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ベーシックインカムちゃんねるを参考に社会を豊かにする真の正しさについて考えてみる。
豊かさと正しさの両方に問題がある
前回記事で、しっきーさんの「ベーシックインカムを実現する方法」における「豊かさ(アクセル)と正しさ(ブレーキ)の相反」について、アンチワーク哲学の視点から切り込んだ。
しっきーさんが定義する「豊かさ」「正しさ」の両方にアンチワーク哲学における「労働」=「他者から強制される不愉快な営み」があることを指摘した。
具体的には
「他人を有利にするため(集団のため)」に使うか、「自分が有利になるため(個人のため)」に使うかはトレードオフです。
この部分にアンチワーク哲学で切り込みを入れる。このトレードオフでない部分こそが真のアクセルとブレーキである。そして、その割合は決して小さくないとする考え方こそ、アンチワーク哲学なのだ。
今回はその続きとして、社会を豊かにする真の正しさについて考えてみる。
初めに、仮の豊かさ/真の豊かさ/仮の正しさ/真の正しさを定義する。
仮の豊かさと、仮の正しさは相反するが、真の豊かさと真の正しさには相乗効果があると捉える。これは以下のイメージだ。
ブレーキはアクセルのためにある。車はブレーキがなければ事故を起こすか、あまりアクセルを掛けることができない。だからある程度までは、ブレーキあることでアクセルを強めることができる。
とはいえ、ブレーキはブレーキだ。それ自体は車を減速させる。ブレーキをアクセルだと考えるのはひどい誤謬だ。過剰ならば弱めなければならない。
ようは、事故を起こすアクセルはせず、必要なだけ機能するブレーキがあればよい。必要な分だけアクセルとブレーキがある安全に機能する車を人々は求めている。
どんな車を目指すかを捉えられれば、欲しい車が手に入る。この車では、ブレーキはまさにアクセルのために機能する。
アンチワーク哲学はなぜすごいのか?
アンチワーク哲学は人々がどんな車を目指し、どんなアクセルはダメか、どんなブレーキがいいかを明らかにしている。これこそアンチワーク哲学の真髄だ。
ゆえに真の正しさと豊かさを考える上で欠かせない。そこでアンチワーク哲学をもとに真と仮の違いを書き出す。
真か仮かはアンチワーク哲学によって決めることができる。
豊かさ、正しさいずれにせよ、真か仮かは
「アンチワーク哲学における労働」=「他者から強制される不愉快な営み」であるかで決定され、図のように考えることができる。
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真の豊かさと、真の正しさが相乗効果を持つのは「労働」を軽減するからだ。これを参考に分類をする。
①真の豊かさ「貢献欲」
真の豊かさとは、「労働=他者から強制される不愉快な営み」が少ない状態を指す。
真のアクセルとは真に豊かな社会を維持、成長させるのに必要な営みだ。「労働」ではない経済活動である。真のアクセルは、「労働」でない生産活動によって「労働」の少ない状態を目指す。
具体的には、「自発的に行われる愉快な営み」のうち、他人にも「労働」とならない営みである。これを明快に表した言葉が「貢献欲」だ。
一番厳密に言えば、貢献欲が本能でありかつ、協力を促すものだから、幸せになれるし豊かになれるのである。
例:ベーシックインカム(後述)、趣味、DIY、ボランティア、募金、応援、社会貢献など
イメージ:貢献欲によって行われる主体的な活動、協力主義
②仮の豊かさ「暴力、強制、支配」
仮の豊かさとは、社会維持、組織の維持、経済成長に用いられる暴力、強制である。これはまさに強制によって社会を維持、変化しようとする営みだ。これらを用いて経済発展などを目指すことを仮のアクセルと捉える。これは本能に反するため、不愉快となる。
例:戦争、暴力、革命、クーデター、身分、差別、パワハラなど
イメージ:強権的な組織活動、権威主義
③真の正しさ「アンチワーク」
真の正しさとは、仮の豊かさ、仮の正しさにブレーキをかけ、「他者性、強制力、不愉快さ」を軽減し、より真の豊かさに集中させる営みを指す。仮の豊かさ、仮の正しさにブレーキを掛けることを真のブレーキと呼ぶ。
例:反暴力、反差別、制度の簡素化、働き方改革、ベーシック休暇、ベーシックインカム(後述)など
イメージ:アンチワークマン、平和主義
④仮の正しさ「競争の強制」
仮の正しさとは、間接的な暴力、間接的な強制力によって豊かさのリソースを消費する営み、アンチワーク哲学における政治活動である。仮のブレーキは、真の豊かさにブレーキを掛けるがゆえに、アクセルとブレーキの相反を引き起こす。
例:ブルシットジョブ、受験戦争、恋愛競争、メリトクラシー、労働競争、弱者の競争、行政手続き
イメージ:ブルシットジョブ
仮の豊かさと真の豊かさの説明
