三島由紀夫「午後の曳航」―存在の必然、魂の偶然―
※性的な話題を含みます。
※あらすじや詳しい内容を知りたい方は「夏」から読むことをおすすめします。
前書き
存在とは滑稽なものである。
筆者の確信は、中学の美術の教科書で見た筋肉好きの変態ことミケランジェロの作った「ダヴィデ像」がジョークグッズにしか見えなかったときから変わらない―股間についたチンポコ―品位を持って言えばペニス―のせいで。
ファルスは喜劇にして男根でもあるが、まさしく男根は喜劇であり、存在とは大いなる喜劇である。
例えばこの前、菅義偉元首相の胸像が地元JR湯沢駅前に建てられていた。
あのリベラルのどん底、ではなくて肥溜め……失礼二度も間違えた―天声人語みたいに口やかましく責めるつもりはない(皮肉ではない。胸像が建てたい奴は百も千も建てればいい)。
だが筆者は死んでもごめんだ。
例えば明日宇宙から巨大メドゥーサが襲来して私たちを石化させたと仮定する。
指さす主婦、CGかとはしゃぐ子ども、スマホを掲げる学生……が白昼の路上に―物言わぬ石となり―点々と散らばっている。
その様は約二千年前のポンペイ火山の死者たち同様の、ある救いがたい滑稽さを示すと筆者は信じる。
それ同様に、自らの胸像だの銅像だのを作られるのも筆者には、宇宙意志の象徴たるメドゥーサに前触れなく石化される事態と数センチほどの差もないのだ。
話は変わるが湘南乃風の「睡蓮花」という歌を知っているだろうか。
何でも作詞中に肝心の作詞者が拉致監禁の果てに惨たらしく殺されるという不幸があり、そのためか歌詞の前半と後半が全く繋がっていないことで知られていると聞く(旧Twitterから仕入れたお墨付きの情報なので確実に間違いない)。
と清い抒情性を湛えた歌詞はサビに至って
と品位の欠片もなくなってしまう。作詞者の身の不幸が悔やまれるばかりだ。
筆者は今日に至るまで、この湘南乃風と三代目J Soul BrothersとEXILEの区別がつかないが、以下はそのEXILEの「Lovers Again」と「Ti Amo」の歌詞である。
私はこのどちらの歌にも魅力を感じる。
その理由はこの歌が若い女性のアイドルに歌われるケースを想定すれば明白なはず―歌詞は感情に媚びてすり寄るイヤらしさを纏うように思う。
そう、この感傷の手垢で汚れた歌詞はイカツイ兄ちゃんたちが歌ってこそ美しい。
その魅力の源泉は「存在への裏切り」にあると断言する。
私たちは自己という存在に深く縛られている。容姿、国籍、名前……自由意志の挟まる余地は微塵もない。
私たちはすでに例えようもないほど自己自身であり、その狭い鋳型のなかで―大抵は―息を詰まらせ生きている。
(※サルトルはアンガジェだかアンガージュマンだとか言って若者の心を捕らえたが死んだ)
ゆえに私たちは滑稽でありながら私たち自身でもある存在―必然性―を、芥川の言を借りるなら一個のマッチ箱のようにどこかへ投げ捨てたい―偶然性に委ねたい―欲望を常に抱えている。
◯失踪願望や自己破滅願望も、突き詰めればここに行き着くのではないか。
EXILEの「Lovers Again」や「Ti Amo」の美しさは、揺れ動く存在の美に他ならない。
彼らはコワモテの男という外面/存在をやむを得ず抱えている(実際は商業主義の帰結かもしれないが夢を覚ましても何も楽しくない)。
一方で彼らは少女のようにあどけない愛と哀しみに震える内面/魂を抱えている。
その切実な自己背理の気配、存在を裏切り存在に裏切られる魂の危うさ―がEXILEの固有の魅力を形作ったのではないかと思う。
(追記)その逆が萩尾望都の初期作品の―例えば「トーマの心臓」―少年たちであって、彼らは少女のような壊れものの輪郭に大人のためらいや深い哀しみを湛えている。
いい加減三島の話をしよう。
三島由紀夫は女と老人を目の敵にした。
