雑記―小説・映画・短歌など




最近聞いた曲

最近、イエモンの「SparkleX」をやたらと聞いている。
最初聞いたときは前作の「9999」に比べ歌詞が荒削りというか、少し解けすぎの気がして聞き流していた。
ただ、「9999」が気力万全なカーヴァーの傑作「ささやかだけれど役に立つこと」なら、「SparkleX」は癌に冒されつつ余力を振り絞るように書かれた「象」(ボーカルの吉井氏はこのアルバムの制作中に喉頭癌の治療をしている)だと感じ、急に聞けるようになった。


特に好きなのは「exhaust」。名詞の「排気ガス」と動詞の「消耗しきる」の掛け言葉か。退廃的な曲調が素敵だった。

タロットカードをめくれば/逆さまに吊るされる男/何度も何度もシェイクしても/同じ答えのようだ

はるまきごはん氏の「深い青だった」も最近よく聞いている。聞き違いの可能性はあるが、月経を通じ喪われる少女性を比喩的に歌っているか。

ボタンの違えた/白いビロードに滲み出た/少女の鮮血は/海よりも/涙よりも/深い青だった

究極的には、「なぜ人は生き続けねばならないのか」という問いに繋がる。
桜の花が舞い散る春の一刻に己の生を断ちたいと願う少女がいておかしいか。
肺や心臓や大腸―孤独な臓器を黙々と動かしひたすら生きることは、人間の―私の、私たちの―本当の幸いだろうか。


中島みゆき氏の「有謬うびゅうの者共」もよく聞いている。

いくつの夜を集めても足りない/ここは隠れ家/息をひそめてる/幻の火を連ねても足りない/ここは物陰/嘘たちの棲み処

という抑制的な歌詞が一転して、

間違えてもニンゲン/間違えてもニンゲン/間違うのがニンゲン/誰かがまだニンゲン/間違えてもニンゲン/間違えてもニンゲン/間違うのがニンゲン/あんたがまだニンゲン

と「ニンゲン」のリフレインになるのが強い衝撃だった。 

中島氏の曲からは、ときどき神の気配がする。例えば「麦の唄」の、

涙に伏せるときにも歌は聞こえてくる/「そこを超えておいで」「くじけないでおいで」/どんなときも届いてくる/未来の故郷から

この歌詞を聞くたび、私は出エジプト記の光景が浮かぶ。
神に選ばれたはずの民は、モーセ(ひいてはヤハウェ)に苦情ばかり口にする。
「水が足りない」「食料が足りない」。
挙句、偽の神―金の子牛―を崇めだす。
けれど神は彼らを罰さない。皆殺しにして新人類を生み出したりもしない。代わりに「マナ」という、甘くて美味しい霜のような食料を授ける。
その神の声は、まさにこの歌のような呼びかけだったのではないか。(キリスト教を信仰しない人間のいい加減な話)
 

「人生の素人」もいい。

日々という流れにはひながたもなく/1人ずつ放たれた蛍のようだ

人間はみな、暴力や恐怖のもたらす無力さの前でどうすればよいか知らない。憎悪や蔑みを打ち消す力も持たない。
そうした人間の脆さや不完全さを明るく赦している歌のように思う。人間の不完全さを真正面から見つめる姿勢が、結果として生む余裕とユーモアが私は大好きだ。

あ皆人生は/素人につき


小島信夫の「各務原かかみがはら・名古屋・国立くにたち」をパラパラ読んだ。

「八十五?それ、ほんとう。じゃもうすぐ死ぬじゃないの。それはたいへんだ。どうしたらいいのだろう」

このセリフは小島信夫の妻の述べた言葉。彼女は八十三歳である。「どうしたらいいのだろう」どころではない。
しかし―馬鹿にするのではなく―この老夫婦のほにゃほにゃした会話を聞いていると肩の力が抜けてくる。
(ちなみに文庫版の要約は苦肉の策そのもので笑った)

