三島由紀夫「世々に残さん」

三島由紀夫「世々に残さん」。昭和十八年―一九四三年、三島由紀夫十八歳の作品。
三島本人の言葉を借りるなら「平家没落哀史」―源平合戦のさなかに滅びゆく平家の若者の姿を描いた短編である。

まず本作で驚くのはその緊密な構成だ。
主旋律に今をときめく美青年の春家と山吹の儚い恋物語があり、副旋律に出家した秋経と遊女の珊瑚の当てもない流離譚がある。
擬古文の完成度も素晴らしい。擬古文は扱いの難しい表現だ、下手すると文章から自然な呼吸が失われる。
ところが本作は―やや怪しいところがあるのは認めるが―かなり高い完成度を保っている。
以下、本文と照らし合わせて見ていきたい。

◯夏と秋

夏が来て夏がすぎた。やが桔梗ききょうの露はぎの露に、しろい月かげがおちた。

この僅か二文で夏が過ぎ、秋が訪れたことが書き尽くされている。特に夏の下りを簡潔に書いたのが効いている。
蛇足かもしれないが、三島が(確か同時期の)エッセイで紹介していた凡河内躬恒おおしこうちのみつねの和歌に

夏と秋とゆきかふ空の通い路はかたへ涼しき風や吹くらむ

という作がある。手元にないのであやふやだが、確か氏はこの歌の優れている点を歌い手の立ち位置と述べていたはず。
【夏と秋。季節と季節がすれ違う空では、片側へ涼しい風が吹くことでしょう】
この歌を歌った人間は夏と秋のどちらにいるのか。ちょうど境目にいるのだ。夏が失われ秋が訪れる身の置きどころのない季節の狭間で、空の高みに思いを馳せている―それがこよなく美しいのだと。

◯星と預言

その夜も星はかくおのおの(注:各々)ひそやかな預言のやうに、こゑもなく生れそめていたのであらう。

「生れそめて」は「生まれ始めて」。説明するまでもなく美しい一文。
蛇足だが、「預言」と「予言」は別物で、前者が(主に唯一神から)預かる言葉なら後者はあらかじめ未来を知る言葉である。本当にどうでもいいが「義援金」も本来は「義捐金」―義のためにてる金だったはず。

◯火と滅び

(源氏たちに火をつけられた僧たちが仏像を置き去りにしたまま逃げようとしたとき)目のまへにそびえ立つた五重の塔は燦爛さんらんと僧たちの上にくづれかゝつた。九輪のさきまでも花やかに火に包まれて、み堂のうちは煙が歌のやうにたのしくみちてゐた。僧のむれをおしたふしたその塔はなほ横ざまに美しくもえさかつてゐた。本堂のなかにもふしぎなひゞきがあつた。火がみしみしと音たてゝ歩んでゐた。やがて煙が七彩の曼陀羅まんだらをあふつた。曼陀羅はおほらかにあふられつゝ、ゑがかれた紫の雲がちろちろと紅ゐにもえそめるとき、蓮池と浄土の精舎のゑもやうをこよなく艶やかにきらめかせた。焰の咲いたあまたの棟木が秋の落ち葉のやうにおちかゝつても、ある仏の像はみじろぎもされなかつた。(以下略)

火が松や桜のこずゑを枯らし池のおもてにすさまじい影をおとして(略)廊をかけぬけてきたとき、かく迫る業火のこゑもしらぬげに障子の春の舟楽をてらすひかりはなほ中天の雲の流れにさをさしながらしづかに漕ぎすゝんでゆく月からのものであった。障子の絵はいまし別な、内からのかゞやきでものものしく花やぎだしてゐた。ゑがかれた夜の庭は刹那せつな朝陽まばゆい庭ともみえた。一つの障子にはふいに焰の流れる穴がひらけた。他の障子は次々に音もなくたふれた。
(以下略)

ここで王朝的優美の世界は武士たちの火になすすべなく滅ぼされる。だが一瞬、滅びの火と貴族たちの美的世界が重なるとき、それはもはや滅びでも美でもなく、この世の言葉で言い表せない彼岸の滅びを、彼岸の美を示すのではないか。

