現代日本文学を読む①中村文則「教団X」

中村文則「教団X」。分厚い小説で計567ページもある。
ただ、これだけで読む気を失わないでほしい。実際読むと思ったより楽に読めるので、気楽に聞いてほしい。

まず本作は、古今東西繰り返されてきた善VS悪の構図を持つ小説だ。ハリウッドご用足しといってもいい。
善の代表格が松尾さん(松尾正太郎)。悪の代表格が沢渡。それぞれ宗教団体を持っている。ハリー・ポッターならダンブルドアとヴォルデモートである。
この二人さえ掴んでおけば覚えるのは男が二人と女が一人だけ。
まず最重要人物に当たる男が高原。彼はかつてアフリカ某国でカルト教団ラルセシル教の『YG』に、暴力的な形で信仰を持つことを強制される。宗教に人生を壊された男だ。
彼は悪の代表格こと沢渡に心酔しているふりをして近づき、教団へのテロを起こそうと試みる。
彼を愛している女性が立花。二人は虐待を生き延びた者同士としての連帯と愛の混ざった心と体のつながりで結ばれている。
最後が楢崎。読者にとってのカメラ・アイのような立場なのであまり気にしなくていい。

どうだろうか、この五人でページを割ると一人約百ページ、しかもこの他に公安の男たちだの高原に横恋慕をしている峰野だの高原のテロを裏切る篠原だのその他諸々がいるのでさらにページ数は減る。
となれば、実質は百〜数十ページの中短編の組み合わせである。なんか段々読める感じがしてこないだろうか?こない?大作小説を読むときは自分を騙すのがいちばん大事なのだ。

さて、本作の評価なのだが、野心は認めるが問題が多すぎ、ところが名場面もまた多い。それぞれ何が失敗しているのか、何が成功しているのか、順番に見ていきたい。 
失敗、成功のどちらから読んでも構わないように書く。知りたい部分だけ読んでくれればいい。


〈失敗しているところ〉

〈その1.松尾の思想〉

そう、「教団X」の致命的な弱点として、肝心かなめの善の中枢、思想家なら河合隼雄に当たる松尾さんの思想がちっとも説得力を持っていない。
文句たらたら書かせてもらえば、松尾さんの話はたとえば、「人間は皆微粒子でできていて、原子には原子の記憶が……(略)」とか「リグ・ヴェーダ(バラモン教の聖典)には最新の宇宙論と重なるところが……(略)」とか、とにかくそんな説法だが、言葉が本当に(本当に!)悪いのだけど、インターネットを覚えたばかりの中学生が考えそうな話ではないか?

一応私の読みに不足があるのかもしれない。ただ、信仰と最新科学を結びつけるのには、やはり、二つの理由から賛成できない。
一つはそれがある種類のエリート主義を呼び寄せることだ。ニューエイジ、引いてはオウム真理教がそうだった。禅思想を始めとする仏教や最新物理学の耳目を引くところだけ寄せ集め、さも新時代の宗教(脱宗教的な宗教)のように見せかける。オウム真理教に入信した青年がインタビューで「最新物理学と宗教はいつかつながる」と口にしていたのを筆者は覚えている。

宗教とは人の弱さにその中心がある。神の支えなくては生きられない静かな自覚、理性の限界に対する謙虚な認識、それらが信仰を生み出していくはずだ。
だからときに学者はその知恵のゆえに神から遠ざけられると言われる。知識と理性への過信を戒めるために。

二つ目は、この教えに人を本当に安心させる力がないように見えること。「人は素粒子でできている、全ては巡る」では現実の追認で終わらないか。またこうした説に目新しさや知的驚きはあっても、生の不条理や苦痛を納得させる物語はない。そこに論理や理屈でなく実感として確かめられる手触りがない。

別にフィクションの教えだから、それほど厳密にやる必要はない。
だが本作で松尾さんの教えは少なくともかなり明白な「善」の象徴に当たるはず。それが読者の立場から充分に信じられないことは「教団X」の説得力を大幅に下げているように思う。

〈その2.政治的主題〉

本作には様々な政治的な話が出てくる。靖国神社問題、第二次世界大戦を巡る問題、ネット右翼など様々だ。
現実と向き合うその姿勢は素晴らしい。素晴らしいのだが、やはり二つ問題がある。

まず一つ。政治的な言説が、小説全体のトーンに対して浮いていること。
たとえば沢渡の悪の教団に属する篠原という男が、紆余曲折ありテレビのコメンテーターとやり合う場面。ここで靖国神社問題は出てくるが、なぜ悪の教団の信者である篠原が靖国神社について「(略)特定のイデオロギー、つまり天皇のために戦ったかどうかで線引されている施設」という良識的左翼のような発言をしているのだろう。
私の読み違いがあるかもしれないが、ここは結果的にかなりシュールな場面になっている。

