この宇宙とは矛盾するが他の宇宙とは矛盾しない物語は、矛盾しない範囲で他の宇宙に存在しうる。もっといえば矛盾しない意味は矛盾しない範囲で存在しうる。もっともっといえば、矛盾した意味も矛盾しない範囲(精神)で存在できている。
意味の場のうち精神の側で現れるものであっても、無矛盾な存在者は、無矛盾な範囲において宇宙にも対応したものが存在しうるのです。どのようなことでも起こる可能性があるからです。とはいえ、あくまで対応でありちょうどそのものではない。
もしもあなたが何かストーリーを描くとします。それがストーリーの展開どころか登場人物の名前さえ全く一致した形で、どこか他の宇宙にあったとしても、意味の場においては別物となり一致することはありません。対応しているだけです。
そもそも数学や物理学さえも教えたところで、他の人間と一致した意味を持つわけではありません。AさんとBさんの数学は別物です。しかし、完全な相関主義ではない。宇宙を介した対応によって繋がっているのです。
宇宙での対応性があるがゆえにAさんとBさんが同じ数学の問題を、同じようにミスなく計算すれば同じ結果になるのです。これは宇宙という実在が、即自的に存在しているがゆえ対応させることができるからです。
Aさんの1+1=2とBさんの1+1=2は全く同じとは言い切れない。意味の場においては違う。しかし、対応している。だからCさんが回答に〇をつけることができる。
このため、これは相関主義を超えている。なぜなら、「人間の認識の範囲外は語りえる」からです。
何ならどう足搔いてもたどり着くことさえ許されないかも知れない、別の宇宙に対しても「語りうることはできる」からです。ただ、全く同じ意味を語ることはもはや意味の場に出した時点で不可能なので、あくまで対応しているに過ぎません。あとはこの宇宙では矛盾しているが、他の宇宙では矛盾していないこともあるので注意が必要です。
しかし、対応しているに過ぎないとしても語りうることはできる。AさんとBさんとCさんの1+1=2が対応していて〇が付けられる。これが調停案「思弁的新実在論・思弁的新実存主義」です。
つまり、もしもこの宇宙の外の別の宇宙を考えたければ、無矛盾な小説などを描くことを通じて表現することで理解できるのです。しかし、その小説の中身と、別の宇宙が凄く綺麗に対応していたとしても、その小説とその別の宇宙の意味が同じになることはない。という結論です。
宇宙は精神と独立して存在し、精神の中で無矛盾で存在するものは宇宙にも対応するものが存在し、矛盾する範囲では対応するものが宇宙に存在しない。これは「祖先以前性」と「信仰主義」の克服にも貢献しています。
人間が持つ精神「矛盾する能力」
人間は矛盾する能力によって、精神を明らかとし、かえって即自的なものや、数学を意味の場に出せるようになり、認識の範囲外を語りえるようになりました。
ゆえにサピエンス全史でいうように「噓をつく能力、噂をする能力の獲得」によって人類は発展を遂げたのです。精神と矛盾には深い繋がりがあり、これこそが宇宙と精神を対応させつつ隔絶する一つの主因です。矛盾は宇宙ではない精神側の意味の場のみに存在します。
人間の精神を知るにはこの矛盾も理解する必要があるということです。それは宇宙のほうを理解しても理解できません。
今後の哲学がこういう方向になるかは私にはわかりかねますが、こういう方向性になる可能性はあるということです。今回の記事も、宇宙と矛盾しない範囲で対応して存在しているのだと思います。
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