東野圭吾「超・殺人事件」―兄妹の対話から―

あまりにも馬鹿馬鹿しすぎて笑い死にかけた。
特に「超税金対策殺人事件」が愉快だったので、兄妹の対話で話の内容を示す。
(以下茶番)
兄:妹よ、なぜ僕を呼んだのかね。
妹:決まってるでしょお兄さま。
兄:いい加減僕を歩く読書感想文扱いするのは止めてほしいものだね。
妹:いいから早くしてちょうだい。乙女の春は短いの。
兄:では、まずこの『氷の街の殺人』を読んでおくれ。
妹:あたし活字を見ると心臓が麻痺するの。
兄:やれやれ、なら第十回の初版だけでも読み給え。
妹:ちぇっ……、ふうん、「そして彼女の瞳は……潤んでいた。」ねえ。いいじゃない、あたし好きよ、この類の安売りのロマンティシズム。
兄:で、これが改稿さ。
妹:まだ読ませるの?もう……?え、なんですのこれ。
兄:ハッハッハッ。
妹:なぜ薄幸の美女が「コートを脱ぎ捨てると、びりびりと引き裂き、路面に叩きつけ」るわけ?バカなの?ふざけてるの?

いや、これが少しもふざけていない。本作を書いた作家とその妻は破滅的な浪費家であり、大量の出費をどうにか経費で落とす必要があった。
そのためには小説執筆に利用したという証拠がいる。服を破くのは高級な衣服もその場面の資料として購入して破いたのだとシラを切るためである。
……結果、旭川の凍てついた空気に似合ったハードボイルドはハワイとエステティックサロンを駆け巡るトンチキお笑い小説に姿を変えてしまった。

『氷の街の殺人 第十回』を書いて以来、どこの出版社からも仕事の依頼が来なくなっていた。
『氷の街の殺人』も、連載が打ち切りになっている。
どうしよう。

反面、「超読書機械殺人事件」は読後に苦いものが残る。
「ショヒョックス」という自動で書評を作る道具は、甘口から辛口まで自在にレベルを合わせられるため、誰も彼もがショヒョックスで書評を書くようになる。

奇妙な時代だ、と思う。本をあまり読まないくせに、作家になりたがる者が増えている。さほど売れていないのにベストテンが発表されたりする。一般読者が知らないような文学賞が増えている。本という実態は消えつつあるのに、それを取り巻く幻影だけがやけに賑やかだ。
読書って一体何だろうな、と黄泉は思った。

「華氏451度」に似た話が出てくる。出版物を焼き尽くす昇火士は、この世界で単なる悪ではなく、きちんと使命を持っている。
その内実は現代の予言である。
忙しい人々はファスト教養に飛びつき、文学は社会や現実と四つに組むのを止め、狭いサロンの御用達にしかならない。

古典は十五分のラジオプロに縮められ、つぎにはカットされて二分間の紹介コラムにおさまり、最後は十行かそこらの梗概こうがいとなって辞書にのる。(略)『ハムレット』について世間で知られていることといえば、《古典を完全読破して世界に追いつこう》と謳った本にある1ページのダイジェストがせいぜいだ。

p92.

出版社、中間業者、放送局の汲みとる力にきりきり舞いするうち、あらゆるよけいな込み入った考えは遠心分離機ではじきとばされてしまう!

p93.

時間は足りない、仕事は重要だ、帰りの道ではいたるところに快楽が待っている。ボタンを押したり、スイッチを入れたり、ボルトやナットを締める以外にいったいなにを学ぶ必要がある?

p94.

この昇火士による批判が確かな説得力を持つから、モンターグ一行が焼かれた本の内容を記憶し続けるラストシーンもまた輝く。

戯曲「三原色」―(村上春樹feat.三島由紀夫)

三島由紀夫の戯曲「三原色」を、私は三島版村上春樹作品だと思って読んでいる。
何しろ登場人物は美青年計一(25)とその妻亮子(19)と計一の友人にして美青年の俊二(19)の三人である。
彼らは凡俗のようにむず痒い嫉妬というオデキに悩まされることはない。
ただ人生の表面だけをツルツルツルツル、流しそうめんのように通り過ぎていく。
当然そこには神もいない。彼らは南国流の放埒ほうらつのまま、亮子の身も心も均等に分け合う。
……気障ったらしい会話と、ただれた性的関係をサラリと流すのは、まさに村上春樹氏「ノルウェイの森」の十八番おはこである。
参考までに両作の会話を並べて引用する。

