ドン・デリーロ「天使エスメラルダ」
※性暴力に触れています。
前書き
皆さんは抽象絵画を理解できますか?
私はギリギリ、ピカソは理解できます(第二次世界大戦より前のカラフルなキュビスムが一番好きです)。
でもポロックとなると(ごめんなさい)落書きにしか見えません。
小説も、例えばジョン・バースやバーセルミなら気合いで理解できますが、ピンチョンやデリーロまで来ると手に負えなくなってきます。
特にデリーロの作風はその難解さで有名で―資本主義の虚無性を暴いたという「コズモポリス」にはマーク・ロスコの抽象絵画が出てきますが―「ボディ・アーティスト」も「堕ちていく男」もまさしく抽象画的、私には話の要点が掴めませんでした。
デリーロの文体には肉声がありません。無機質なAIのような声で淡々と語られていきます。
イーストン・エリスに、「アメリカン・サイコ」という、やはり物質主義の行き着く果てを書いた小説がありますが(日本製品がたくさん出てきます)、それと似た温度のない読み心地がどうしても合わず、(ピンチョンもろとも)好んで読んでは来ませんでした。
ただ、一つだけ深く魅力を感じた作品があります。短編「天使エスメラルダ」(The Angel Esmeralda)です。
なぜ好きか。無機質な語りの向こうに、人肌の温度があるからです。
本題
主人公は年老いた修道女のシスター・エドガー。ただ、いささか型破りな修道女です。
(略)祈りとは実用的な戦略なのだ。「罪」と「赦免」の資本主義市場における現世的利益の獲得。
実際、昔とある教皇が約束の日(一説には十四万年後とか)を超える日数の赦免を信徒らに与え、真面目な神学者たちが辻褄合わせに奔走したと聞きます。
彼女の暮らす地区は極めて治安が悪く、多くの子どもたちが様々な理由から命を落とします。
(略)結核、エイズ、撲殺、通りすがりの車からの射殺、血液疾患、麻疹、ネグレクトや乳幼児遺棄―ゴミ収集箱に置き去り、車内放置、クリスマスイブにゴミ袋に入れて捨てられた、など。
そのため、子どもが亡くなるたび天使の絵を描くグラフィック・アーティストの青年イスマエルによって、今では「高い石壁のおよそ半分あまりが青とピンクの天使たちで埋め尽くされ」ています(彼の名も天使が由来ですね)。
この地区では、定住できる住処を持たない(おそらく車上生活すら困難な)貧困層の人々は廃ビルに住み、犯罪行為や物乞いで生計を立てています。
(注:シスター・)エドガーが彼らに対して一番不満を感じるのは、その英語だった。(略)彼らが動名詞の"ing"から"g"を抜くたびに、彼女は抜け落ちたその隙間に硬質の"g"を打ち込みたくなる。
この前、萩尾望都さんの「春の夢」を紹介しましたが、同様に発音で階級差が明らかになる場面が出てきます。
イギリス同様アメリカも、発音や使う単語で属するコミュニティが露わとなります(特に南部訛りは蔑視されやすいため矯正する人もいるそうです)。
タイトルのエスメラルダはまだ十二歳の少女です。シスター・エドガーは彼女を保護しようとしますが廃ビル暮らしの人々はまともに取り合いません。
(なお廃品回収の男の「(略)俺の扱った屑鉄も流れ流れて、ほら、北朝鮮にたどり着くなんてことになるかも」というセリフに見られるように、現実そのものがパラノイア的になりつつあることを示唆する描写が―ピンチョン同様―ありますが、やや観念的に過ぎる感があります)
その後、エスメラルダは「何者かに強姦されて、屋上から投げ捨てられ」ます。
構造的な貧困―彼らの集める屑鉄すら資本主義というシステムの内部に組み込まれている―と果てしない暴力とは止むことなく続きます。
イスマエルの描いた美しい天使たちも、シスター・エドガーのカトリック的な厳格さも、神も、その前では等しく無力かもしれません。
しかし、この小説の怖ろしくも美しい点はこの後の展開にあります。
(略)列車のヘッドライトが広告掲示板をさっとかすめ、群衆から声が上がる。ハッと呑んだ息が、嗚咽と呻き声になって出てくる。名状しがたい、痛みに満ちた歓喜の叫び。口から噴き出た喚声、堰を切った信仰の慟哭。電車の照明が広告掲示板上でも一番薄暗い箇所を照らし出すと、霧立ちこめる湖に人間の顔が出現した。それはあの殺された少女の顔だ。十数人の女たちが自分の頭をぎゅっと摑み、喚声を上げ、すすり泣いた。聖霊が、神の息吹が群衆を吹き抜けた。
エスメラルダ
エスメラルダ。
広告掲示板という資本主義的なシステムの象徴に、突如としてエスメラルダの顔が浮かび上がる現代の奇蹟が起こるのです。
もちろん、「その次の晩、広告掲示板は真っ白にな」り、奇蹟の「記憶は希薄でほろ苦く」「あなたに気恥ずかしい思いをさせる」だけかもしれません。
それでも、資本主義に寸断され生きる無名の人々が一人の少女によって「連帯感に包まれたあの時」が消えてしまったわけではありません。
「天使エスメラルダ」はこうして幕を閉じます。
以下ではいくつか補足をさせてください。
まず広告掲示板が奇蹟の対象に選ばれた背景には、哲学者ボードリヤールの概念「シミュラークル」の影響があるかもしれません。
私も正確に説明できるわけではありませんが、一言で言うなら
「もはや現実と呼ぶべき確かなものはなく、すべては表層的なイメージに過ぎない」
という主張です。
少し間違えば通俗的な相対主義に堕します(し、事実日本ではそうなりました)が、例えば国道沿いのチェーン店が立ち並ぶ風景の見分けのつかなさを思えば、いくらか納得感がある主張ではないでしょうか。
世界がいくらでも取り替えの効く、まさしく広告掲示板的な場所へ変わりつつあるこの時代に起きた取り替えの効かない(一回性の)奇蹟として、エスメラルダの死は強く印象付けられます。
また、エスメラルダの姿には明らかにイエス・キリストの殉教が重ねられているでしょう。
一方で、広告掲示板の奇蹟を手放しに認めがたいのも事実です。
悲惨な状況に置かれた幼い子どもの姿は、私たちに強い義憤や同情、連帯への欲求を生み出します。
それゆえ、しばしば戦争を正当化する大義を作るため、権力者・国家による恣意的な捏造が行われてきました。
このエスメラルダの奇蹟も、資本主義的な「損得勘定」の世界から抜け出しているかについては、いささか危うい両義性を帯びています。
と、本作はこのように多義的な読み方のできるユニークな短編です。
ぜひ皆さんも読んでくれると幸いです。