だがそれは女が子という存在を産み、老人は死を前に身動きの取れない存在に縛られているからに他ならず、要は三島は女と老人が憎いというよりその背後で微動だにしない存在を憎んだのだと筆者は言い張りたい(しかしその腹に種を蒔いた奴はどうなるという話だし、第一、男も女もなく人間は皆醜いのだ)。
だから「金閣寺」で吃音の僧侶溝口は金閣寺をあれほど憎む。
金閣寺は至上の美でも不動の存在でもあり続ける、日本文学究極のジレンマなのだ。
存在は滑稽そのものである。萩原朔太郎のタコのように己を食い尽くしたところで、存在は永遠に残る。
人はそこから逃れ得るか。
三島は「豊饒の海」において、転生という夢を通して存在の無化を願ったかに見える。
だが、筆者が思い浮かべるのは「春の雪」から「天人五衰」まで全て追い詰められた作者三島の横顔であって、転生の夢とロマンではない。
人は存在から逃れ得ない。仮にそう結論づける。
ではその認識の先に、三島の書くべき世界は残されているのだろうか。
本題
「午後の曳航」が悲痛なのは、この作品において三島的世界観がすでに機能していないことだ。
例えるなら画力はあるがストーリーが紡ぎ出せない漫画家のよう。
三島は円熟期である。めくるめく比喩も、鮮やかな仮説も―その筆は一向に衰えていない。
だが、肝心の物語が壊れている。
「美しい星」の宇宙人一家や「豊饒の海」の転生者たち同様、突飛な物語的設定と現実との接点が見失われ、そのため作品のリアリティも、作者三島がこの話を書く必然性も充分担保されない。
作中、子どもたちにネコが解体されようと成人男性が解体されようと、結果どこかでフィクションの軽さを免れ得ない。
EXILEの歌詞に触れたが、「午後の曳航」にも「マドロス稼業はやめられぬ」―卑俗な流行歌が出てくる。
この歌詞は迷いなく「女々しい」、端的に泣き言でしかない。
だが、それを「碇の刺青が似合いそうな二つの腕」(「仮面の告白」に出てくる表現)を持つ水夫が口ずさむとき、存在に閉ざされた魂が震える。
もし筆者がこの作品から一つ主題を引き抜けと言われたらこの美しさを選ぶ。
作品解説かポエムお披露目会場か分からなくなってくるので作品解説に戻ると、本作「午後の曳航」は昭和三十八年九月刊行された。
二部構成であり、前半「夏」(82ページ)で海の男龍二の美しさが語られ、後半「冬」(79ページ)で彼が凡庸な家庭人に化けていく様が書かれる。
その醜態を罰する少年が竜二の義理の息子となる登ら少年たちを率いる、天才少年の「首領」で、この両物語が「午後の曳航」を支えている。
さて、確か川端康成の「雪国」は作中の縮(着物)の描写が参考資料の「北越雪譜」ママで話から浮いていると非難されていた記憶があるが、残念ながら「午後の曳航」にも同様の問題がある。
正直な話、途中の二等航海士の職業を巡る雑学的な描写を取り去れば「午後の曳航」は中編に収まるのだ。
もちろん雑多な細部の描写から生み出せるリアリティはあるにせよ、手抜き仕事の感は免れ得ない。
とはいえ、逆に言えばページをめくりやすく「三島由紀夫入門」にはピッタリでもある。
この作品の性質上、あまり律儀に引用しながらの解説は難しい。
そのため筆者は話を大ざっぱに切って、重要なシーンだけ追う。了承願いたい。
夏
要約:海の男に憧れる男、竜二は、しかし青年の盛りをとうに過ぎている。
彼は未亡人の房子と行きずりの恋に落ち、通俗的な情事に耽る。
一方、房子の息子の登は竜二に少年の憧れを投影するが次第に裏切られていく。
第一章
海の男塚崎竜二は登の家で母親と情事にふける。その様を鍵付きの部屋の登は引き出しの奥の穴から窃視する(鍵の理由は登が家を「「首領」に誘はれて夜中に脱け出し」たため)。
(三島由紀夫の連れ込み宿を扱った俗な短編「影」や長編「暁の寺」の月光姫ジン・ジャンを覗き見る本田繁邦の姿はもちろん、安部公房「箱男」の女性教師の排泄行為を窃視しようとした中学生Dなども連想する)