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真の豊かさとは「貢献欲」によって行われる「しっきー的不自然な、ホモ・ネーモ的自然な協力」を指す。主体な貢献により「労働」を代替する。
「労働」が少ないことで、「貢献欲」が解放され、更に真に豊かになるものを指す。「労働」が減ることで人々はより自発的に貢献活動をするようになる。
仮の豊かさとは、「労働」によって行われる不自然な協力を指す。仮の豊かさは強制により、やりたかったことをやりたくなくす作用がある。それを仮の豊かさで行わせるには、より強力な「労働」が必要となる。
仮の正しさと真の正しさの説明
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真の正しさとは、仮の豊かさ・仮の正しさの「他人性、強制力、不愉快さ」を軽減し、「労働」のない真に豊かな社会を目指すことである。
そのうち仮の豊かさ、仮の正しさの「労働」に対してブレーキを掛ける作用を指す。
一方で仮の正しさは、競争へ強制参加させ、間接的な暴力をちらつかせて、より仮の正しさへと向かわせる。そして、それ自体は生産活動ではなく儀式に近い活動のため、豊かさを切り崩してしまう。
特に強制的な競争は、より人々を競争わせる。苦しいからより競争が激化し、より苦しくなる。豊かさを切り崩すため、さらに苦しくなる。
仮の正しさは真の豊かさと仮の豊かさの両方を阻害し、主には真の豊かさを阻害する。真の正しさは仮の豊かさと仮の正しさの両方を阻害する。
仮の豊かさの問題点:事故を起こすまでそれで走れてしまう。「労働」が許されてしまう。
以上から真の豊かさ、仮の豊かさ、真の正しさ、仮の正しさはいずれも自らを強化する性質がある。
仮の豊かさの場合、人々はやりたくなくなり、反抗的になる。すると、押さえつけるためより仮の豊かさが使用される。この仮の豊かさの応酬が繰り返された時、虐待や圧政や革命や戦争が起こる。
著しく加虐的な人間や集団がいる理由はこのためである。彼らが本当に加虐的なのではない。そのような傾向が仮の豊かさにはあるからなのだ。
仮の豊かさの問題は、世界で戦争が起きる原因と同じである。仮の豊かさの解決が世界平和をもたらす。それが仮の豊かさであるからこそ、事故を起こすまで走り続けてしまう。これだけ集団の加虐性が批判されても消えないのは、仮の豊かさを真に正しく対策できなかったからではないか。
真の豊かさとは加虐的でない状態である
それに、加虐的でないことが究極の豊かさであり、豊かさと加虐性が同値だとは考えない。この点については、「ベーシックインカムを実現する方法」よりも、「アンチワーク哲学」を徹底して支持する。
とはいえ、これまで加虐ゆえに生み出されたイノベーションを捨てるという話ではない。ここでは、アクセルとして一つにせず、真と仮の二つに分かることを提案した。
仮の正しさが真の正しさに繋がるケース
かつては仮の正しさに、部分的に真の正しさを乗せることで、仮の豊かさに対抗してきた。仮の正しさとは、仮の豊かさにある直接的な強制や暴力を間接的な競争や暴力に変える営みである。
貨幣は国が食料を没収するより直接的な暴力(年貢)を、税という間接的な暴力に置き換えた。
食べ物を取られればすぐに死んでしまう。が、お金を取られても生き延びる手段はある。そうやって、暴力は遠く押しやられた。しかし、強制は残っている。むしろ、間接的にすることでより強固な強制へと変化させているのだ。
これは、間接的な暴力に変わりはなく、大半の人々は人生の大半の大半を金稼ぎに強制されている。
以上から仮の正しさであっても、直接的な暴力を抑えた場合は、部分的に真の正しさとして機能する。
仮の正しさが仮の豊かさに繋がるケース
教育虐待のように仮の正しさが、仮の豊かさを進めてしまうケースも多く見られる。つまり、仮の正しさと仮の豊かさが手を組むと地獄となる。とはいえ、その地獄も結果的にはマシと言えなくもない。第二次大戦中ヨーロッパの何倍も、ある原住民の殺人率が高いことなどが挙げられる。しかし、地獄は地獄であり、今のブラック企業は仮の豊かさによる加虐さと、仮の正しさによる内部抗争の二つで成立していることが分かる。
ようするに、真の正しさほどに仮の豊かさを制限する効果はないと見る。むしろ、真の豊かさを邪魔することで、仮の豊かさが増す場合もある。
仮の正しさの問題点は「政治活動」だから
仮の正しさが過剰となると、人々は辛いがゆえにより競争してしまう。ゆえに、より辛くなるという辛さの競争に借りたてられる。お金が足りないからよりお金を稼ごうとして、激しく競争するほど稼ぐこと自体が厳しくなっていく。そしてその競争はお金を稼ぐための儀式に過ぎず、絶対的な生産を行わない「政治活動」のため、全体のパイは縮小する。
仮の正しさの過剰をどう対策するか??