計一:(略)……ねえ、亮子、人生って、何か、窓からぽかっと顔を出すお化けみたいなものが来るんじゃない?
亮子:それがあなたよ。
計一:君にとってはね。
亮子:とてもすてきなお化けだったわ。
計一:でもお化けのほうじゃ別に怖くなかった。
亮子:まだあなたにとってのお化けは、お化けにとってのお化けはまだ、あらわれていないってわけなのね。

(略)「ねえ、ワタナベ君、本当にもう半年もセックスしてないの?」
「してないよ」と僕は言った。
「じゃあ、この前私を寝かしつけてくれた時なんか本当はすごくやりたかったんじゃないの?」
「まあ、そうだろうね」
「でもやらなかったのね?」
「(略)君を失くしたくないからね」と僕は言った。

その村上氏は最近何かと(女性の書き方などが)問題視されているが、そこが問題の核心ではないと思っている。
突然だが、私は相当の読書家である。
もちろんヘボがあり傑作がある。
ただ時々「それ以前」の作がある―作者の自己愛がむき出しになった作品だ。
訳もなくチヤホヤされる主人公―の陳腐な演説で誰もが改心し、中学生でも思いつく哲学談義がさも高尚かのように語られる―が出てくる駄作である。
責めるつもりはない。私としては(汚い例えだが)トイレに行ったら親のうんこが流し忘れで水に浮いているのを見かけたような気分になる。

そう、人間は誰しも自己愛を抱えている。誰もが自己愛といううんこを垂れ流さねば生きていけない。父も母も私も美少年も革命の勇士も。それは何も悪いことではない。
ただ文学とは自己愛―うんこをどのような美しいメッキで包むかの手練手管である。

で、村上氏の作品が責められる理由は、この自己愛性が気障ったらしいセリフや女性の描写に滲むせいではないか。
だから女性描写問題は、こちらの見解としては氷山の一角である。
最大の問題は村上文学における自己愛性の処理が機能を喪い、かつて金メッキに覆われていたうんこがただのうんこになりつつあることではないか。

その原因について筆者としては、村上氏の「悪」の描写の限界が挙げられる。
その書き方はハリウッドの得意芸
「彼方からやってきて小型核で世界を滅ぼす悪」
のワンパターンである。
私はこれを中村文則氏にも言いたいが、いい加減「絶対悪」を書くのを止めてくれないか。
「ふふふ、君の愛する娘とアメリカ国民の命を天秤に賭けさせてもらうよ、せいぜい頑張れスーパーマン」
みたいな悪はもうウンザリである。

村上氏の―特に後期の―作品は、登場人物が「悪」に対し主体性を発揮することで勝利を収める、いわば「現代の英雄物語」のパターンを持っているが、他方でこれは自己の内側にある「悪」を深く眼差すことを停止し、外にある「敵」に「悪」という属性をおっ被せてしまう危険性を帯びている―ナチス時代のユダヤ人のように。

村上春樹「沈黙」について、ヘボ信仰者の見解

その「悪」問題の一環が村上氏の短編「沈黙」である。
イジメ(暴行か人権侵害と呼ぶべきと常々思うが)問題を扱ったこの短編、昔は人間の悪を鋭く切り取った傑作と思ったが、今読むと色々引っかかる。

あらすじ:大沢さんという男性が学生時代、青木という粘着気質で世渡りのうまい男にひょんなことからイジメのターゲットとされる。
それを乗り越えるまでの経緯を「僕」はインタビュー形式で聞く。

確かに、この話の限りでは大沢さんは完全なる被害者である(青木を殴ってしまうがそれにしても)。そして青木は完全なる加害者である。
けれど例えば以下の下りに私は引っかかる。

でも僕が本当に怖いと思うのは、青木のような人間の言いぶんを無批判に受け入れて、そのまま信じてしまうような連中です。自分では何も生み出さず、何も理解していないくせに、口当りの良い、受け入れやすい他人の意見に踊らされて集団で行動する連中です。(略)

