「有明の別れ」―幻の異性装物語―
冒頭部だけだが南條範夫氏による現代語訳を載せておく。
※性的な話題を含みます
前書はだいたい原稿用紙10枚の文量がある。素人の私論で人生の貴重なひとときをドブに捨てたい方がいらっしゃるなら止めはしないが、
「作品紹介」を読めば本作「有明の別れ」のあらましは分かるように書く。作品について知りたい方はそこだけ読んでほしい。
前書―禁忌とは何か―
「チャタレイ夫人の恋人」裁判をご存知だろうか。
今から考えるとトンチキな裁判だが、ロレンスという(今やヘンリー・ミラー同様忘れさられた)性描写を赤裸々に書いた作家の作品を翻訳した伊藤整が公共の福祉の名の下に裁かれたのである。
結局は問題箇所が黒塗りになって出版だったか、発禁処分か忘れたが、とにかくそう騒ぐような描写ではなかったにもかかわらず、判決文では「延いては人類の滅亡を招来するに至る危険」があると書かれている(ただ後の最高裁判決では幸い撤回された)。
アメリカはトマス・ピンチョンという作家の「重力の虹」に、その男のペニスが勃起した地点にミサイルが落ちてくるという登場人物が出てくるが、あるいは裁判官も同様のパラノイア的妄想に取り憑かれ、勃起した千の男性器が空から降り注ぐミサイルとなり世界を滅ぼすとでも思ったのだろうか。
それを思えば隔世の感のある都知事選だった(この書き方は「天声人語」みたいで嫌だが)。
候補者の一人の女性が突然服を脱ぎ始めたのである。
いったい彼女は選挙や民主主義を何だと考えていたのだろう。
そもそも彼女の意思なのかも分からないが、私にとってはひたすらに胸糞の悪い出来事だった。
QueenとDavid Bowieの歌う「under pressure」に
「And love dares you to care for The people on the edge of the night」
(拙訳:そして愛はあなたにその人々を気にかけるよう促す―夜の片隅にいる人々を)
という美しい歌詞があるが、今回の都知事選はその真逆だったろう。
人々の肥大化したエゴの醜さのみ目立った。
話を続けよう。
なぜ私たちの生殖器官や授乳器官や排泄器官は隠すべきものとされるのか。
これは黒沢清監督の映画「ドレミファ娘の血は騒ぐ」で卓抜な意見が出ていた、要約を示すと、
「私たちは裸体を衣服で覆うことで裸体を恥ずべきものだと自ら示している。その点で服を着る行為は大いなる倒錯である」
卵が先か鶏が先か。私たちは恥を覚え衣服を身に着けるのか、衣服を身に着けたゆえに恥じるのか。アダムとイヴの逸話を思いだす。いったい恥ずかしいから隠すのか、隠すから恥ずかしいのか。
筆者としては後者を推したい。
何しろこの世に知恵の実はないのだ、どちらかと言えば防寒その他で衣服を着用するうち裸体を隠すべきものとする合意が生まれた―その方が自然ではなかろうか。
隠すべきもの―禁忌とはいつも後天的に生み出されるものである。
たとえば南米のジャングル、人跡途絶えた極北―自然そのものには禁忌などないだろう。
その点で、禁忌とはいつも人が何らかの理由から自然界にあつらえた検問所と言ってもいい。
「チャタレイ夫人の恋人」はこの検問所に引っかかり、大した罪もない文章を黒塗りにされたのである。
だから、本当には禁忌などないとも言える。それはいつもどこかの誰かが何かの理由から後付けで生んだものである。
天皇もサラリーマンもホームレスも心臓は一つしかない。
それを天皇「陛下」と呼ばせるのも、あるいは子どもの目をホームレスから逸らさせるのも―いずれも私たちに刻まれた「禁忌」―タブーの感覚に他ならない。
少し話が逸れるが、聞いてほしい。
かつて日本に黒、白、赤の三種の穢れがあったと聞く。
多少の差異はあるが、それぞれ
死、出産、月経
を示していたと聞く。後者二つは女性に関係するものだ。
このため女性は月経中は家族と同じ部屋で食べ物が食べられず、また出産時も出産用の仮小屋で産むことが一般的だった。