登は船の汽笛が竜二と母親の情事の現場に響くのを聞き、世界が完全に統一される錯覚を覚える。
(短編「花ざかりの森」の夜汽車への憧れを思わせる)
第二章
視点主は竜二に移り、彼が既に若くないことが示される。
二十歳の―「陸がきらひな」(身動きの取れない現実の象徴だろう)船乗りの竜二が望んだ「光栄」を、彼は「(略)点検し、日毎に一つづつ抹消してゆくやうになつた。」
その後香港での竜二の童貞喪失が描かれるが通俗的であるため扱わない。
第三章
登の母親の房子の経営する「舶来洋品店レックス」の描写。彼女が未亡人(しかし「未だ亡くなっていない人」とは酷い呼び名だ)であることが語られ、ここで脇役の映画女優である春日依子の名も出てくる。
時間は一昨日に戻り、竜二と房子、登の出会いが語られる。
登のため船の見学に来た房子と登に、龍二は船内の案内を買って出たのだ。
再び現在に戻り、洋品店に押しかけた春日依子の「品のわるさ」を「鉢の中の金魚を見るやうに」(いい比喩)赦す房子。
その優しさは一昨日出会った竜二への恋のためだろうが直接書かれはしない。
第四章
第一章の竜二と房子の情事が翌日の視点から回想される。
海の男として自負を持つ竜二は房子に彼の栄光について、
「いつか暁闇をついて孤独な澄んだ喇叭が鳴りひびき、光を孕んだ分厚い雲が低く垂れ、栄光の遠い鋭い声が」
彼を呼ぶときが来るのだ、というような大仰な言葉でしか思い描けず、結局房子相手には航海中に「大根や蕪の葉」の「緑が、ひどく心にしみる」ことや歌謡曲の「マドロス稼業はやめられぬ」が好きであること―そうした卑俗な話題しか口に出せない。
竜二は房子を海や悲劇への憧れ(存在からの飛翔)を理解不能な「ただの肉」(存在との馴れ合い)として扱おうとする。(この下りは馬鹿じゃねえのかと思う)
しかし二人の情事の比喩、
「火に包まれた獣が、そこら中に体をすりつけて火を消さうとあせるやうに、焦慮の不器用な動きでぶつかり合つた。」は美しい。
時間軸は現在(翌日)に戻り、竜二は「日ざしの暑さから」少年のように公園の噴水で水浸しになることを選ぶ。
「純白の筋肉」が面白い。
家という存在―屋根や塀や玄関扉―を生活・家族愛・平和の象徴といった意味から離れて見たとき、それは神の散らかした積み木のような「ふしぎ」に見えるかもしれない。
第五章
「首領」ら少年たちと歩いていた登は竜二と不本意に出くわしてしまう。
母親にした「鎌倉へ泳ぎに」行く話が嘘だったことはまだいい。問題は、彼らは今しがた猫を解体してきたことにある。
「首領」は少年たちの思想的リーダーで、「自分たちの生殖器は、銀河系宇宙と性交するために備はつて」おり、陰毛は「その強姦の際、羞らひに充ちた星屑をくすぐるために生えてきたのだと」断言する。「首領」の洞察は少年のそれではない。
なお本文では読者を驚かせるためだろう、猫の解体の描写が最後に置かれている。
第六章
登と竜二の二度目の顔合わせ。竜二は卑俗な内面をむき出しにし、登の夢想をズタズタにしてしまう。
例えば冒頭、水浸しの竜二に登は
と言ってほしかった。
だが実際口に出されたセリフは
「そこの公園の噴水を浴びて来たんだよ」
これだけだ。
存在から飛躍する魂の美は、人に距離という名の憧れを抱かせる。
その登の憧れを、竜二は「公園の噴水」という通俗性によって埋めてしまった。
その後の登と竜二の会話は既に義父と息子のようだ、重要な描写ではないのでカット。
第七章
竜二と房子の(この時点では)別れの情事は通俗的で退屈。
ただし「房子の髪も体も、夏の夜の街の匂ひの中で、しどけなく解れて来さうである。」
の一文には色気がある。
第八章
竜二と房子は船出に合わせて別れる。登は船の汽笛を聞きつつ、
「(略)自分はあらゆる夢の終点でも起点でもある場所に、今かうして立ち会つてゐるのを知った。」