もう一つの問題点は、切り込み方に作者独自の―「教団X」独自の―視点が感じ取れないことにある。
言ってしまえば、どれも良識的左翼的な発言か、「良識的左翼が想像する無知で愚かな右翼」的な発言で固められており、どうにも説得力がない。
政治とは突き詰めれば白黒の世界であり小説とは無数の灰色の世界である。元々相容れない部分がある。

たとえば大江健三郎氏―大江さんは「九条の会」としての活動、またはかつての著作「沖縄ノート」を巡る―完全に相手側の言いがかりだった―「集団自決」裁判など、様々な政治的関わりを持っている(持たされている)が、その小説に政治的な言説は、少なくとも読者にあけすけに示す形ではなかったはず。

大江さんほどの作家がなぜ政治を安易に作品内に取り込まなかったか、もう少し考える必要がある。

作家が政治的な主題を扱うことには筆者も概ね賛同する。
だがそれが街角の拡声器や三つ折りのパンプレット以上の説得力を持たなければ、むしろ無数の繰り返しの言説として、ますます読者は政治を退屈な遠い出来事と感じはしないか。

〈その3.沢渡の思想〉

さて、善がだめなら悪もだめということで悪の中枢、沢渡の思想にも問題がある。
小説の序盤はいい。沢渡の存在は人間が一番想像したくない神の似姿で、女を退屈そうに抱き、人を退屈そうに殺す。彼のその底知れない悪は退屈から生まれている―このテーゼは凄みがある。後に引用でも示す。

ところが小説の後半、突如沢渡は彼の過去を語りだす。この部分の完成度が低い。
沢渡は様々な神を追い求めるも「先に成立していた物語や伝承の影響を受けている」ことに絶望し、悪行を重ね、その後松尾を裏返しにしたような素粒子の世界に行き着く。

ところで沢渡は最初キリスト教を追い求めたが、キリスト教ではすでに神義論というジャンルが成立しており、聖書自体、コヘレトの言葉やヨブ記などの神義論を内側に含んでいる。同時に広義の神義論として聖書の歴史学的問い直しもあり、日本でも遠藤周作氏の「死海のほとり」で全面的に扱われている。

沢渡の悩みはこれまで数多くの有名無名の人々が考えてきたことである。もちろん小説では老人の沢渡が学生だった頃とあるから時代的な制約と見れなくもないが、もう少し神義論的に深みと納得感のある理由は持ち出せなかったか。

〈番外:グノーシス主義について〉

本作及び「王国」でも中村氏はグノーシス主義を作中に登場させており、グノーシス主義について筆者が知ったのも中村氏からだ。
その後大貫隆氏という方の著作を読み少しばかり調べたので、それぞれ話したい。 

中村氏のグノーシス主義は狂える神のデミウルゴスに最大の関心がある。つまり、この世界はそもそも狂える神の創造した狂える世界かもしれない。
この説は何よりも面白い。ドストエフスキーは「神がいなければすべては許される」と言った。その神さえも単なる狂人だったら?

続いて大貫氏の説明を筆者の理解できた範囲でかいつまむと狂える神のデミウルゴスがいるのは事実。ただしその上に至高神がいて、グノーシス主義においてはこちらが大切なのだ。
至高神の世界には十数人の男女の神がペアになっており、そのなかでも一番階級の低い知恵の女神ソフィアが人間界に至高神の一部を流出させてしまった。
デミウルゴスはそれに気づかず暗黒の世界から人類を創造したが、人間にはなお流出した至高神の一部が含まれている。つまり、グノーシス主義において、人間は努力次第で神になれる。
ここまで読んで下さった方なら分かると思うが、グノーシス主義はむしろ人神思想に近い。

また、グノーシス主義には様々な問題点がある。最大の問題点は彼らがオリジナルな神を生み出せないこと。何しろ聖書の厳しくも人間を愛した神をデミウルゴスと蔑むからには、彼らは彼らの神を創らなければならなかった。
しかし実際できたのは「神とはAではなく、Bではなく……」―という否定命題に基づく机上の空論的な神を生み出すことでしかなかった。
結局既存の神を侮辱し、貶めることで彼らは彼らのアイデンティティを確立したが、その反作用として既存の信仰に絡みつくツタのような形でしか教義を存続させることができなかった。

改めて思うが、カトリックはキリスト教の政権与党なのである。腐敗はしているし、悪名高き十字軍を始めとする数々の過ちを犯している。しかしキリスト教の最大派閥として長い年月を持ちこたえてきたのだ。
グノーシス主義などの異端は確かに魅力があるが彼らはいわば泡沫候補に過ぎない。
結局その教義は都市知識人を取り込んだだけだった。