死後も一度は男性に生まれ直さなければ極楽には往けない上、地獄では血の穢れゆえ血の池地獄でもがき苦しむとされた。
書いていても気分の悪い話だ。宮中の穢れ観が次第に民衆化したという説では納得できない、女性の存在を貶めようとする明白な悪意をここには感じる。
その出所までは筆者の知識では手に負えないが、やはり男性の、弱者に対する本能的な攻撃性が剥きだしになった結果ではないかと思っている(あくまで筆者の認識である)。
それに後付けで神道や仏教の知識が捻じ曲げられ、援用されたに過ぎない―そう思われてならない。
禁忌とは後付けであるから、その理由は後からいくらでも捏造できるものだ。
たとえば
「家事は神聖な労働だから金銭を払う必要はない」
と主張する男たちのように―神聖もまた禁忌と隣りあう概念だ―一部の人々の欲望やエゴ(家事に給料?馬鹿げてやがる)から始まった禁忌は、やがて後天的な正当性を付与され(愛の証明!女性の使命!家族の絆!)、大手を振って公道を渡り始める。
その点では、本記事で扱う「有明の別れ」の舞台となる宮中も、現代日本と違いはなかったかもしれない。
何しろ、女はあくまで男たちの性欲(に代表される欲望)の写し鏡として存在することを求められるのだから。
実際、女性の性欲は現在でも禁忌の帳の奥に封じられたままだ。
筆者は、人間の欲望は等しく醜いとは思うが、男性の欲望のみ暗黙に許され、女性は封じこめられるこの不均衡をまず認めてはならないと思っている。
(余談:作詞家の阿久悠氏のピンク・レディーの歌詞は女性の性欲を正面から書いたものとして昨今評価が高まっていると聞くが本当か)
私たちは私たちの自由な心を年齢や国籍や容姿―何よりも性別によって旧植民地のように引き裂かれ生きている。
サンタクロースに頼んでもいない性欲を十代前半には植えつけられ、それに疑問を持つこともできず、自身の一部であるかのように思い込まされ生きている。
だが、たとえばあなたの本当に愛する人が生殖器官や性欲を喪失したとして、あなたは彼(あるいは彼女)を見棄てるだろうか。彼らはその日を境に別人になるだろうか。
私たちは欲望の周囲を虚ろに回る衛星に過ぎず、そしてその欲望を自身だと思い込まされ生きているのではないだろうか。
この点、ショーペンハウアーはもう少し簡潔に「人間は欲望を欲望することはできない」と述べている。
もし村上春樹風に言えば「人間はドーナツを欲することはできても穴まで食うことはできない」となる。
なお彼の講義生はヘーゲルに奪われ全くいなかったと聞くが、個人的にはヘーゲルよりよほどまともな思想家だと思う。
私たちは男/女というベルリンの壁のように暴力的で乱雑な区分に不愉快さを(特に女性は)覚えながら、社会の定規の下でそれなりに自らの背丈を合わせていく。
女性は通りすがりの人間に胸元を凝視されても彼を背負い投げしてはいけないし、男性は女性の人権を無視した雑談を適度に愉しまなければいけない。
そこには無数の禁忌がある。女性は海賊のように笑ってはならず、男性は深窓の令嬢のように啜り泣いてはいけない。
誰がいつ何のため決めたかすらわからない無数の禁忌は、さながらかつての宮中儀礼である。
だからこそ人はときにその禁忌の群れを―心を分断する無数の検問所を―なぎ倒したくなる。身勝手に引かれた境界線を侵犯し、この心臓をたった一人の―自らのため動かしてみたくなる。
「ルールとは破られるためにある」。禁忌も自由を求める人間の心によって、いつか必ずベルリンの壁のように崩れる定めにある。
その後は新たな壁がえっちらおっちら生み出されるのもまた定めだが。
禁忌を打ち壊す手立ての一つに、本来混ざらない両者を混ぜ合わせる手がある。洗剤の話ではない。
フォークナーの愛読者はご存知のことと思うが、アメリカでは白人と黒人の混血に対する強い忌避感情があった(今もある)。
それはやはり、本来白人と黒人が交わらないことで再生産され続ける禁忌の制度を崩壊させてしまうからではなかろうか。