今の日本社会は過剰な仮の正しさが真の豊かさを切り崩していることが問題である。これは、社会貢献=「労働」という誤った定義が世間でなされていることからも伺うことができる。
ここで明らかに前提されているのは「労働=社会への貢献=ダルいし面倒くさい」という定義である。この定義はさほど吟味されることなく常識として受け入れられていることが多いわけだが、実を言うと労働の定義として優れているとは言い難い。
「市場のルール」は、「より多くの貨幣を稼いだ者がより多くの分配を手にすることができる」というある種の競技を社会にもたらすのですが、そこにおいて、スポーツなどの競技と同様に、「相手を不利にする(貨幣を支払わなければならない状況に相手を追いやる)」インセンティブが生じることになります。
これこそが仮の正しさを物語っている。そしてこれは特にやりたいことでもなく、自らの待つ「貢献欲」と反するため精神的なダメージを受ける。
この解決には、「そこまで分配に迫られていないこと」が求められる。
なぜ仮の豊かさと正しさは支持されていたのか?
では、なぜこれほどに仮の豊かさや仮の正しさは支持されてきたのか?仮の豊かさと仮の正しさを支持する集団が生き残れてきたのか?どうすれば解決するのか?考えてみる。
これは仮の豊かさの即効性、トータルで上手く行っている間は疑われにくいこと、自己強化性があるため一度進んだ時に後戻りしずらいからであろう。
競争の勝者が競争のルールを決めてしまう。ゆえに、その競争の勝者自らの首を締めていたとしても止められない。彼らもまた「労働」の被害者なのだ。彼らがFIREする手段の不在が競争を過酷にする。止まれない人でないと矢面に立てなくなってしまうのだ。このため、労働の分配が少ないからより労働の分配を得ようとして労働の分配をさらにすり減らしてしまう。
この解決こそが、社会問題を解決する方法である。まさに、この指摘として「アンチワーク哲学」は的確なのである。
そもそも競争は間接的な「労働」である。
そもそも競争とは間接的な暴力性をもち、強制であるとより辛くなるため、競争の「他人性、強制力、不愉快さ」を減らす必要がある。
そして心理的安全性などが保ち、やりたい人だけがやっているスポーツやゲームのような形を目指す。
では競争は悪か?
とはいえ、競争そのものの完全な廃止は、かえって協力関係を妨げるとの指摘もある。
「競争は悪」と調べた場合でも、競争の重要さと過剰な競争を指摘する記事がでてくる。
全ての競争が仮の正しさではないと。
競争は間接的な「労働」である。しかし、より辛い「労働」を軽減させる時は、真の正しさとなる。直接的な「労働」を軽減する競争であれば一旦は「ある程度真の正しさ」と考える。
たとえば、ブラック企業から逃げるための転職活動は、「労働」を軽減するより小さな「労働」であり、「ある程度は真の正しさ」の側にある。
日本でいえば、低賃金長時間労働のハードワーキングプアから、低賃金短時間労働のワーキングプアへの移行が進みつつある。これは、これまで働いていなかった高齢者や専業主婦などの労働参加によるものである。これにより、職場の体制変更が余儀なくされ、低賃金かつ長時間労働の「労働」は淘汰されつつある。本来働かなくて済んでいた人達が労働をすることは仮の豊かさだが、元から働いていた人に対しては真の豊かさとなる。
「資本主義が足りていないとする派」はまさに市場原理を通じたブラック企業淘汰を訴えている。このこと自体はより労働を小さくする目的がある。
仮に労働基準法を遵守しながら、従業員の我儘が増長しないようにするひとつの解決策は、おそらく徹底した成果主義の導入ではないでしょうか。
労働基準法は、きっちり守り、権利は保障する。しかし、会社として、できる従業員は熱く処遇するが、できない従業員は冷遇する、そんな厳しさがないとバランスが取れないと思います。
成果主義のない、例えば年功序列の会社で労働基準法を遵守なんかすると、会社をたちまちぬるま湯組織にしてしまい、烏合の衆になってしまうような気がします。給料泥棒があぐらをかく、そんな最悪の組織になってしまうのではないかと思います。
経営者として筋を通しているわけですから、従業員にも筋を通させる、そんな厳しい姿勢も必要です。
成果主義は競争のため、仮の正しさである。しかし、ここでは労働時間が短いという真の豊かさを引き出す手段として言及されており、この点は真の正しさとなる。この競争は「労働」かつ「アンチワーク」だと言える。
あくまで競争とは、それが間接的な「労働」であることを受け入れつつ、主体性の発揮や「労働」の削減から役立つツールとして受け止めることが良いだろう。
競争を主体的な「目標」で代替する。
