『ロボット・ドリームズ』/いまのきみの人生はどうだい?(映画感想文)
失恋した男友だちを慰めようと、「この世には星の数ほど女はいる」と声を掛ける。現実にこんな場面に出くわすことは(掛ける方としても、幸いにして掛けられる方としても)なかったが、この言葉は正しいだろうか。
叱られるかもしれないが「パンがないならケーキを食べればいいではないか」と似ている気がする。もちろん男同士の幼いながらも、そしてあさはかながらも未熟ゆえ熱い仲と、若気の至り感を出して考えられたセリフだとは思うが。
たとえこの世に星の数ほど異性がいようが、一生をともに過ごす相手は、あるいはたとえ一時でも心から愛する相手はひとりだけだ。だが、そのひとりと絶対に出会えるという保証もまたない。いまそばにいるその人が本当に運命の相手なのかどうかも判らない。人には絶対に知ることのできないことがあるのだ。それが最も大切なことであっても。
パブロ・ベルヘル監督の長編アニメ映画『ロボット・ドリームズ』(24)を観た。
第96回アカデミー賞長編アニメーション映画部門にノミネート。受賞は他作品に譲るが、アニー賞、ゴヤ賞、ヨーロッパ映画賞、トロント映画批評家協会賞などちゃんと見る目のある映画祭は軒並み受賞している。
だが、そんなこととこの映画の評価とは関係がない。賞を獲ろうが獲るまいがスゴさは変わらない。誰が観ても判る。上から目線で訳知り顔に啓蒙的に振舞うアニメ映画と違い、われわれと同じ目線で、誰もに覚えのあるあの感じを『ロボット・ドリームズ』は描いている。そして自分の生活をそこに見て「そうであること」に歓びと感動を、人によっては深い寂しさを感じ、涙するだろう。
舞台はニューヨーク。ドッグはその大都会でひとりで暮らしている。
冒頭の数分ひとりで夜を過ごすドッグの姿を見て「これ、おれやん」と思わない人はいまい。いまはそうでなくとも、いつかの自分はそうだったと思う筈だ。
ひとりの生活は寂しくないだろうか。慣れた? でも慣れるまでは時間もかかった筈で、酷いことをいえば、慣れたくて慣れたのではきっとない。仕方なくひとりの生活を選んだのでは?
最初、われわれの目にはドッグがその生活を受け入れているように見える。ひとりの部屋で暇を持て余したドッグがやることは決まっている。食べるものも、ルーティンも。冷蔵庫のなかには同じ冷凍食品がいくつも保存され、あたかも完成した選択の上で生活してるように見える。寂しさの自覚などないように。
だがすぐにそうではないことが判る。ドッグがそれを感じたのは些細なきっかけに過ぎないのだが。当の本人たちはただ、ありきたりで平凡な時間を過ごしていただけなのだ。
結果ドッグが選んだのは「友達ロボット」を手にいれることだった、…。
それが「世界」の始まりだ。
考え方次第なのだと思うのだけれど、かつて僕はひとりで「しにくいこと」があると思っていた。ファストフード店以外でランチを摂るとか、クリスマスの夜を過ごすとか。二人なら容易くできることなのに。他人の視線を気にしているだけだろうか。思い付く理由は人それぞれだろうが、僕はひとりだと周囲が気になり、と同時にあれこれ考えすぎてしまって楽しめなくなる。自意識過剰という指摘は当たっているが、自覚して治せるものではない。
と同時に他人に優越を感じる嫌な自分は、ランチやクリスマスを楽しみながら、ふと、友人の誰それはこんな経験をしたことがあるのだろうか、と心の片隅で考えもする。仲のよい(特に前の職場の。離婚率も高く、会社外の人と出会う時間などロクにないとんでもない職種だった)友人たちはクリスマスの夜はどうして過ごすのだろう? 行事ごとがなくとも、毎晩仕事から帰り、どうしているのだろうか、と。
ひとりの生活に慣れているからなぁ、ときっと彼らはいうだろう。気楽だし。自由だし。遅くなっても連絡する必要もないし、…。
だが人生とはやはり出会いだとも思う。
もちろん、この世界には嫌なやつもいる。理由なく嫌がらせをされることも、誰かの利己的な考えに陥れられることもある(あった)。しかし、いい人だっている。いい人だけれど自分と合わない人もいるが。
そうしてさまざまな人がいてこの世界は成り立っている、ということを『ロボット・ドリームズ』は教えてくれる。
ひとりのドッグは誰かに褒められたり注目されたりすることはなかったようだが、ロボットといっしょに公園に行きローラースケートの腕前を披露すると、人だかりができ、みんなから笑顔を贈られる。二人になると外へ出て冷凍食品以外の食べ物も楽しめるようになる。
大切な誰かが側にいることで、行動を起こせるようになった。思慮や覚悟のようなものは特に必要なく、ただいっしょにいるというだけで楽しくなり、何かをしたくなったのだと思う。誰かといる自分が楽しくて、何かをやる。ときには誰かのために何かをやる。
監督はあたかも「それこそが人生」といっている気がする。
だが興味深いのはそうして「大切な人と出会うことの素晴らしさ」を謳いながら、「ひとりでも人生は謳歌できる」ともいっている点だ。『ロボット・ドリームズ』は筋書きなど一切知らず、本当の生活に臨むように何が起こるかも知らずに観るべき映画だと思うので詳細は省くが、作品中にダックという(多分)女性が登場する。彼女はきっとひとりでも生きられるし、ひとりでも楽しく過ごせる術を知っている。彼女は悪い人ではないが、ドッグとはただ合わなかったのだ。そう、いい人でも合わない人との出会いというものは、われわれの人生にもある。
『ロボット・ドリームズ』を観たというある女性がネット(X)で書いていた。「自分はひとりで観に行った。鑑賞後ロビーに出ると知らない老婦人から声を掛けられた。『ちょっといい? わたしはいまあなたの後ろに座っていたんだけど。わたしもひとりで来ていて、あなたもおひとりだったみたいで。よければ少し映画についてお話しない』と」。…そういう映画なのだと思う。
たまたまだが、長く付き合いのあった何人かの友人と、この一年の間に絶交することが続いた。表面的な理由はさまざまだが、根本はいずれも相手が加齢で頑固になったり融通を利かせることができなくなったりして、僕も含めた知人たちに失礼を重ねる場面が続いたからだ。謝るように勧めてもそれができない。仕方なく咎めて、そのままになっている。
年を重ねるとますますわれわれは社会から離れて行ってしまう。職場を去れば誰かと会うことは極端に減る。生身の自分がそこにぽつんと現れ、これまでに育まれた興味や蓄積してきたノウハウに基づき交際を選択するようになる。魅力、とはいわないが社交の術と常識がないと人は離れていく。そこからの日々はきっと過酷に孤独だろう。
気持ちをオープンにして、他人を受け入れて過ごしたい。
そんなことを思わせる映画だった。何もかもが柔らかそうに見えて、人生や心の深いところにせつない痛みを伴う一撃を鋭く打ち込んでくる大変な映画。あなたのいまの人生はどうだい? と訊いてくる。答えを出すのが辛い人もいると思う。だが、その答えは自分の気持ちひとつでいまからでも書き直すことはできる。