あらかじめ言えば作家は学者ではない。中村氏のグノーシス主義が私は好きだ。とても面白い説だと思う。
ただそれに惹かれて皆さんがグノーシス主義を調べるのも手間なので、筆者の調べただけ話をさせてもらった。参考になれば嬉しい。

〈成功しているところ〉

〈松尾さんの卵かけご飯〉

以下は宗教に人生を壊された男高原に横恋慕する女の松尾とカメラ・アイ役の楢崎が、善の象徴こと松尾さんについて話す下り。

「松尾さんの話(注:宇宙と人間についての話)、どうでしたか。面白いですか」
(略)
「よくわからないところもありますけど……あの、毎回こんな話を?」
峯野が微かに笑う。
「いえ、色々です。難解な話も多いですけど、その……、『最後のコレステロール』っていう自作の小説を読み上げていたり」
「……最後のコレステロール?」
「はい。……医者からもうコレステロールは取っちゃ駄目と言われた老人達が、最後に思い思いの卵かけご飯を食べる短編です」

p92

筆者は声を出して笑った。

〈憂鬱な悪としての沢渡〉

以下は悪の教祖の沢渡が女を抱いている場面の、高原のモノローグ。

化物め、と高原は思う。
教祖の中には地獄がある。その地獄に抵抗するのではなく、こいつは自分でその内部の地獄に沈み、ゆらゆら揺れている。どうしてこうも、憂鬱に女を抱くことができるのだろう?あのような暗い目で?なら抱かなければいいと思うが、習慣のように手を伸ばす。無感動に。ゆらゆら憂鬱そうに。虫が樹液でも舐めるみたいに。

p158

〈キャンディーの刑〉

以下は楢崎と善の象徴、松尾さんの会話。松尾さんは楢崎が小牧を性的に見ていたのではないか疑っている。

「本当に、一度も、小牧ちゃんのことをいやらしい目で見たことはないか?ほんの一瞬でも?……嘘をつくとキャンディーの刑だぞ。私の部分入れ歯を、キャンディーのようにお前の口の中にいれる」
「……それは」
「やっぱり!」

p164

この前後にも様々なユーモラスな掛け合いがある。読んで確かめてくれると嬉しい。

〈殺人と供犠〉 

以下は横恋慕する峰野が高原を手にするため、沢渡教祖に高原のテロ計画の一部始終が録音されたテープレコーダーを差し出す場面。

(略)
息が苦しい。教祖様に首を締められている。
何だろう?これは何だろう?私はこんな重要なことを知らせたのに。教祖様と目が合う。教祖様が私の首を締めながら顔を覗き込んでいる。レコーダーが床に落ちる。
「きょう……そ、さま……?」
苦しい。身体が浮いていく。息が、これ以上は―。
「……お前は死ぬんだろうか?」
教祖様の声が遠くなっていく。
「……死ぬしかないな、それを聞いたんなら」

p330

暴力はその度合いがある境を超えたとき神聖さを帯びる。教祖による酷たらしい殺人と狂った神に捧げられる供犠の両方をこの場面に読むのは間違っているだろうか。

〈人とモノの境〉

以下は高原の人生を破壊した『YG』に拉致された高原が、政府軍に虐殺された武装組織の公開処刑された兵士を見ている場面。

(略)座ったままの死体は、ボタンで蓋の開く電気ポットのようだった。首の端の皮一枚で繋がり、まるで頭部そのものが首から出る柔らかい血液の蓋であるかのように。

p387

高原はこの後「(略)首を切られ、その私の首が、背中の側へ逆さにぶら下がっている」夢を見ることになる。

個人的に秀逸だと思うのは「ボタンで蓋の開く電気ポット」の比喩だ。日常的なものがこうして非日常的な暴力の文脈で出てくるとき、それは日常と非日常の二分法の危うさを示す。今も空を辿ればどこかでは人が人を殺しているように、日常や平和は非日常や戦争と目に見える印もなく繋がっているのだ。

〈死体の山〉 

高原はついに『YG』から逃げ出す選択を取る。以下はその場面。少し長いが引用する。

(略)私は徒歩で村から逃げた。貧弱な林に入り、彷徨い、山岳を越えようとした。山岳の中で、私は幾体もの死体を見ることになった。山賊に襲われたのか、どこかの武装勢力に襲われたのかわからないその死体達に、私はすぐ未来の自分をまた重ねていた。死体はうなだれるように倒れたものもあれば、踊るように乱れたものもあった。髪の長い、服を着ていない腐乱した女の死体は、間違いなく強姦されていた。彼らはこの女の身体がこのように腐敗して醜くなる前に犯したのだろうと思った。女の体の旨味だけを味わって捨てたように。この山岳を越えても、私は死体を見るだろう。死体はどこまでもどこまでも、あらゆる姿勢を取りながら、どの風景にも存在し続けるのだと思った。風景が逆さになっていく。逆さになって空となった乾いた大地の下に、臭いを放つ死体達がなにか弾力のある食物のように積み重なっていく。(略)

p391.392.