もっとも、強制された主体性のない競争が「労働」である。これを主体的な「目標」に入れ替えることざ可能だ。この「目標」も自らの行動に制限をかけているから、ブレーキの側にあると言える。
「目標」とは、選択と集中によるアクセルを掛けるためのブレーキであり、まさにアクセルのために存在するブレーキなのだ。
無論、目標もまた他人から強制されれば「労働」となる。まさに、子供がゲームを嫌いになる方法には「目標設定」がある。「目標」も主体性がなければ「労働」となる。これは「目標」が競争の一部であることを示している。主体的に目標を立てることは大前提である。
料理がうまい、カルタが強い、将棋が強い、一発芸がうまい、ダジャレを作るのがうまい、ファッションセンスがいい。何でもいいから、人に勝てるものがあり、それをコフートが言うように認め、ほめてやることで、その子の自己愛は満たされる。
これは、子供の教育に限ったことではない。
人と比べるとか、自信が持てないという人は、自分が勝てるもの、勝てるジャンルを探せばいいのだ。
仮の豊かさと仮の正しさを克服するために
仮の豊かさと仮の正しさの共通点は、それが強制的で嫌であるが『ゆえに』より嫌になることにある。『ゆえに』である。つまり、ちょっと嫌なうちに受け止める根性論を完全否定はしない。かつてのモーレツ社員はブラック企業社員よりは幸せだったのだ。とはいえ根性論時代は、犠牲を強いてきており、解決したい。
強制されない抜け道を作っておく
その性質がある以上、強制力や嫌さに対する抜け道があるほど、仮の豊かさや仮の正しさは相当緩和される。つまり、ベーシックインカム以外にも「労働」を小さくする手段が沢山ある。
たとえば、Fireは現に「労働」の抜本的な解決手段にはならない。しかし、それがあるだけでも「労働」が楽になる。抜け道がある中で、それでも選んでいるという自発性を生じるためだ。
このように「労働」を部分的に「貢献欲」で代替する。それが連なった結果、社会全体の「労働」が小さくなる。現にベーシックインカムのような抜本的な対策がされない現状で「労働」を扱うならば、いかに「貢献欲」を生じさせるかに掛かっている。
それは単に「労働」が不愉快だからだけではない。まさにその「労働」が「競争」によって加速度的に悪化していると(絶対値的には案外マシになっているにしても)人々が感じていることが、社会問題の根底にあるからだ。
仮の豊かさと正しさ≒現代の社会問題そのもの
不愉快だからこそ、加速的に不愉快になるから問題なのだ。人は好き好んで「労働」をしない。むしろそれが嫌で嫌でたまらないから、より「労働」をしてしまう。この構造をメタ的に捉え「真に豊かで、真に正しく」ボイコットすることが肝心である。
真に豊かで正しい社会を目指す、「労働」からの抜け道が沢山ある。
ようは抜け道があるだけ強制力が抑えられ、苦しまない選択肢を取れる。その分だけ負のスパイラルから解放されていく。「労働」の負のスパイラルが解体され、実際に「労働」が楽になる。
だからFireがある世界はFireがない世界より楽である。一方で、逆にいくら太い抜け道でも、その一本だけに強制はできない。
このため、他の方法「も」あるという状態でベーシックインカムが配られることで「労働なき世界」は達成される。
結論:真に正しい社会を実現するために「労働」の抜け道を沢山つくり、人々の持つ主体性、貢献欲を解放する。そのメインはやはり「ベーシックインカム」だ。
「他人により強制される不愉快な営み」を解決するには、まさに多様なアプローチが考えられる。今の社会でみられる、真に正しいブレーキには「テレワークの推奨」や「働き方改革」などがある。
こうした流れは、ざっくりと言えば労働時間を削る、労働の過酷さを楽にする。これを更に推し進めるため、私は6月の中旬に国民の休日を設けるベーシック休日を提案している。その根拠として、労働時間を削ってもGDP的な視点での経済活動さえ弱らないという指摘をしている。
第二章:ベーシックインカムの実現に向けて「とはいえ、やるべきはベーシックインカムだ」
しかし抜本的には「アンチワーク」の中心的はベーシックインカムだ。その理由は、まさに直接的に「労働」を軽減するからである。ベーシックインカムこそが社会問題解決の中心になることを認める。
なぜベーシックインカムなのか?の結論は出ている。
このことを、まさに「アンチワーク哲学」と「ベーシックインカムを実現する方法」がより深く本質を突いた指摘をしている。ここから、更なる結論を得たいと思う。
ここまで話しておいて難ではあるが、この真の正しさの実現のために必要なプロセスは、当然ながら、彼らのほうが遥かに深く考察している。