禁忌のボーダーを壊すのは、ときに中間者・トリックスターであり、異性装者(あるいは両性具有者)もこのボーダーの中間者に該当する。
この場合は性別の禁忌である。
筆者が子どものころ、手塚治虫氏の「リボンの騎士」を読んで胸が高鳴った。
それから萩尾望都氏の諸作を読み、宇宙を舞台にした冒険ミステリー「11人いる!」の男性にも女性にもなれるフロルの天真爛漫さや「Marginal」のキラのつかの間見せる蠱惑的な表情に、強く魅せられた。
山岸凉子氏の「日出処の天子」や大島弓子氏の同性愛を扱った諸作品も何度読んでも飽きなかった。
今思えば、そこでは窮屈な「性」の検問所が取り除かれていたのだと思う。そう、人間は「男」でなくてよく、「女」でなくていい。
眩しい自由がそこにはあった。
(余談:ボーカロイドの楽曲を作成しておられる、はるまきごはん氏という方がいる。
ボーカロイドはまだサブカルチャーとして扱われがちな表現領域ではあるが、氏の壊れやすい夢を描いた「メルティランドナイトメア」、少女たちの透明な関係性を描いた「第三の心臓」、当たり前の幸福から弾かれた少女を描いた「ディナーベル」、最新作の静かな闘志を感じる「エンパープル」に至るまで、どれもメイン/サブという退屈な境界など軽く無視して優れた楽曲である。
また、氏が自らの声で歌った「僕は可憐な少女にはなれない」という楽曲がある。YouTubeで聞けるのでぜひ聞いて欲しい。そこでは性別というものの否応なく孕む暴力が可視化されている。)
作品紹介―なぜ幻なのか―
「有明の別れ」に話を戻すと、「とりかへばや物語」同様に書かれた主人公の異性装は、性別という禁忌とそれに絡みつく規範意識への反抗として描かれる。
しかし、最終的には異性装者たちが女性の姿に戻り、「女性としての幸福」に落ち着くのも同様だ。時代的な制約とは思うがやや物足りない。
筆者が読んだのは南條範夫氏の現代語訳である。
現代の読者のため、奇譚的な要素
(※琴や笛の演奏のもたらす奇瑞は「宇津保物語」以来の平安物語を滔々と流れるお約束である)
の省略があるのを除けば、本文に忠実な訳である。
本来なら原文と読み比べたかったが図書館には在庫がなかった。
そのため筆者は南條氏の訳出がなければ「有明の別れ」を読むことすら叶わなかった。その訳業に深く感謝する。
(ところで、人の名前に物申すのは無礼だが、「規範たる夫」という名の方が異性装の物語を手掛けているのは不思議な感じがする)
なぜ「とりかへばや物語」に比べこれほど入手が困難を極めるかと言うと、本作の発見は第二次世界大戦後と極めて遅く、「天下の孤本」と呼ばれ、成立からおよそ八百年ぶりに陽の目を見た、かなり数奇な命運を辿った作品なのである(南條氏「有明の別れ」より)。いっそ岩波あたりが「とりかへばや」と抱合せで文庫化でもしてくれればいいのに。
タイトルの由来
タイトルの有明は有り明けで、この「有り」は月が主語である。
即ち、「月が有りながら朝が明ける」風景を指して有明と呼び習わした。
百人一首にも
(拙訳:白々と明ける空に浮かぶ月のように、すげないあなたとの別れから後は、夜が明けようとする暁のたび(あなたとの別れを思い出しては)心が辛く苦しくなる)
―と詠われており、何ならこれが本作「有明の別れ」のタイトルの由来と言われている。
あらすじ
本作のあらましは、南條氏が冒頭で正確に解説しておられるので、以下引き写させていただく。
この複雑極まる物語に南條氏は主語を加え、ややこしい官名を廃し、不必要と思える脇役の描写を削いで現代読者のため便宜を図ってくださった。改めて感謝する。
各章解説
二
南條氏の解説が一に当たるため、作品自体は二から始まる。
彼らは順に、「右大将尚教、三位中将輔家、右衛門督経平」、誰も「十七、八歳」の美しい貴公子である。
このうち、輔家は光源氏の系譜に当る色好みの貴公子、経平は父の仲平に結婚させられてしまい身動きが取れないとはいえ案外女遊びをしているとも聞くが、尚教のみが浮名を流さない。
