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梶井基次郎「蒼穹」



雑談

なんかこう、張り切られすぎると逆に引いちゃう心理が人間にはある。さくらももこ氏の「ちびまる子ちゃん」にもそんな話が出てきた(あれはなかなか人間風刺の効いた作品である、世が世ならスウィフトと並び称されていただろう)。
徒然草にも張り切り屋の失敗談がある(坊主連が稚児を楽しませようと弁当だったっけ、を紅葉の下だかに埋めるも持ち去られてしまうのである)。

梶井基次郎の文章もまさにそれで張り切り過ぎである。

最近の作家だと川上未映子氏もそうだが、詩的才能のある作家の文章には総じてこの傾向がある。こう、彼らの抱える特権的な詩的イメージを全身全霊で伝えようとするあまり、読者をチラ見する余裕がないのである。
このモーレツ火の玉ストレートな表現精神は、短歌ならいい。

夕雲に燃え移りたるわがマッチすなはち遠き街炎上す 葛原妙子

そう、マッチの火が遠い街を焼き尽くす詩的な奇跡は、だが三十一文字という形式の内部でしか許されない。

あの金子みすゞの「私は不思議でたまらない」のリフレインで知られる「不思議」だって、散文にしたら死ぬほど鼻につく。

私はすごく不思議でたまらない。たとえば、黒い雲から降る雨が銀色だったり、青い桑の葉を食べている蚕が白色だったり、誰もいじらない夕顔が一人でぱらりと開くこと。
でも、もっと不思議なのは、誰に聞いても笑って、「当たり前じゃないか」と言うこと。

なんか、「見てよ、ほら私って繊細なの!こんなことにも気づけるの!私の素晴らしい感受性!」―そんな嫌味な感じが出てしまう。

で以下はオリジナルである。

わたしは不思議でたまらない
黒い雲から降る雨が
銀に光っていることが

わたしは不思議でたまらない
青いクワの葉食べている
蚕が白くなることが

わたしは不思議でたまらない
たれもいじらぬ夕顔が
一人でパラリと開くのが

わたしは不思議でたまらない
たれに聞いても笑ってて
あたりまえだということが

 
これは素晴らしい詩である。

だから、表現形式は表現内容を厳しく取り締まるものなのだ。丼がミルクティーを拒むように。

本題

ということで、蒼穹に関して言えば以下の二点が素晴らしい。まずは書き出しの、

(略)空にはながらく動かないでいるおおきな雲があった。その雲がその地球に面した側に藤紫色をした陰翳を持っていた。(略)

p330.

ここでは「地球に面した側に」が決まっている。髪ならワックスの決めすぎであり、どちらかといえば詩や短歌に向く表現だろうが、とにかくかっこいいのだ。

次に、本作の最後「私」は闇夜の経験を思いだす。
村人が「背に負った光を失いながら」―「ただ一軒の人家」の燈から離れて―「闇のなかへ消えてゆく」のを見ていた「私」は「その闇のなかへ同じような絶望的な順序で消えてゆく私自身を想像(略)」する。

この暗闇の記憶が、突如として「雲が湧き立っては消えてゆく空」と結びつく。「私」はこの青空―タイトルの蒼穹そうきゅう―に「白日の闇が満ち充ちている」ことに気がつき、

(略)濃い藍色に煙りあがったこの季節の空は、そのとき、見れば見るほどただ闇としか私には感覚出来なかったのである。

p335.

江戸川乱歩の「白昼夢」を思いだす。筆者のような鼻毛男には昼は昼で夜は夜、世界はいつも同じだが、彼らのような強い感覚を持った人々の目から見れば、青空とは人間界を取り囲む青い闇かもしれず、白昼は死体が公然と晒されている魔界なのかもしれない。

以下青空文庫でそれぞれ読める。よければ。


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