最近読んだ本
コーマック・マッカーシー「ノー・カントリー・フォー・オールド・メン」。
あらすじ。「ヴェトナム帰還兵モスはメキシコ国境付近で麻薬密売人が殺された現場に遭遇する。モスは大金が入った鞄を持ち逃げするも非情な殺し屋シガーが追ってくる。必死の逃亡劇の行方は。」
タイトルは「ここは老人たちの住める国ではない」、現在のアメリカの状況を比喩として語ったものだと聞く。元はイェイツの詩。
主要人物は三人。モスは何の変哲もない保安官だが大金に目が眩む。シガーは恐ろしい殺し屋。キャトルガン(家畜殺しの銃)を使いモスの跡を追いかけ、コイントスの結果で人を殺していく。
ベルは保守+右翼的思想を持つ保安官。モスとシガーの逃走劇を追う。
結局モスは一緒にいたヒッチハイク中の少女もろともシガーに殺され(ただし直接的な描写はない)、そのシガーも交通事故で重症を追う。
物語としては最後に書かれたベル保安官の馬喰(馬の売買を生業とする人)の父親との和解(とその微かな希望)を読むべきだが、筆者はむしろシガーの悪の不条理な魅力に惹かれた。何しろ彼はコイントスに従い人を平気で殺すのだ。
クリストファー・ノーラン監督の「バットマン/ダークナイト」にも、コイントス次第で人を殺す顔半分が焼けた悪役トゥーフェイスが出てくるがシガーとは別物である(トゥーフェイスのコイントスは善と悪で揺れる心の表れ)。
―話を戻すと筆者は元々こういう"純粋悪”が好きでない。
「君の手か足の爪のどちらかを三十秒後に剥がすことにした、返答がなければどちらも剥がす」みたいな(元は村上春樹氏「色彩を持たない田崎つくる……」のアカのエピソード)。
たとえば、中村文則氏の「銃」の主人公は最後人を殺すし「遮光」の主人公は死んだ恋人の指を持ち歩いている。だがやはり同じ人間。それがいい。悪は心のボーダーラインの揺らぎとして存在したほうが面白い。
◯ただし本作のシガーは確かにかっこいい。特にモスの奥さんカーラ・ジーンを殺す下りの
これは一度口にしてみたくなる名セリフだと思う。
こういう「思想のある悪」は氏の西部劇「ブラッド・メリディアン」のホールデン判事にも通じるのだと思うが、未読である。
池澤夏樹「短編コレクション」。海外の短編を集めた作品群。ただし全て読んではいないので、気になる作品だけがない!ということもあるかもしれない、ご了承願いたい。
フリオ・コルタサル「南部高速道路」。長期間の渋滞から話は始まる。その渋滞はいつまでも解消せずついに周囲のドライバーたちは奇妙なコミュニティを作り冬を越える。しかし渋滞はあるとき突如解消され、親密なコミュニティは再び縁もゆかりも無い他人同士に解体される。
スタインベックの「怒りの葡萄」の、職を求めカリフォルニアへ向かう移民一家を思い出しながら読んだ。
コルタサルの短編はいつも鮮やかな手品のようで、種も仕掛けもないように見えるのに不思議が起きる。私はサンショウウオと入れ替わる男の話が好きだった。案外悪くない生き方だと思う。徴兵もされないし年金問題とも無縁だし。
オクタビオ・パス「波との生活」。
女の波に惚れられた男の話。神話的と言えなくもない話だがラストがひどく、海と破局した男は彼女を酒場で「ボトルを冷やす」あのロックアイスにしてしまうのだ。笑えばいいのやら自然から疎外された都市生活者の孤独を読めばいいのやら。
バーナッド・マラマッド「白痴が先」。
あらすじ。
カリフォルニア州に住むレオ叔父のところへ知的障がいのある息子のアイザックを届けようと金策に奔走する老人、メンデルにはすでに死期が訪れていた。