彼らの「沈黙」―良心への、自己への、他者への―凍りついた沈黙こそが真の恐怖であるというのは分かる。
けれど、このように「主体性/他動性」をたやすく「善/悪」に切り分けていいのか。
ここには、それこそ特定の人々をある属性を持ったグループとして理解する傲慢さが滲んでいないか(「ねじ巻き鳥クロニクル」のテレビを鵜呑みにする人々、「海辺のカフカ」のフェミニストの描写のように)。
この大沢さんの発言に、もし私ならこう付け加えたい。
けれど人間には沈黙せざるを得ない瞬間がある。良心を踏みにじり、愛する人や信じた神をも等しく裏切りただ沈黙する瞬間がある、と。

この下りには強い処罰感情・報復感情が滲んでいるように思える。
確かに私も、これまで何人もの人間の顔を壁に叩きつけ、腹を蹴り上げる妄想をしながら生きてきた(そろそろロベスピエールには勝てそうだ)。
けれど、だからこそ、こうした単純な「私(たち)/彼ら」の構図に、私は与したくない。
誰かに暴力を振るわれたときも、怒り、憎しみ、正義へのかつえに震えるよりは、私はただ、どこまでも赦していたい。そして阿弥陀仏の御心から離れたくない。
憎しみが消えない日は諦め、「阿弥陀仏はきっとお赦しになるだろう」と考える。
ひどく愚かなあの男も、知性の欠片もないあの女も、阿弥陀仏はきっとお赦しになる―今ここにいる私を赦したように。
(まあ、第一そんなにたやすく人が人を赦せるなら神も仏もいらなかったろう)


話は変わって、親鸞の「教行信証」にこんな悪人が出てくる。ちょっと長い話になるが聞いてくれると嬉しい。

提婆達多だいばだったという、仏陀の弟子がいた。
しかし彼はやがて仏陀に背き、様々な手段で仏陀を殺そうとし、最後は爪に毒を塗って襲いかかるも己の手を傷つけ亡くなった。
この極悪人にそそのかされ、父王を幽閉して殺した阿闍世あじゃせ王はその生まれから呪われていた。
というのは、阿闍世王はさる仙人の生まれ変わりと決まっていたが、父王は子の誕生を待ち切れずに、仙人を手ずから殺めたのである。
その後は国中の占い師が阿闍世王が父王を殺めると予言し、父王は逆に阿闍世王を殺そうとするも指を一本折るだけで済んでしまう(この下りは「オイディプス王」を思い出させる)。
この未生からの業縁(未生怨)に阿闍世王は身も心も深く病み苦しむ。
その彼のもとに六人の大臣が訪れ、様々な理屈で父殺しを正当化しようとする。それぞれ、

「善悪を否定する無道徳論」
「意思にもとづく行為を否定し、賢者も愚者も流転し輪廻するとする決定論」
「確定的な答えを避け、意味の曖昧な所論に終止する懐疑論」
「唯物論的な快楽主義」
「たとえ人を殺しても剣は世界の要素(分子)の隙間を通り抜けるだけと述べる無因論」 
「ジャイナ教」(相対主義的な特徴を持つ)
である。

けれど、そのどれ一つも阿闍世王の苦しみを決して癒やさない。そこへ仏陀が現れ、彼に深い後悔の心を起こさせ、その罪から救う。

ドストエフスキーの「罪と罰」がそうだが、人は大きな過ちを犯したとき、それを何とかなかったことにしたがる。
大多数のノミのような人間と一握りのナポレオンのように英雄的な人間―ニーチェの強者道徳じみた発想で己を誇ったラスコーリニコフは元より、世界は分子の集合にすぎない/全ては運命だと、偶然論や運命論で片付けようとしたり、他者と比べ己の罪はまだ軽いと、この六人の大臣たちの言葉のような、上滑りの安心を得ようとする。
その人間の何と虚しく弱いことか。愚かで寂しいことか。
前の記事でも少し書いたが、人はしばしば、自分に都合のいい神や己の写し鏡の神を崇め、束の間の安心を得ようとする。
だが、その先に真の安心などない。なぜならそれらの神はしょせん、この私の演ずる偽の神に過ぎないのだ。
阿闍世王の物語を読むたび、私は私の姿をそこに見る。償い得ない過ちを繰り返し、それを悔いる心も起こらず、ただ自己の奴隷となって生きる壊れた人間の滅びゆく姿を。
そして、そのような人間さえをも救う、仏のお知恵の計り知れなさを。