しかし、本文は真の正しさと豊かさを提示することだけが目的ではない。社会を豊かにする上で必要な真のアクセルについてより深掘りすることなのだ。
……そこで更なる結論を出す。
更なる結論:社会を真に豊かにするアクセルの定義こそより重要である。
というのも、ベーシックインカムはかなりブレーキに見えるからだ。ベーシックインカムはお金を移動させる活動であり、これを見れば、真の豊かさというよりは真の正しさだろう。
それがベーシックで手間が省けることも豊かさというよりは真の正しさである。今が仮に正しい社会だから、ベーシックインカムは「仮のブレーキに対する真のブレーキ≒真のアクセル」となるのだ。
ベーシックインカムは「真の正しさ、真のブレーキ」である。
ややこしいのは、仮に豊かな社会や、仮に正しい社会においては、「ベーシックインカム(真のブレーキ)=仮に対するブレーキ≒真のアクセル」だが、「ベーシックインカム≠真のアクセル」だということだ。
ベーシックインカムは人々の貢献欲を発揮させる手段に過ぎず、貢献欲が発揮された後に行われる経済活動そのものではない。お金を配ることそのものが道路を整備することではないように。
貢献欲がベーシックインカム反対派に対するクリティカルな説得になる理由
すると、ベーシックインカムが「真のブレーキ」であるがゆえに、「真のアクセル」の不在が懸念される。この文脈での批判に立ち向かうものが貢献欲である。そして、まさに人が貢献欲を持つのに、それを仮の豊かさと、仮の正しさが封じていたから、ベーシックインカムは真のアクセルのように振る舞う。このことの指摘がまさに社会にとってベーシックインカムが必要な理由の本質を突いている。
結論:ベーシックインカム「アクセル→真のブレーキ」ベーシックインカムの捉え方が変わる
ベーシックインカムとは、仮の正しさ(政治活動)を国家が効率的にベーシックに配るという行為で代替したものである。これは、真の正しさ、アンチワークであり、アンチワーク自体はブレーキである。
お金を配ることが道路を整えることではないように、ベーシックインカムには「貢献欲」がセットである。その文脈において、やはりベーシックインカムは真のブレーキなのだ。
これは、決して悪いニュースではない。むしろ、ベーシックインカムがこれまでに指摘されてこなかった可能性を切り開く。
第三章:途上国やインフレの国でも、通用するインフレ対策としてのベーシックインカム
ベーシックインカムが労働なき生活を保証するものである以上、ベーシックインカムが成立するレベルで物の価格は上げ止まる可能性がある。
ベーシックインカムの配られる額がハイパーインフレしていなければ、ハイパーインフレを起こさず、ほどほどのインフレに安定させることができる。
つまり、ハイパーインフレの国家はベーシックインカムを配ることで、通貨が国民の信用を得て国家財政をかえって安定させられる可能性が高い。このとき国家の治安は大きく改善する。
ようは、今の経済学が目指すほどほどのインフレ率に安定化させる目的も達成できる。特にアルゼンチンのようなばら撒きが多発する国では、国債発行によるベーシックインカムこそが真に求められる。
一方で、少ない額で配られると、その少ない額でやりくりするようになり、デフレを引き起こす。他の歳出をカットするやりくり主義のベーシックインカムは程度次第ではデフレを引き起こすだろう。
提案:日本国でBIを実現する方法①やりくり方式:消費税によるインフレコントロール
日本のベーシックインカムがやりくり式の場合、消費税減税と合わせることになると思われる。
この時に、消費税は日本を強くデフレにできるからこそ一定割合は必要だと筆者は考えている。
減税のインフレ力は、増税によるデフレ力ほどにはないにせよ、消費税減税をすればある程度インフレになると思われる。とはいえ、これはやりくり主義的な価値観の下であることは否めない。
ベーシックインカムを供給してもあまりインフレにならないならば、国債発行型も支持できる。しかし、ベーシックインカムは持続的でなければならず、インフレのコントロールは必要である。他の再度との舵取りも欠かせない。
しかし、アメリカのような減税しただけ、歳出しただけインフレになる国より遥かに日本はベーシックインカム実現の可能性が高い。これは、「①やりくり主義②国債発行主義」いずれの場合でもである。
以下提案→この提案では、MMT(現代貨幣理論)の枠組みの中で、日本が消費税を用いたインフレコントロールを行い、他の財政制約を実質的に取り除くという考え方が示されています。具体的には、消費税を上げることで確実にデフレを誘導できるという点に着目し、インフレが過剰になった場合に消費税を引き上げる「保険的な制度」を導入することで、インフレリスクを効果的に封じ込めるという発想です。