死体がそのそれぞれの個別性を剥ぎ取られ単なる計量物として現れる不気味さ。おぞましくも素晴らしい描写。

〈神の全能感〉

本作の大きな特徴として、登場人物たちの思考がそのまま文章に表されることが挙げられる。ウィリアム・フォークナーやヴァージニア・ウルフの「意識の流れ」をイメージしてもらうとわかりやすいかもしれない。
実際人はこれほど明白に意識を言語化しないし、行為とはときに意識から離れて現れるからあくまでフィクションの描写だが、そんなことはいい、とにかく面白いのだ。
男を抱く女の思考、パニックになったテロリストの思考、高原、立花、楢崎の思考―彼らの思考を読者は安全圏から、擬似的な神のように覗き込むことができる。そこから来る全能感と高揚感!これには素敵な中毒性がある。

〈パラノイア的想像力〉

小説の最後、沢渡は自衛隊の隊員を唆し、中国に自衛隊機を向かわせる―何の計画があるわけでもなく。
個人的にこの展開がすごく良かった。何しろ楢崎や高原、立花は所詮松尾と沢渡の間で揺れ動く存在でしかない。しかし松尾は死に、沢渡も死んだ。この後物語は結局緩やかなハッピー・エンドで終わるが、生ぬるい印象が残る。
だからこそ個人的にこの無意味な出来事が印象深かった。ここから物語は個人の手を離れる。大勢の―それも誰一人全体を見通せはしない―政治家や軍人による大きなうねりに巻き込まれていく。日本から中国へ、あるいは世界を巻き込む大戦へ?想像力は不安と興奮を伴い、意味もなく拡大を続ける。
別に本当に書かれる必要はない。その可能性が垣間見える。それで充分なのだ。筆者一人かもしれないがこのストーリーには激しいカタルシスがあった。病的な想像力が暗がりへ土砂崩れのようになだれ込む。

まとめると、「教団X」はいくつかの問題はあるが魅力的な作品だ。解決困難な主題を追求する文学としても、人々の思惑がぶつかり合う重厚なエンタメ小説としても読める。

次回は今村夏子氏の「星の子」を扱う。「教団X」が非日常性としての宗教を書くなら、「星の子」は日常に潜り込む宗教を扱っている。少し遅くなると思うが、楽しみにしてほしい。

(追記)身の程知らずな話だが(あくまで仮定として聞いてほしい)本作に手をいれるならどこか考えていた。
まず松尾さんの思想だが、やはり新しい説得力のある教えを作るのは難しい。何しろ宗教の信仰の多くは個人の自覚に根ざす。親鸞の凡夫なりキリスト教の原罪なりの信仰はその人がその人なりの生のさなかに差し向けられてくる/実感するもので、これを小説で読者に納得させる困難を考えれば、無理だ。
では松尾さんを徹底して無力なる存在として書くのはどうだろう?何を聞いても当たりさわりのないことしか言えず、沢渡の悪の前でただ無力に打ちのめされるほかない弱い男として。
個人的に「教団X」の肝は松尾さんと沢渡で、残りは―強いて高原の宗教体験を除いて―賑やかしに過ぎない。だからこそ彼らに対話をさせてみたいのだ―スタブローギンとチホン僧正のように。

沢渡の悪も徹底させる。彼には彼なりに悪を支える思想体系があってほしい。あるいは徹底して幼稚な人間として、しかも激しい暴力性を兼ね備えた男として書くか―(軽く書くことではないが)松本智津夫のように。

松尾さんと沢渡の過去はいらないように思う。小説の時間が現在時制から逸れ弛むし、そこで語られる彼らの師の存在意義がよく見えない。
個人的に、本作の最大の欠陥は松尾さんが沢渡のような存在をどう見るのか―悪を善がどう扱うかが抜けていることにある。私はできれば松尾さんには沢渡を許してほしい。彼は惨たらしく殺されるが、しかし最後沢渡に「君を許そう」と言う―作りすぎかもしれないが。善が悪を許すとき、善はその存在そのものを危機に晒している。それはもはや善ではなく、けれど善が救えなかった者たちを救う。善と悪という二項対立を越えていったところに救いはあるはずなのだ。

大きく野心のある作品だけに惜しく、イマジナリー小姑のような話をしてしまう。皆さんは余計なホコリをここに捨て楽しく読んでほしい。



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