「ダークナイト」―神への挑戦者の系譜―

クリストファー・ノーラン監督の「ダークナイト」も、背後に神を負っている映画のように思える。

例えば、悪党ジョーカーがしばしば舌を出すのは聖書の蛇のモチーフと聞く。
彼の白塗りの顔は道化じみているが、正体は驚くほど狡猾こうかつである。世界の本質を混沌と捉え、人々の抑え込んだ悪を解き放っていく。

本来、人間は自由意志を持つが、それゆえに悪をも為す。
そこで神と人との関係性を問うのが正統なキリスト教である。
しかるに、この順序を入れ替えると―すなわち、「自由であるにもかかわらず悪を為す」という人間の不完全さ(壊れ)への内省を、「人間は悪をも為せる、それほど(それゆえ)人間は自由だ」とすり替えると、そこには悪魔崇拝的な価値体系が生まれてくる。
ジョーカーはこの思想の体現者であり、ドストエフスキー作品なら、死後の世界をクモの巣の張った物置と呼んではばからないスヴィドリガイロフやスタブローギン、子どもたちへの劣悪な虐待を引き合いに出しつつ、
「アリョーシャ、ただ謹んで(注:神の国へ入る)切符をお返しするだけなんだよ」
とのたまうイワンなど、神の全権に挑み、やがて太陽に近づきすぎたイカロスのように滅びゆく人々の系譜に位置する人物だろう。

ちなみにこの問題についてはトマス・アクィナスの言葉を引きたい。すなわち、
「悪は、善の力によらずには、はたらきを為すことがない」
憎しみや悪や混沌はそれ自体が一個の概念というより、愛や善や秩序の欠けた(に依存する)状態を示す言葉に過ぎない。(でないとキリスト教はグノーシス的な善悪二元論に変質してしまう)
バットマンで言うなら、ジョーカー抜きでもバットマンは活躍するが、バットマン抜きではジョーカーは存在意義を持てない。影を作らない光(神の光)はあれど、光によらず生まれる影はない。
ドストエフスキーの小説において神への挑戦者がことごとく破滅するのも、彼らは―無自覚にせよ―神の光を前提として辛うじて存在する影であり、決してそれ自体としての存在意義を持てないためと思うのだ。

であるから、ジョーカーによって最愛の人を殺された正義の検事ハービー・デントは顔の片半分を焼かれトゥーフェイスという、コインの裏表次第で人を殺すのを決める破滅的な運命論者に姿を変えてしまう。
ジョーカーのもたらす悪の自由は、しかし神の与えた自由意志の内側でようやく機能するものに過ぎない。さながら仏の指に小便をかけて悦に入る孫悟空のようなものである。
大仰なパフォーマンスを抜きにすれば、結局ジョーカーは人間にチンケな自己愛と欲望への隷属しかもたらし得ない―それは決して「福音」とはなり得ない。
そしてもう一つ。
本作でアリョーシャ役を務めるバットマンがジョーカーに暴力を振るうのは致命的な悪手である。
それは最終的にジョーカーの劣悪な価値観へ自ら身を貶める行為でしかない。

まあ、正義の味方がやることは古今東西「悪」の言いぶんに耳を塞ぎ、パンチとキックとミサイルで相手を皆殺しにすることでしかないが、それにしても本作でバットマンは言葉でジョーカーを言い負かさなければならなかった。
すなわち護教論を語る必要があった。 
それを暴力行為で埋めてしまった結果、本作で唯一説得力があるのは(例え影であれ)神へ挑んだジョーカーの破滅的な言葉である。
その意味で本作は、あるいは監督の意図を超え「悪の勝利」を謳った凶々しい作品になった気がしなくもない。
しかし、安手のヒロイズムよりはこの方がずっと素敵。なので文句はない。