この制度が確立されれば、インフレリスクを抑えつつ、他の税制や政府支出をより自由に設計できるようになります。特に、ベーシックインカムの導入が議論の中心に据えられており、消費税によるインフレ抑制を前提とすることで、労働を他者から強制される不快な活動と捉え、その削減を目指す社会が構築されるというビジョンが描かれています。
この提案における重要なポイントは以下の通りです:
1. 消費税によるインフレコントロール:日本は消費税率を操作することで、確実にインフレやデフレをコントロールできるシステムを完成させたという前提。→2019年以降は駆け込み需要もほぼ消滅しており、駆け込み需要によるインフレ率増加を予め防げている。逆説的にこれが①の説を強く支持するデータとなっている。持続化給付金も貯蓄されており、国民の貯蓄を回復させることも労働なき社会への一歩である。
2. 財源制約の撤廃:インフレリスクを抑えることができれば、他の税金や政府支出の制約が減少し、より柔軟な政策が可能になる。
3. ベーシックインカムの導入:インフレリスクを抑えつつ、労働を強制されない社会を目指し、ベーシックインカムを大胆に導入することが可能になる。
4. 労働からの解放:インフレ管理の手段が確立されたことで、従来の経済的な労働の役割が縮小し、労働を強制されない社会が実現できる。
このモデルでは、消費税の役割が非常に大きく、他の政策とのバランスがどのように保たれるかが鍵となるでしょう。
日本国においてベーシックインカムを実現する方法②国債発行主義:インフレ目標の引き上げは必要か?
日本はコロナ禍で配られた持続化給付金を他国と比べ遥かに貯蓄に回した。ベーシックインカムは貯蓄を再生する仕組みとして有力である。ベーシックインカムが配られれば、借金返済→貯蓄→株式投資→必需品消費→娯楽的消費の順で回る。
日本は個人がほとんど借金をしない。このため、多くが貯蓄に回る。日本型経済ではお金が配られても一部しかすぐに消費に回ることはない。それも、多くはこれまで買えなかった生活必需品を買うことに使い、これはあまりインフレをもたらさない。このため、国債発行でお金を配ってもインフレを招かない可能性が高い。しかし、多少の消費は増加するため、どの程度インフレをもたらすかを注目する。
制御装置を消費税など強力な制度に求めるか、ブラケット・クリープによる実質的な増税でインフレを収めるかはなお考える必要がある。
とはいえ、ベーシックインカムは額面で制御できる役割もある。問題は、国債発行で実行すれば投資されて、確実に円安株高にはなるため、この円安をどの程度受け入れられるか?も考えつつの実行になる。インフレ円安の目下では手探りでゆっくりと配りつつ増やす方針になる。
・結論:やりくり主義的なベーシックインカムはデフレ、国債発行によるベーシックインカムはインフレを起こす傾向がある。しかし、ハイパーインフレの国には国債発行によるベーシックインカムは(額面がハイパーインフレしてない限り)むしろインフレ率を低下させる。
・より経済学的に説明すると、ベーシックインカムのインフレターゲティングと、やりくり主義(デフレ)⇔国債発行(インフレ)の使い分けによりインフレ率を制御できる。ただこの性質も持つ以上は、気をつけながら導入していく必要がある。やりくり主義の場合、日本国では消費税率と金利によるインフレ率操作が特に有効だと見られる。
・これはまさにベーシックインカムがブレーキだから起きている。ようは煩雑さ(仮の正しさ)に対するブレーキになっている。
結局、導入は博打だが、新たに通貨を刷新するたびにハイパーインフレになる国にこそベーシックインカムだ。が、日本のようなインフレになりにくく、インフレをすぐに終わらせる手段(消費税増税)を持つ国こそベーシックインカムに適している。
ベーシックインカムは決して最先進国だけのものではない
ようは、ベーシックインカムがスイスや北欧のような最先進国だけのものとGDP的な発想で切り分けて考えるのこそ幻想である。ベーシックインカムは全世界で検討していくべき真に正しい政策である。
第五章:真のアクセルを深掘りする
とはいえ、お金を配ることが道路を整備することそのものではないように、ベーシックインカムを真のアクセルそのものだと考えるのは誤謬だ。
今の社会は仮の正しさと仮の豊かさに覆われている。だから、ベーシックインカムは真のアクセルとして働いているように見えるだけに過ぎない。
だとすると、その意味での真のアクセルとはなんだろうか?貢献欲だというのはわかった。だとして、特にどのような貢献活動が真に社会を豊かにするのだろうか?