死神ギンズバーグはメンデルを連れて行こうとするが最後の瞬間「ゆらめく星のような目もくらむ光、闇を生み出す光を」見るとメンデルを解放し、アイザックは無事に旅路に出る。
◯人間が死神(あるいは悪魔)と対峙し勝ったり負けたりするのは民話のパターンのはず。トルストイの「イワンの馬鹿」―お馬鹿な農夫のイワンが悪魔を撃退する話などもそうだろう。
やはり「神」の遠さに比べると死神や悪魔は―たとえ不吉な存在であれ―人々の心に親しかったのかもしれない。
フアン・ルフフォ「タルパ」。あらすじ。
妻のナターリアとその弟の『おれ』は重症の夫タニーロをタルパにある教会の聖母の力で癒そうと試み、センソントラを出発する。だが二人は旅中タニーロへの殺意を抱くようになる。彼らはくたびれたタニーロを無理に歩かせ結果的には殺してしまう。
感想としては池澤夏樹氏の解説が見事(で何も言えることがない)のでそのまま引用させていただく。
張愛玲「色、戒」。あらすじ。
抗日スパイの佳芝はハニートラップで親日家の諜報機関に勤める中年男性易氏に近づく。ところが二人はお互いに敵対関係を超えた感情を抱いてしまう。佳芝は易の暗殺計画を失敗させて殺される。
本作一番のキュンとするポイントは易と佳芝の立場を超えた恋愛模様にある。たとえば易が死んだ佳芝を追憶する下り。
江戸川乱歩の「黒蜥蜴」を連想させる。死と性の入り交じる危うい美しさ。
なお氏の「中国が愛を知ったころ」、この短編も記憶に残っている。一人の男が婚約者を巡って莫大な慰謝料を払っては女性を乗り換え続けるも、最後は首が回らなくなったのだったか、一度は見捨てた女たちに取り囲まれて暮らす……自由恋愛の裏面を書いた皮肉な好篇だったはず。
ユースフ・イドリース「肉の家」。あらすじ。一人の未亡人と三人の未婚の娘のいる家にやってきた盲目の男は未亡人と結婚する。
だが、やがて娘たちは男を騙し密かに交わることを覚える……
◯このあらすじが全てといえば全てなのだが作者がエジプト出身であり、本作で「イスラム社会では決して許されないハラーム(禁忌)を描いた」ことは付記しておく。
P・K・ディック「小さな黒い箱」。タイトルの箱は「共感ボックス」というのだが、正直それほど面白くないため感想はパス。
ただ作中禅の無門関の話が出てきており、これが三島由紀夫氏の「金閣寺」でも出てきた公案なためここで引用して紹介したい。
私はこの話を聞くとペッパーくんのCMを思い出す。工事現場で対立が起きたときペッパーくんはやってきて「ほらほら〜ロボットなのにこんなに滑らかに腰が動くんですよ〜」と言うのである(実際に腰も動かす)。人々は毒気を抜かれて解散する。
歌人の井辻朱美氏の受け売りだが、ここには世界を一度ゼロ地点に戻す愉快な行為が存在している。
チヌア・アチェベ「呪い卵」。キティクパという悪神に見舞われた村の様子を描き出す。
この神キティクパは「住民が土地の神々に対して支払うべき捧げものを要求」し、「彼の機嫌を損ねることがないよう、彼によって殺された者たちは殺されたのではなく「お飾りをもらった」のだといわれ」る。そして「この死者たちのために危険を冒してまで涙を流そうという者はだれもいなかった。」
たとえば、てるてる坊主に対して「首をちょん切るぞ」と脅す―自らの願いのために神を脅すことさえ厭わない(阿満利麿氏の著作より)この心性は同時に、神から脅されることも意味する。そこに本当の意味の宗教性はない。ただ現実の引き写しの、暴力の勾配があるだけだ。