彼の容姿は、
と描写される。
伊勢物語第二十二段に収められた
「秋の夜の千夜を一夜になずらへて八千代し寝ばや飽くときのあらむ」
(拙訳:秋の夜の、一千夜を一夜と見なして、八千夜も共寝をしたら満足することはあるだろうか。[いや、きっとないだろう。それほど私はあなたを愛している])
この和歌が背景にあって「千夜を一夜(略)」以下のどれだけ見つめ申し上げても満ち足りないだろう美しさ(「まもり聞こゆとも飽くまじきもの」)という表現は生まれたか。
お察しの通り、これだけ美貌が強調される尚教こそ本作「有明の別れ」前半の主人公である。
その美しさは美女三昧の帝さえ心動かされるほど。「男性としてはやや小柄であるのさえ、何となくいとおしく思われ」る。
そこで帝は右大将(尚教)の妹姫の入内を望むが、尚教の父・左大臣師教は右大臣の姫(安子)がまだ皇子を生んでいないことを理由に断る。
右大臣の仲平はこれに感激し、次女の婉子を尚教に嫁がせたいと申し入れるも、やはり父の師教はその体の病弱なことを理由に断る。
さて、片や帝、片や右大臣家への入内・嫁取りを相次いで断るとは、いったいこの師教とはどんな人物だろうか。美しい尚教なら引く手も数多あろうにと、人々はいぶかしく思う。
話代わって、尚教の夜歩きの話である。(※本来はここで隠れ蓑譚があったかと思うが前述の通り南條氏の訳では省略されている)
ここで尚教はおぞましい景色を見ることになる。
色好みの基忠が後妻の北の方(※正妻格の女性)が「どこかの寺にお籠もりに行っている」隙に、「北の方の連れ子で、美貌と噂の高い公子」に迫る。
血は繋がっていないとは言え、事実上は娘であり年齢も離れている。
公子としては「自分の年齢の三倍に近い」義理の父基忠に性欲求を向けられ、
◯古典に対し現代の価値観をぶつけるのは正しいことではないかもしれないが、やはり醜悪極まると言わざるを得ない。
この数日後の夜、尚教はこの基忠の息子の輔家が女にその場限りの口約束を交わし、女がひどく泣いている現場に遭遇する。
そして最後に、尚教はかつて自分に嫁入りするはずだった婉子が、当てつけに中務卿宮という高齢の男性の妻となり、しかもその後輔家と関係を持っていたことを知ってしまう。
「両手両脚で、しっかりと男のからだにまつわりついている」婉子を見て尚教は
と慨嘆する。
三
冒頭では尚教の出生の秘密が明かされる。
彼は父の師教が中年になってから生まれた姉妹の片割れだった。
ところが、師教はこの子宝には満足しなかった。そこで、「一人を男児として育て」ることを決意する。
ところが「妹姫として育てられた双生児の片割れは」十三歳のとき亡くなっていた。
しかし師教は諦めない。彼女を「幻の姫」としてその死を隠ぺいした。
そして師教はまだ恐るべき計画を隠し持っていた。
尚教に「秘密に児を孕んで当惑している姫」を娶らせるというのだ。
だが、そう都合よく相手がいるだろうか。
この頃、義父に体を貪られた公子には、
ついに侍従が「姫さま、御懐妊でございますね」(「御懐妊」強調は筆者によるもの)と告げることになる。
そしてこの事実上の近親相姦関係がついに北の方に発覚する。基忠はまだいい。
そこへ一部始終を見かねた尚教が現れ、公子を屋敷から連れ出した。
(注:直衣・指貫・御衣はそれぞれ貴族の平服、袴、夜着)
男装の麗人と少女が、基忠と北の方という夫婦から逃げていくこの場面に、同性愛の非社会的な(決して「反」ではない)燦めきを読むのは強引なのだが(公子はこの時点で尚教が女性であることを知らない)、そうした理屈抜きで、美しい場面だ。
翌朝公子の姿が消えていたことで、基忠と北の方は大いに困惑する。
また、基忠の息子輔家も、「美貌の義妹公子に、ひそかに、深く、恋着していた」ことが明かされる。
四
公子を引き取ったことで尚教の心労は増すばかりだ。
そのため、尚教は今まで以上に男性的に振る舞おうとするが、「それがかえって妙に妖しいなまめかしさを発散する。」