貢献活動は強制されていない
仮の豊かさや、仮の正しさが過剰であるにも関わらず、幸せな人も沢山いるし、ほとんどの人が社会で生きている。貢献活動も強制ではない。むしろ、貢献活動までサボる人が多少いたくらいでは生活基盤が失われないのだ。それどころか、強制されないという気楽さが真の豊かさを生み出す。
経済学的な視点から見ても、先進国の多くが労働時間が少ない国であり、労働時間が増えるほどGDPが増えるようには相関していない。これと同じ現象が貢献欲にも通じていると考えられる。
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では、この生活基盤を支える経済活動をどのような貢献活動で進めれば、真に豊かになれるのだろうか?より少ない「労働」で、より整った社会インフラとなり、人々が生活水準の向上を体感するのだろうか?
これこそが、まさに真の豊かさの最深部にあり、真のSDGs?(社会のゴール)を浮かび上がらせる。
「アンチワーク哲学」に基づいた集団の価値判断が必要となる。
この点について、ベーシックインカムを実現する方法の第7章が答えの提示をしている。
「世界平和」は、生活の安心や社会の存続に十分なほどの「集団性(豊かさ)」と、市場やメリトクラシーや社会福祉などの「個人性(正しさ)」の両方が機能することで、実現に向かっていく。
ここに「アンチワーク哲学」を加えることで真のアクセルは定義できる。この第7章に対して言いたいことは、生産能力の向上では「労働」の抜本的な解決はしないという点だ。
ロボットが動く喫茶店の例
ロボットだけで成り立つ飲食店を想定すると、他の細かな作業はお客さんの自発的な貢献活動によって成立することになる。言ってしまえば、店に凄く美味しいコーヒーの出るコーヒーサーバーだけがあり、客はそれを注げばいいのだ。
それがあれば、ロボットだけの飲食店も可能だ。
自販機の自動化は小さな貢献欲によって成立している。このように「労働」は生産能力の向上だけでなく、貢献欲も必要としている。大まかなコーヒーを入れる作業を自動化し、他の細かな作業だけお客さんが自らの貢献欲で行う喫茶店は成立する。
しかし、貢献欲がないだけ人の手がどうしても必要となる。だから、貢献欲に基づく生産能力の向上が「労働」を軽減するのだ。
つまり、自発的に遊びでやっている店長と、ロボットとお客さんで分担することで「労働」をなくす。この視点なくロボットだけで「労働」をなくすことはできない。つまり、店長とお客さんの貢献欲という視点だ。
ここが完成されていたら、ロボットがそこまで必須とものとも思わない。コーヒーサーバーと持ち込みの洗ったコップでいいのだ。
それでさえ、たとえばコロンビアでコーヒーを取る人の「労働」や、コーヒーサーバーをメンテナンスすることが強制される「労働」を無くす試みが更に必要になる。
言ってしまえば、機械にかかわらず今の「労働」は「貢献欲」で代替できる。強いて言うなら、機械があるほうが「貢献欲」がピンポイントで済むようになる。これこそが機械化を支持しつつも、貢献欲が根底に必要だとする例なのだ。
本文で示したように、真に豊かな社会を目指すためには、全くとして加虐的ではなく、「労働」がより小さい方法で生産能力の向上を行う必要がある。
……今説明したように、店員のいない店を成り立たせるために貢献欲を発揮することは加虐ではない。無駄な広告に人生を使わされることのほうがよほど加虐だろう。むしろ、自前のコップを綺麗に洗って持ってきて、ガチャポン屋の感覚で色んなコーヒーが飲める店に行ってみたくはならないだろうか??
