源氏物語偽作「山路の露」―オープンエンディングの続きは蛇足か―
前書き
さっそくタイトルに反し申し訳ないが、おそらく作者に「偽作」の意識はなかったと思われる。よって岩波文庫のタイトル通り「補作」が正しいはずだ。
何しろ、この時代に作者と作品を一対とする認識はなかった。そのため読者はときに物語の続きを気ままに書き足した。
結果、異稿が出まくり、決定稿の成立が困難になるケースもあった(確か平安後期物語の「狭衣物語」がそう)。
「源氏物語」が現在ほぼ確定した形で残っているのも、藤原定家が決定稿を作った(それ自体はほとんど散逸しているが)ことに起因するという。なんだか新約聖書みたいな話である。
(完全に雑談になるが、イエスの神性否定や三位一体説の批判など可愛いもので、モンタヌス派という狂信派を始め、初期キリスト教はトンチキ異端(とローマ皇帝)(とマニ教)に苦しめられた)
やはり、異端の存在が逆説的に正統の成立を促すのだろうか。
話を戻すと、本作は源氏物語「夢浮橋」の続きである。
ところで、「夢浮橋」は源氏物語の結末だが、その内容を知らない読者もいると思う。おせっかいかもしれないが、一応源氏物語後半のあらすじを以下追って書く。知っている人も多いだろう、適当に飛ばして読んでくれ。
まず、源氏物語の途中で光源氏は死ぬ。その巻は「雲隠」と題され残っていない。
何でも、当時「雲隠」を読んだ貴族たちが無常の感に耐えず続々と出家を志したせいだという珍説もあるが、おそらくはその死を書かないことで、逆説的に光源氏というかけがえのない貴公子の喪失を示そうとした―というのが実情のようである。
なお、紫式部の省筆の美学を理解できなかった読者が雲隠六帖という補作を書いている。
光源氏が死んだなら「源氏物語」は終るんじゃないの?と賢明な読者は思われたはず。
それが終わらなかったのである。「宇治十帖」という、暗く救いのない続編が書かれた。
詳しく話すと本記事のタイトルが「入門!宇治十帖」になってしまうので手短に話すと、光源氏存命中、その后の一人である女三宮が他の男性(柏木)と関係を持つ。しかも妊娠する。だが、元を正せば光源氏だって藤壺と関係し、冷泉帝を産ませている。
ここにあるのはかつての華やかな貴公子物語の光ではない。仏教的な因果応報の重く暗い感覚である。犯した罪は決して消えず、巡る因果のなか何度も繰り返される……
書いているこちらまで暗くなってきた。
本来、仏教とはこうした輪廻からの離脱を目的とした割と乾いた宗教のはずだが、日本に元々あった無常観と混ざった結果、ちょっとしけってしまったと聞く。(ついでに祖霊信仰とも混ざり、現在の葬式仏教化に一役買っている)
※以下性的な話があります
話を戻すと、その不義の子こそが薫。宇治十帖は彼が主人公(?)の物語である。
ただ、下品で申し訳ないが薫はその出生の暗さにも関わらず、あまり可哀想には思えない。
何だろう、デート代は一応払ってくれるけど胸元をチラ見してくる男みたいな感じ。
薫は絶妙にキモい。光源氏パートでは王朝美学のオブラートに包まれていた男性の性欲が、その加害性を剥き出しにした観がある。
よく「宇治十帖」の三姉妹に男性恐怖症の傾向があると指摘されることもあるが―その主な原因は薫の気持ち悪さである。
俗な話を続けさせてもらうと、現実世界で藤原道長から寵愛されなくなった紫式部の男性嫌悪という説もある。
個人的な感想だが「宇治十帖」は物語としてはデッドロック―完全に行き詰まっている。心中描写の多用は出来事のつながりで進む物語の勢いを殺し、作品を停滞させている。
もはや平安物語というよりは夏目漱石の遺作と言われた方が納得感がある。
しかもこの心中描写多用・物語展開の不在を前面に出した書き方は、その後の創作者には呪いとなる。
影響をもろに受けた平安後期物語―狭衣、夜半の寝覚……などなどは進行が悪く(よく考えてほしい。心中描写をしている間外界では何事も起きていないんだから)、鎌倉・室町期には短縮バージョンが相次いで作られた―結局は短縮可能だったという証明でもある。
ついでに言えばハッピーエンドも消滅した。平安後期物語は、どいつもこいつも解決不可能な現実の前で、うだうだ悩んで話が終わる。
いずれも「源氏物語」、特に「宇治十帖」のもたらした罪である。
本題
そんな宇治十帖は、浮舟(名前の通り薫とその恋敵の匂宮の間で揺れ動く)という女性が入水自殺未遂をし、薫が彼女の安否を確かめようとするも失敗するところで終わる。
この結末を「興趣が勝る」と感じた読者もいたが、「風と共に去りぬ」がオープンエンディングを批判されたように、「宇治十帖」愛読者のなかにもこの結末を不服とした者が、やはりいただろう。
そこで「風と共に去りぬ」同様「宇治十帖」でも続編が書かれた。補作「山路の露」である。
さて、補作というなら完成度が気になると思う。
まあそれなりである。少なくとも本居宣長の書いた「手枕」よりはよほどマシ(成立時期の差もあるだろうが)。
だが、「夢浮橋」より新たな展開を築くことは叶わなかった。「宇治十帖」自体がすでに解決不可能な現実の引き写しのような作品なので、当たり前といえば当たり前か。
ただ、薫の気持ち悪さは若干軽減されている気がするし、浮舟も薄幸の美女としてそれなりに落ち着いている。
全体的に原作のなんとも言えない歯切れの悪さが薄れ、かなり読みやすい。
なお、タイトル「山路の露」は薫が尼となった浮舟の元を訪れ詠んだ和歌「思ひやれ山路の露にそぼち来てまた分け帰る暁の袖」から来ている。
この和歌も、なんか恨みがましいというか図々しい。
(現代語訳)
「ちょっとさぁ〜気にしてよん、僕貴族なのに山道の植物の露で袖がビシャビシャだよ〜、でまた帰るんだよ〜?ちょっとくらいヤることヤったっていいじゃ〜ん」
感想
散々言ったが、何やかや読んでいて心を「慰撫」される感覚があった、鎮魂歌を聴いている感じと言ってもいい。
こう、物語としては役割を終えた世界を読者の望みに応え、疑問を解くためもう一度再起動している―そんな感じが「山路の露」にはするのだ。補作―二次創作だから当たり前といえば当たり前なのだが。
二次創作とは安らぎである。
何しろ一次創作の物語は読者を気にしていられない。ときに裏切り、切り捨て、突き放し、その物語固有の役割を果たさねばならない。
だが二次創作にその苦役はない。心ゆくまで読者の望む物語を続ければいい。そこには使命を終えた者たちの、のどかな気配があって筆者は好きである。
次は狐が光源氏に化けていたというトンチキ物語「八重葎」か、「とりかへばや物語」と比べて語られる異性装の物語「有明の別れ」を読むつもりである。
また、この前に藤原定家(おそらく)の書いた「松浦宮物語」を読んだ。
①恋愛もの→②バトルもの→③ミステリー(ただ死ぬほどつまらない)と続く謎の物語である。読んでくれると嬉しい。