完全に余談だが呪いというと丸谷才一氏の「樹影譚」の「キノカゲ、キノカゲ、キノカゲ」という呪文で「(略)前世へ、未生以前へ激しくさかのぼってい」く「私」を思い出す。生が死(≒未生以前)に取り込まれていく恐ろしさ。
ジョン・バース「夜の海の旅」。精子の視点から受精の瞬間までを書いた作品。本邦では倉橋由美子氏の「アマノン国往還記」が同じ主題を扱っている。
ポストモダン小説を読むたびいつも思うが、作者の手間と読者の愉しみがどう考えても釣り合わない。せめて3ページでパッパとまとめたなら面白い(かもしれない)のに、14ページもあるのだ。
なお他には夏目漱石も言及しているローレンス・スターンの著作「トリストラム・シャンディ」が主人公の受精の瞬間を扱っていたと思う。
ドナルド・バーセルミ「ジョーカー最大の勝利」。これも池澤夏樹氏の解説を借りたい。
たとえばこんな感じ。
高橋源一郎氏の(特に初期の)作風を連想させる。彼らの手法は詩をかっさらって小説のフィールドに引っ張り込むようで、いつもドキドキする。次のリチャード・ブローティガンの「サン・フランシスコYMCA讃歌」も「家のなかの鉛管類をはずして(略)詩で置き換えようと」する男の話で、愉快でしょうがない。
ガッサーン・カナファーニー「ラムレの証言」。あらすじ。
ユダヤ人兵士に目の前で娘と妻を殺されたパレスチナ人のアブー・オスマーンは自爆テロを行う。この一連の出来事が少年の「ぼく」の目線から語られる。
この短編だけでもぜひ読んでほしい。ここに書かれているのは暴力の応酬以上の―もっと非人間的な出来事だ。
アリステア・マクラウド「冬の犬」。
あらすじ。主人公が幼年時代を共にした(冬の海で溺れかけるも二人で生還した)犬は成長するに従って「力がついて自衛心がつよくなって」いく。そして射殺されることになるが―「この犬はものすごく強かったから、一キロ以上も歩いた。息が絶えるときには、探し求めた家が視界に入っていたにちがいない。」
幼年期のイノセントと、子どもには不条理に映る大人の論理に棄てられる/殺される動物のモチーフ。村上春樹氏の「猫を棄てる」やトルーマン・カポーティ「クリスマスの思い出」の犬のクイーニー、大江健三郎氏の「飼育」―黒人兵士だが―を連想させる。
レイモンド・カーヴァー「ささやかだけれど、役にたつこと」。
あらすじ。誕生日に車にはねられ、結局死んでしまう少年スコッティー。その両親、ハワードとアンの下に誕生日ケーキを頼んだパン屋から嫌がらせの電話がかかってきて―
◯話としてなぜ陳腐にならないのだろうといつも思う。誕生日に事故に合う少年、病床を離れない母親、最後の両親とパン屋の和解。どの題材もいわゆる〝感動モノ〟なのに、読後の余韻は極めて深い。
氏の「大聖堂」も妻の盲目の友人とそれをよく思わない夫との心のつながりを書いた短編だが、やはり少し間違えばチープな作品になると思う。それがどうしてここまで優れた作品になるのだろう。
解説も何もないが、それがレイモンド・カーヴァーという作家の魂の大きさなのではないかと思う。
マーガレット・アトウッド「ダンシング・ガールズ」。物語は大きく二つの人物から構成される。
一つは留学生のアン。説明に訳者の言葉を借りる。
対象的な存在として登場するのがアンの大家のミセス・ノーラン。彼女は決して悪人ではない。しかし無自覚なバイアスに支配されているし、その想像力はあまりに偏狭だ。
◯タイトルの「ダンシング・ガールズ」はノーランのアパートに住むアラブ人が部屋でダンスパーティーを開いたことに関する彼女の非難の言葉、
であると同時に、彼らの行いを「でも、あの人は単にパーティを開いていただけなのだ」―肯定するアンが最後思い浮かべるユートピアのイメージ(少し長いがそのまま引用する)