特に嫌なことでもないし、嫌ならその店を選ばないだけなのだから。これこそが、真のアクセルが何かを浮き彫りにしている。
それ自体がベーシックインカムではないとすると、この方法とは何か???これこそが本文が最も示したかったことだ。
その点において、ベーシックインカムを実現する方法は極めて適切にアクセルを説明している。
……アクセルとは集団の大きさ×価値判断の強さで決まると。かつ、グローバルと個人の中間に位置するものだと。
ようするにこう捉えることができる。
アンチワーク哲学を導入していない大きな集団の強い価値判断は仮の豊かさ、仮の正しさつまり、「労働」になりかねない。
……社会全体での学歴競争も、小さな集団での勉強合宿も、親からの勉強しなさいも、他人から強制されて不愉快ならば「労働」である。「労働」であるかは集団サイズには寄らない。
しかし、アンチワーク哲学を導入した大きな集団の強い価値判断「強い貢献欲」は真に豊かな社会を実現する。
つまり、大きな集団が強い貢献欲をもってアンチワークを実行すると、社会は急激に真に豊かになる。
これはつまり、グローバルベーシックインカム舵を切ることである。ただグローバルベーシックインカムだってやはりブレーキである。そうなった時に、何が起こるか?が真のアクセルだ。
そして、強い貢献欲に基づきつつも、参加を強制されていない経済活動がその正体となる。そして、その貢献する対象が限られていても、他に対して労働になるわけではない。
逆にその目的以外では、「ベーシックインカムを実現する方法」同じく「多数の弱い集団」による集団安全保障を目指すことになる。
ようするに強い集団をアンチワークに特化させる。国家はまさに「労働なき世界の実現のため」に動くことになる。
人々の「労働」削減のために、「貢献欲」に基づいて生産能力を向上させ、社会インフラを整備する。
その時に行われる真のアクセルとは?
このときに持続的な社会インフラを整備していくが、任意となる。ゆえに自発性と主体性を発揮し、より高い質になる。また、一方的な支援の強制などでもなく、主体性、貢献欲の発揮を目指す。
真の豊かさとは?
これをベーシック貢献活動と呼ぶこととする。これはとても自然なことである。まさに世界全体をベーシックに真に豊かで正しくしようとする試みが、真のアクセルとなる。そこでこの文が参考になる。
もちろん多くの人が耐えられないような「社会」もそれはそれで破綻してしまうので、「自然な本能」をまったく無視することはできないのですが、不幸ではあるが破綻しない程度に集団へのコミットを強制する「不自然な社会」を形成してきた集団が生き残りやすかった、ということです。
つまり、仮の豊かさは「自然の本能(貢献欲)」を否定し、強制によって仮に豊かな社会を維持してきた。
しかし、真の豊かさは「自然の本能(貢献欲)」を発揮させることで強制を減らして社会を真に豊かにすることができる。貢献欲は、人々の本能であるからこそ真の豊かさと真の正しさは補完し合う。
この時、自発的な貢献こそが自らの生活を楽にするものだと共有する必要がある。豊かさという全体的なアクセルから貢献に全世界が集中していく必要がある。そのためには、どのような構図がこれを封じているか?を考えなければならない。
中世の恐ろしい拷問の話を読んだら
なぜ そんなことが出来たのか
犠牲者をかわいそうだと思わなかったのかと
思うでしょうが 彼らにとっては
自分と似た存在だとは思いようもない―
ただのよそ者に過ぎなかったのです
他人と立場を入れ替える想像を
容易にするものは何でも 他人への配慮を
高めるのです
このようなかつて存在した加虐性のあるアクセルをやめ、真のアクセルに集中していく必要がある。そのためには、かつての時代が加虐的であったこと、それが人間が加虐だからではなく、仮の豊かさが過剰であったからだとして、真の豊かさに舵を切る必要がある。つまり、いつかは労働を中世の恐ろしい拷問の話としてしまうべきなのだ。
A.労働なき世界とは、自然の本能(貢献欲)がフルパワーで発揮される社会である。
最終章:内発的動機の最大化の提案
つまり、内発的動機に基づく自律的な行動を自由と捉え、この自由の最大化に挑む。
「自由」とは常に内発的であり、無動機や外発的な営みは「自由」ではない。この前提の元で最大限の「自由」を目指す。
真の豊かさは、内発的動機による活動
真の正しさは、無動機、外発的動機の活動制約
仮の豊かさは、無動機、外発的動機による活動
仮の正しさは、無動機、外発的動機による活動制約
そのためには、いかにして内発的動機付けが有効であり、これがベーシックインカムを支持するかを皆に知ってもらう必要がある。以上。
追記:ベーシックインカムとSDTに関してはまさに現在進行形で議論されている。これを元にして今後の地球社会を作ることを議論していくべきだろう。アンチワーク哲学はこれを凄くわかりやすく捉えていると思う。2024年の研究にしっかり基づく発言をしているため、極めて社会科学的にも支持できる。
https://onlinelibrary.wiley.com/doi/epdf/10.1111/joms.13075
ツッコミどころもかなりあるかもですが、概ねこんな流れだと私は思ってます。これで多少なりとも参考になれば。