美しい死について

素敵な短歌をnote上で偶然読ませて頂いたのでお裾分けする。 

……の前に、偉そうで悪いが短歌の読み方について講釈垂れさせてもらうぜ。

そも、短歌は三十一文字の詩である以上、連作という形でない限り圧倒的に情報量が足りない。
その空白を身勝手に―自身の心の湿った押し入れを引っ掻き回して―取り出してきた何かで埋めるように読むと少し読みやすいかもしれない。
例えば、詠われる二人の関係性は友人か恋人か名前のない関係か。性別や季節や場所はどこか。 

ということで以下の文は私のカビ臭い押し入れに生えたひん曲がったキノコである。
できれば読者諸氏は私のキノコとカビに汚染される前に、まず自分の押し入れを探すことを勧める。
繰り返すが、これはこの歌の正解でも作者の方の意図に沿うものでもない。単に私の身勝手な思い入れである。できれば読み終えたら忘れてくれ。

ずっとそう、あなたが嫌い。誰よりもきれいな遺書を書いた夜から。

私には冬の川沿いの景色が浮かぶ(三途の川のイメージがあるかもしれない)。そのそばで暮らす彼らの年は若い(年の入った人間は遺書を書かない気がするので)。
死との距離が遠い、若い人間が無理に死へ近づくとき、遺書は先取りの死との約束事として必要となるのではないか。
その死因は分からないが、以前から引き続く内的な動機があったのではないか。長い時間死と向き合い続けるうち、言葉は生の雑味を洗い落とされて、透き通った氷柱つららのように澄み切ったのではないか。
二人は(あくまで私には)女性同士のように感じる。
ここで嫌いな理由を説明する前に「あなたが嫌い」とはっきり言えるのは、やはり女性のように思うのだ(男性は―あくまで私の経験則だが―自己の感情を読み取るのが苦手である)。
上記を総合し、十代後半の少女たちの歌というイメージを持った。
少女の片方は、おそらくもう片方の少女に好意を持っていたのだろう。でなければ遺書を読もうともしない。
何とはなく面と向かっての言葉ではない気がする。遺書を書くほど死へと近づいた人間にはっきり「嫌い」と言えるなら、その遺書にわざわざ「誰よりもきれいな」という形容はしないように思う。

少女たちがどのような馴れ初めを持ったかは知らないし、そこまで類推すると本歌から離れすぎる(すでに離れているが)ため行わない。
ただ、例えば冬の空気の冴えた夜、川沿いのアパートで(両親はいない、死別、あるいは関係性が悪い)、片方の少女はもう片方の少女が何かを書き、それをどこかに隠す様を見ていたのかもしれない。
狸寝入りをした後、そっと起き、例えばキッチンなどで見つけた遺書を読んだかもしれない。
推測だが、怒りや寂しさが涌き起こったのではないか。これほどの関係にある自身にも黙って彼女が一人死のうとしていることへの、戸惑いや苛立ち、言葉にできない感情が思わず、「ずっとそう、あなたが嫌い。」という、激しい言葉として出てしまったのではないか。
空気は冴え冴えと冷たく、夜の川の水音が響いている。白い蛍光灯に照らされた遺書の文字は角張っており、いかなる感情も読み取れないまま、死へと向かう言葉だけが極楽にある宝石の木々のように、そこで輝いている。
死へと近づき滅びそうな魂と、そばで何も手を出せない無力な魂。
その二つの魂の―街灯のような美しい銀の―明かりは、死という暗闇を照らすただ一つの光である。

よい短歌を詠んでいると、ときどき深く死へ近づく一首に出逢う。それは私の何よりの喜びである。

他にはこの三首が印象深い。

少しずつ動かなくなる化け物に水を手渡す冬の始まり

はつゆきはゆっくりと落ち花となり私を溶かし街を溶かした

落日の都に燃える何千の泡立ち草を眺める僕ら

改めて、読めたことが幸いである。








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