本作の最後、秋経と珊瑚は「老をともにし穴を同じうしたこと」の他には行方知れずとなる。そして春家は源氏との合戦の際戦はやりから水底に沈んだはずだったが、実は生きていた。すでに年老いた春家と山吹は再会し、積年の物語を語り合うのだった―

三島氏の作品にしては珍しく「老い」が裁かれず、物語の豊かさもある温かい結末だ。 

(ここから読まなくていい/◯現実とフィクションの境目

(都へ向かう道の傍らに浄土和讃を唱える秋経と珊瑚の姿を)ある人は(略)あれこそはみ仏のみ影が、すくふべきことどもの数もしれず、四辻に立っておもひまよはれた有やうであつたとかしこげに人にも伝へた。

面白い一文だ、特に仏が「おもひまよはれ」る発想が。
方丈記に出てくる、死者の額に印をつけその数を数えた僧の話など思い出した(京の近辺だけで死者四万二千三百人に及んだという)。これに絡めて少し話したい。

普通に生きるとき、私たちはフィクションと現実を厳しく分けて生きている。実際そうでなくては困るだろう。ニュースの山火事がドラゴンとUFOの一騎打ちの結果だと平気で信じてしまったら(おそらく)私たちは生きていけない。乾燥した空気の自然発火だと考える。
間違ってはいない。だが私たちと現実は本来無関係なものだ。軽々しく言うことではないが、例えば一九九五年の阪神・淡路大震災及び地下鉄サリン事件は下手なおとぎ話のようだった。だが現実だった。
現実はまるで虚構に姿を変えたかに見える。

現代は比較的社会が安定しており、現実は壊れないように見える。だが本当は次の一瞬何が起こるか分からない現実を、私たちは手懐け、コントロールできる幻想を抱えて生きているに過ぎない。
現実が自分を暗闇の無人島に一人残して去っていく船のように感じたとき、人は何を信じればいいのか。 
そのとき人は虚構を信じる必要に迫られるのではないか。

現代では宗教や小説や美術といった虚構を軸とする領域が力を失っている。現実が大きく崩れないと信じるとき人は現実を豊かにしたがり虚構は安全な娯楽の領域に留められる。
よく似たことが江戸時代―太平の世に起きている。若いうちは商売に励めと諭され宗教―仏教が茶化され、宗教者は社会の枠から出ず現世主義が強い力を持った。
 
だが現実と虚構は私たちが思うほど分かれていない。現実が虚構になる瞬間も虚構が現実になる瞬間も共にある。
虚構を信じる能力は現代では特に、遊びや教養に見える。だが現実が不確かなとき私たちを支えるのは、確かであろうとする虚構だけだ。
だから本作の、仏がどれだけの人を救うべきかも分からず四辻で立ち迷うその発想は良いのだ。その虚構が死者を数えきることもできない悲惨な現実を支えている。
一方、虚構を排除し続けた私たちの手元には手に負えない現実だけが残った。両者をつなぐ道筋は見えず、宙に浮いた虚構と説明困難な現実の間で私たちは引き裂かれている。 
今こそ現実が虚構を押し潰さず虚構が現実を呑みこまず、両者が自由に行き来可能な、広く、風通しの良い通路が生み出されなければならない。

そんなことを思って読んだが、他人にはつまらない話だったと思う。私のちっぽけな頭のどこまでも虚しい整理整頓である。
三島由紀夫の短編は当たり外れが多いせいか「花ざかりの森」や「憂国」といった一部を除いてあまり聞かないが、知る限りでも秀作が二十ほどはある。個人的に「頭文字」「日曜日」「翼」「朝の純愛」と初期作品のほとんどはおすすめできる。だが本当に読んだ時間が無駄になる作品も多いので、律儀にすべて読む必要はない。
それから戯曲もいい。「黒蜥蜴」「熱帯樹」「サド侯爵夫人」あたりがおすすめ。



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