冬
要約:竜二は房子と結婚する。彼はもう海の男ではない。房子の洋品店を手伝い、生活に夢や理想を塗り込めてしまう。
裏切られた登は竜二を呼び出し、天才少年「首領」の指示の下で竜二をバラバラに解体する。
第一章
十二月三十日、竜二は再び房子と会う。二人の会話、
は救いがたく通俗的だ。
またこの後の
という文は一見なんでもないが、「自明な存在」(外部の存在)より「記憶の心象」(内部の心・魂)にリアリティがあるとするこの描写は本作の主題をそのまま示すように思う。
竜二は房子に
1.結婚
2.彼の全財産である二百万円の譲渡
をそれぞれ提案する。船乗り稼業もやめるつもりであることが描写される。
その後、竜二は家で登にお土産のインディオの剥製を手渡すが、登は
「再び見る竜二には、何となく竜二の贋物めいたところがあった」
と感じる。
◯存在から―手段こそ卑俗な流行歌や手垢のついた抒情にせよ―飛躍しようと試み続けることで美しかった竜二が、これからはむしろ存在の壁に魂を塗り込めようとしている。竜二の魂の腐敗が始まる。
登は竜二に(無邪気さを装って)「今度はいつ出帆」と聞き、「まだわからん」とだけ竜二は答える。
第二章
ここでは作者―語り手が竜二に直接、本当に追い求めた栄光を棄てるのか尋ね続ける。
◯こうした下りを読むと筆者は三島は本来もっと不器用な作家だったのではと思う。
その後、竜二は登に航海の話をするがそれは
第三章
登の母房子がお得意の依子に結婚相談をするも、依子は適切なアドバイスはしつつ、生まれのコンプレックスから遠回しに房子を揶揄する。
房子はその当てつけに竜二に何も問題のない証明となる探偵の調査報告書を読み上げ、依子に―いわば―マウントを取る。
非常に通俗的。
確かに堅実に洋品店を営む房子がいきなり数度の情事の相手と結婚するのは現実的でないが、こんな女同士の嫉妬を露悪的に書く必要はなく、端的に
例:「房子は探偵事務所に竜二の素行を調べさせた。数日後、彼はおとぎ話のように実直な船乗りであることが証明された。」
程度で書けるはず。この章は作品の質を自ら貶めている。
第四章
一方で登は「首領」ら少年たちと会い、彼らの家庭について以下のような話を聞く。
登は我が身と比べて、
人間が存在から飛翔するのは、欲望や願いのもたらす力による。
清潔も正直も善も、その人間の翼をあらかじめ折り畳んでしまう一点において紛れもない悪に他ならない。
第五章
ここでは昇の部屋の覗き穴が房子と竜二に発覚されるも、父親に成り下がった竜二が寛容に赦すのが主な展開。
だが筆者は房子が昇に竜二との結婚を打ち明けるときの以下の描写が記憶に残っている。
子供の信じたちっぽけな神さまが自分から贋物に化けていく瞬間。
カポーティの「あるクリスマス」を思い出す。登の幼年期の夢は極めて卑俗に潰されていく。
第六章
第七章
だが今は違う。
竜二は登に頼まれ、船員仲間と会う名目で「首領」たちに会いに来たが、睡眠薬入りの紅茶を飲まされ―ここから先は書かれていないが―猫同様に解体される。
感想
塚本邦雄のこの短歌で美しい「蒼き貝殻」を潰して進む「乳母車」は、そのまま人間の生の象徴として読める。
あらゆる美を砕き壊して、人は生き続ける―その先に死しかないと知らされなお。
筆者は「午後の曳航」を読むとこの歌を思い出すのだ。
塚崎竜二は生き続ける。どれほど醜く、彼自らの魂を「轢きつぶし」てもなお。
存在は必然の形式として揺るがず、しかし魂は善と悪を、美と醜を、崇高と汚濁を揺れ動く。
「午後の曳航」には多くの瑕疵がある。それでも三島の痛ましい魂への追求性は、まだ確かに息をしているはずだ。
なお、完全な余談だが萩尾望都氏「ウは宇宙船のウ」収録の「宇宙船乗組員」も同様の主題を扱っている。
宇宙への果てない夢に囚われた父親と、置き去られた母子の姿は美しい夢となって残る。