堀辰雄「聖家族」
書き出しからいい。
「死があたかも一つの季節を開いたかのやうだつた。」
主な登場人物は細木夫人と娘の絹子、夫人の知人の青年、扁理。計三名だ。
小説の扱う時間は、細木夫人の夫、九鬼の葬式から、海岸に滞在する扁理青年の死の可能性を細木夫人が否定するまで。
タイトル「聖家族」は画家ラファエロの絵画のタイトル。作中にも登場する。
この小説で使われている技法は「心理解剖」と名前がついている。人物の内面の心理を、メスを入れたように正確に語る。
「聖家族」だと中心ストーリーの、絹子と扁理の「両片思い」(俗な言い方だが)の説明、
の下りなど、まさに典型だろう。
日本だとこの技法は芥川竜之介が走りで、その後三島由紀夫、大岡昇平といった大家も加わるが、あとは下火になる。海外だとラディゲなど。
消えていった理由は明白で、人間の複雑な心理がここまでくっきり見えるわけがない。たとえばドストエフスキーの作品がこの技法で書けるだろうか。
だから、多くの場合それは人間心理の上っ面をすくった作品に終わる。三島由紀夫の二級の作品を思い出してもらえれば。
ただし、二つ、例外がある。
一つは、自身の心理を解剖するとき。大岡昇平の「俘虜記」「野火」、三島由紀夫の「仮面の告白」「金閣寺」は、どれも心理解剖の影響が見られる小説だ。しかし優れている。理由は、自分の心理は、完全に「解剖」できないせいだろう。人は自らを語るときの自己保身、自己欺瞞を完全に消せない(できたら死ぬに等しい)。だから、彼らの小説は心理を「解剖」する客体としての「私」と当事者である主体の「私」がぶつかり合い、そこに優れた緊迫感も生まれてくる。
もう一つの例外が、この「聖家族」である。理由としては、堀辰雄という作家の持つ「作家性」(曖昧だが)としか言いようがない。
言葉の使い方の鮮やかさ。
「それは薔薇(ばら)のそばにあんまり長く居過ぎたための頭痛のようなものだったのだ。」
愛しい人のそばに気づかずにいる少女のやるせない苦しさを、「薔薇のそばに居過ぎたための頭痛」と言い換える言葉の感覚。
この言語感覚が、「聖家族」を単なる堀辰雄の掌の操るマリオネットの物語に終わらせない。
後に彼の手がける(平安の)王朝ものを思わせる、抑制された筆がすでに見られる。
話としては扁理青年と絹子のすれ違う愛を中心に、青年と夫人、夫人と絹子(「菜穂子」を予感させる)―三者の関係がそれぞれくっきり書かれるが、その書き分けも見事だ。
もう一つ「聖家族」の魅力を挙げるなら、この、生者三名の心の動きの後ろに死者、九鬼の存在が常にあることだろう。
作中、夫人と扁理は「思いもよらない速さで相手を互に理解し合った」が、その理由には「その見えない媒介者が或は(筆者注:九鬼の)死であったからかも知れない」と書かれる。
最後の下りでも、絹子の扁理青年の死の可能性を細木夫人が否定するときには、九鬼の名が持ち出される。
一見華やかな(またほろ苦い)若者の恋の後ろに、死者、九鬼の姿が影となり映る。
それが筆者が、「聖家族」に単なる恋愛小説、心理小説以上の強い魅力を感じる理由でもある。よければぜひ読んでみてほしい。
堀辰雄が心理解剖の王、ラディゲについて語った文章(ここだと「ラジィゲ」だが)。