男色の傾向のある「色好みの公達たちは」この「言い難い色めいた雰囲気を」悟って、「一度(略)女人の扮装をさせてみたい」など話し合う。
一方公子は上品にして優雅な尚教と巡り会い、安心を得ていた。
母の北の方とも再会し、北の方も北の方で、愛娘が左大臣家の一人息子と結ばれたことをひどく喜ぶ。一方、
男の性欲の惨めな滑稽さがよく出ていると思う。
「年が明けて二月、宮中で、梅花の宴が開かれた。」
そこで尚教の作った漢詩も詠んだ和歌も、その場にいる誰より優れ、帝さえ愛しさの裏返しのような、愉しい妬みの感情を抱くほど。そればかりか笛さえ見事に吹く(※おそらく本来は笛の起こす奇瑞的要素があったと思うが省略)。
一方、公子の義兄の輔家は、尚教が月の病で姫のそばを離れた隙の、五月雨の夜に公子の元に忍び込む。
ここでは、女とは新しく売り出されたゲームか何かのように扱われている。
しかしこの戦略は成功し、公子は
公子はこの一夜の交わりで妊娠する。
その後、輔家は警備の厳しくなった公子を、道中で詰まったゲームのようにあっけなく捨ててしまう。
またこの後、帝が夢で尚教が女性であることに知らず気がつく挿話があるが省略する。
五
「八月十五夜の月見の宴が宮中で行われた。」帝は次第に尚教への思いを―その正体は知らないまま―抑えられなくなり、尚教を抱く。
帝はこの美しい、男の身なりの女を繰り返し抱く。月の光の下の尚教の美しさは目もくらむばかりである。
夜じゅう愛され、尚教がその身を解放されたのは空がすっかり明るくなる頃だった。
帝は尚教に、
と和歌を贈り、尚教は
と返歌する。
有明の月の下去っていく、尚教の寝乱れ髪の姿は、
と描写される。
帝は当然美しい尚教に深く執着するが、尚教は理由をつけて断り続ける。
だが帝は加茂御幸にかこつけ尚教を召し、尚教は止むなく受け入れる。
六
加茂御幸の最中も帝の尚教への恋着は深い。
この後、六・七章で尚教は彼の妹の幻の姫と入れ替わることで帝と結ばれ、父の師教も太政大臣に出世する。
ハッピーエンドといえばそうだが、ある意味既成社会の考える幸福の檻に閉ざされたと言えなくもない。
第二部は十七、八年後、基忠と公子の間に生まれた道房の、色好みの貴公子物語となるが、すでに「源氏物語」という巨大な先行ランナーがいる以上、どうしても見たことのある物語に落ち着いていかざるを得ず、尚教も女院として落ち着いているため異性装の要素も物語から脱落し、前半の独創性を欠くため省略する。
一応、女院に対する道房の―血はつながっていないにせよ―近親相姦的な恋情がテーマにはなるが、それも「源氏物語」がすでに藤壺と光源氏で書いているだろう。
筆者も詳しくないが、鎌倉期の擬古物語はよくも悪くも小ぶりで、新しい展開よりは平安物語の表現の反復に留まる傾向が強かったと聞く。
それはやがて華麗な意味の響きあいを越えて、退屈な決まり文句―「桜は吉野、紅葉は竜田」式の―に堕していくだろう。
そのなかで「とりかへばや物語」「有明の別れ」の異性装譚は、一つの突破口たり得た稀有な例だと言える。
長い記事だった。ここまで読んでくれて感謝する。
(追記)近現代文学の異性装といえば、やはり三島由紀夫の切実にして滑稽な疑似私小説「仮面の告白」の、松旭斎天勝に憧れ女装する「私」の姿が思い浮かぶ。
「頭文字」や「春の雪」における皇族の女性と交わる禁忌、「軽皇子と衣通姫」の近親相姦など、氏の作品は経済原理がすべてを平板に均していく戦後社会のなかで、人間の存在が危うく振れる禁忌のあり処を求める願いを常に孕んでいる(「金閣寺」における問い「悪はいかに可能か」も、秩序を破壊する禁忌を求める問いではなかろうか。放火も強盗も殺人さえ夕食時のニュースに化けてしまう戦後のなか、悪とは、禁忌とはどこにあるのか)。
その主題探究は後に中上健次氏の長編「岬」や、短編「半蔵の鳥」「ふたかみ」などへ引き継がれていくものではないかと思う。