からでもある。現実の軋轢が虚構によって上書きされる。大江健三郎氏の「懐かしい年への手紙」の最後、永遠に循環する理想郷を思い出す。
また主人公のアンは一度建築家になる夢を諦めており、その分このユートピアのイメージは切実さを秘めている。
高行健「母」。母親の死に目に会えなかった息子の話。遠藤周作氏の短編にも同一の話がありそちらでは神父に放蕩息子が「お母さんは……死にました……」(正確な引用ではない)と呟かれる。
しかし人はなぜ親の死に目に立ち会えないことにこれほど負い目を感じるのだろうか。
どちらかといえば筆者など「異邦人」の「今日、ママンが死んだ」―その乾いた認識に気持ちが傾くのだ。
ガーダ・アル=サンマーン「猫の首を刎ねる」―あらすじ。
アブドゥル(本名アブドゥルラッザーク)は「夜のパリの街を孤独にさまようバドリーヤ」―年配の女性結婚仲買人の幽霊と西洋の現代的な価値観を持つナディーン―アブドゥルは彼女にプロポーズしようとしている、の「二つの文化に引き裂かれている」。
◯女性蔑視的な価値観を当の女性たちさえ内面化せざるを得ない社会のグロテスクさが印象に残った。たとえばバドリーヤがアブドゥルに女性を斡旋する際のセリフ、「(略)産むのは男の子ばかり。昼ははしため、夜は奴隷。指輪をこすれば言うだろう、わたくしはあなたの奴隷、お命じとあらば何なりと」。
しかしこれが高齢の未婚女性に唯一残された社会的な立場だったのだ。
◯マラマッドの「魔法の樽」も―こちらは男性の―結婚仲買人が出てくる。ゆったりと温かいお湯に浸かったような読後感のある短編である。もしよければ読み比べてほしい。
目取真俊「面影を連れて」。
「うち」が過ごしてきた苦難の一生を語る。子どものころはいじめられ、味方だった祖母も彼女が十八のとき亡くなる。スナックで働きながら愛した男性は「コータイシデンカ」に「怪我をさせようとした」罪で逮捕される。その後も彼女は男性たちにレイプされ、ついに死んでしまう。
これだけ聞くと悲惨な物語を連想するが、むしろ沖縄の美しさが強く記憶に残る。たとえばレイプされた彼女が「御嶽の森のずっと奥のね、拝所のもっと奥にある聖女」で見る幻視(少し長いがそのまま引用する)。
彼女はもともと「霊力の高い生まれ」なので、このような景色を見るのも不思議ではない。
そしてこの後、「(略)首に(略)麻のロープが食い込んで(略)口から太い舌を出して手も足もだらんとさせて、魚と小鳥の群れに体をつつかれてい」る「あの人」―彼女の愛した男性の悪夢的な首吊り自殺のイメージが上書きすることを考慮しても、この幻視の驚くべき美しさは変わらない。
もう一つ。本作の最後は死者となった彼女の語る以下の文章で締めくくられる。
彼女の、長い苦痛に満ちた人生が水あめのように横に延びた時間だとするのなら、幻視体験の描写を境に本作には別の時間が流れだす―循環する時間である。
たとえば幻視描写の「ああ、ここでおばあたちは籠りしたんだな(略)うちもおばあの所に行きたい」、結末の「あの人もどこかでこの光を見ているのかねえ……」という彼女の述懐、また何より彼女が「小さい女子童」に話しかける構成。同時に死者と生者のボーダーは曖昧になる。
この女子童が「再び」生きる横方向の生の時間と彼女の属する円環の死の時間。二つの異なる時間がつかの間触れやがて離れていく。素晴らしい結末だった。
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