「桜の花を砕いて織り込める頬の色に、春の夜の星を宿せる眼」
誰が書いた文章でしょう。
ヒント:泉鏡花でも三島由紀夫でもありません。
答え:夏目漱石。
ということで夏目漱石「一夜」感想である。
といっても、冒頭のクイズがすべて。男二人と女一人が、漢文の教養のある会話を交わし合う、ただそれだけの短編なのだ。作者漱石も言っている。
お前が分からなきゃ誰に分かるんだと思うが、漱石はとっくに死んでいる。文句も言えない。
この際、「漱石の」作品ということは忘れて、高等教養の香りに思うだけ酔うのが楽しい読み方だろう。
読むときいくつかツテになりそうな注釈だけ載せておく。
※「描けども成らず、描けども成らず」とは『無門関』第二十三則「不思善悪」より。
意味としては、「本来の自己とは描くことも絵にすることも出来ない」だとか。
※鉄牛寺とは「吾輩は猫である」の「鉄牛面の鉄牛心、牛鉄面の牛鉄心」―意味:鉄でできた牛のように動かない心―をセルフパロディにしたらしい。
※宣徳の香炉とは明の宣徳年間(1426〜1435)に景徳鎮で造られた鮮やかな色彩が特徴の香炉。
余談だが、毛沢東の文化大革命で民衆が飢えに苦しむ間も、彼の身内はこの景徳鎮の器を使っていたとか。
※「虫+蕭蛸懸不揺、篆煙遶竹梁」はこれで「しょうしょうかかってうごかず、てんえんちくりょうをめぐる」と読み、その意味は「足長蜘蛛はぶら下がったまま動かず、静かに煙が篆字(てんじ、今見るのはハンコの文字くらいか)のように竹の梁を巡っていく」。漱石自作の漢詩。なお「草枕」にも出てくる。漱石のお気に入りだったのかもしれない。
※藕絲孔中とはレンコンの穴の中ほど小さいものの例え。
※粟粒芥顆とは粟の粒とケシの実。小さいものの例え。
漱石の「漾虚集」―虚(うつろ)を漾(ただよ)うの意味―には七つの短編がある。この「一夜」が一番短い。……漱石にはずっと苦手意識があるが、もうちょい読んでみる。