日本の戦争文学/安岡章太郎「質屋の女房」
安岡氏の短編は書き出しがうまい。
この後の一文、
には安岡氏のユーモアがある。
安岡氏の小説には、肉体的な母親が出てくる。「女」性を奇妙な形で引きずった、不気味な(しかし憎むこともできない)不思議な存在だ。
この母親は彼女が「嫌っている僕の友人」の手紙を「ラジオの上に」載せておく。
しかし、ここで詰問すれば、
から、「僕」は文句も言えない。
タイトル〈質屋の女房〉の初登場シーン。
村上春樹氏の言っていたことだ―安岡氏の小説では肉体的/性的な女性に対する妖精的な女性が出てくる。それが〈質屋の女房〉である。
この後の
「それよりも彼女の云った「おとうさん」という言葉が僕を端的に刺戟していた。」
という一文も、氏の作品ではしばしば判断力のない無力な父親が出てくること、それも肉体的な母親と共に現れることを考えると、意味深かもしれない。
この「おとうさん」はどうやら「彼女の父親でない」らしい。
結局、持ってきた外套は「襟のこんなところが擦れている」と言われて「半値がせいぜい」と値切られる。
この文には強い実感がある。
ここから少し飛ばす。
独立した警句としても読めそうだ。
母親という存在を特殊なカメラで歪めたなら、まさにこの「おふくろ」になるのではないか。
質屋の女房の言葉。
彼女に生殖能力がないということも、彼女の「女」性の不在を際立たせている。
「戦争」の要約としても読める。
この前、「僕」は質屋の女房を抱きしめている―あるいは性的交渉を持ったのかもしれない。
彼女は僕に「僕の外套」を「差し出」す。
「途中で風邪をひかないように……。それから、これは失礼かもしれませんけれど、あの方はあたしからのお餞別にさせて」
質屋の女房の言葉だ。「あの方」は、おそらく「僕」との性的交渉だろう(ただし本文には「抱きしめ」たとのみある、しかしこの年の男女がそれだけというのも不自然に思える)
この短編は、「僕」のエゴイズムが書かれていることに特徴がある。
それまでの安岡氏の作品では、しばしば生活能力のない父と肉体的な母の間で、ふらふらさまよう放蕩息子―「僕」が書かれてきたように思う。
それは戦後の「あらゆることが、中途半ぱで消えてなくなったり、かと思うと、いきなり途中から始まったりしている」社会における個人のありかたとして、決しておかしいものではない。
しかし、人間というものは生きている以上、必ずエゴイズムを―大なり小なり―持っている。
その点を鋭く捉えた短編として、「質屋の女房」は優れている―この後彼が向かう戦場こそ、人間のエゴイズムがむき出しになる場所であることも含めて。
1960年、氏40歳の作品。
(余談)なお、途中で話を出した村上春樹氏も、初期は無意味な暴力の続いた学生運動へのアンチテーゼとして何とも深い関係を持たない「僕」を書いていたが、その後「ねじまき鳥クロニクル」など、人間の持つ悪や暴力を見つめた作品を書いてきた。
人間は生きる以上、必ず他者を損なう。その対象はしばしば「質屋の女房」のように、力の弱い存在だ。
どうでもいいが、キリスト教の「原罪」がもし本当にあるなら、それはこの点にあると筆者は思っている。
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