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『デッドゾーン』/覚悟が少しも突飛に思えない(映画感想文)

昨日の一事で、クローネンバーグ監督の『デッドゾーン』(83)を観直そうと思った人は多いのでは。
ネット上でも、狙撃されたあとの現実の大統領候補者と、映画のなかの上院議員になろうとしている男の対応を比べて取り沙汰されている。
現実の対応の方が創作上のヒーロー像に近かったのはなんとも驚きだ。今件はきっと多くの人に影響を与えるに違いない、…。人びとの望む強くて臆すことなく行動する為政者のイメージが完全に出来上がってしまい、共和党は偏狭で厄介だと海のこちら側で思っている僕にさえ「いま求められているのはコレやな」と思わせてしまうのだから。
映画のなかのスティルソンは卑劣な性根がバレて破滅するのに。

原作はスティーヴン・キングが、79年に書いた小説。
小説では一介の聖書販売員であったグレッグ・スティルソンが、野心を持ってのしあがっていく様が詳しく描かれている。
また、小説に登場するロジャー・チャッツワースという会社社長は、孤独な主人公ジョニーに対しとても親切だ。物語の中盤においてかなりの長さと重要な位置を占めるチャッツワースのエピソードは、映画では名前もロジャー・スチュアートに変更され、かなり簡潔に語られて終わる。それでも彼の息子とジョニーとの間で形作られる信頼関係は、しっかりと伝わってきた。

映画『デッドゾーン』の脚本は当時まだ駆け出しのジェフリー・ボーム。これがクローネンバーグには商業映画として初めて他人の脚本で撮った作品なのだが、肩の力が抜けているというか、クローネンバーグらしさが程よく薄まっているというか、按配がちょうどよい。
スティルソンのこれまでの這い上がりっぷりが大きくカットされていても、彼の酷い性格、裏表のある野心に溺れた政治屋ぶりは十分伝わってくる(驚くことに彼が実際に姿を現すのは映画で三分の二が過ぎたあたりからなのだが)。また、社長のキャラクターに大きな変更が施されていても、息子とジョニーの関係はちゃんと心に残る。
上手い脚本だと思う。けっして多くはない言葉でそれぞれの人びとの心情を表現する演出もまた上手い。役者も雰囲気や複雑な感情をよく理解していると思う

不幸な事故により昏睡状態に陥ったジョニー・スミスが5年後目覚めると、触れた相手の身に起こる出来事を、その人物がかつて体験した出来事を、見る力が備わっていた。
だがその5年の失われた時間の間に教師の仕事は失職、結婚を誓っていた恋人はジョニーの覚醒を待てず別の男性と結婚してしまう。事故で負傷した多くの箇所は時間の経過とともに癒えたが、脚だけはいまだ不自由なままだ。厭世的になり、もともとシャイだったスミスは(だが子どもは好きだった)より孤独感を強めていく。
その超能力を以て世間から石を投げられる、…というような安直な場面はない。ジョニーがその力とどう向き合っていくかの心象の変化を、演じるクリストファー・ウォーケンと監督のクローネンバーグは丁寧に追っていく
たとえば、未来が読めるとしたらどうするだろう?

ジョニーは、そのことを利用しようとも、逆に過剰に呪うこともしない。
ある連続殺人事件の捜査に行き詰った保安官がジョニーに助けを乞いにきたとき、「これは神からの恵みではない。神に弄ばれているんだ」と協力を拒むが、保安官が懸命に捜査に奔走し、それでも困っていることを知ると手を貸そうと決める
登場する人物の多くが善人である。
クローネンバーグ自身もインタビューで、登場するのは「開放的で純粋ないい人たち」だ(自分がこれまで書いてきた脚本に登場する人たちとは違う、と皮肉なのかユーモアなのか、…を交えていっている)といっているが、キング作品のエッセンスは本当にそれだと思う。市井の善人たちが、ちょっとしたズレや強烈な悪意を持ったひとつの存在により翻弄され、苦しみ、しかしそれでも(特殊な能力などではなく)人の良心の部分を支えに、協力して問題や恐怖を乗り越える

『デッドゾーン』においてジョニーは孤独で誰かと協力しあうことがないにしても、でもごく平凡なひとりの教師だった男が、少ないながらも彼に寄り添うやはり市井の、何ら特別ではない人びとと関わり合うことで、ひとりの人間として目覚め直していく
そのなかで、備わった特殊な力にどう向き合うかが変わっていく。
その力により、ジョニーは幼い子どもを救う。だが、続けて発揮した際には、たとえ隠された過去を誰かのために見つけてあげても、それが平穏な日々を変えてしまうのであれば知ることは不必要だということも学ぶ。知らずに済ませた方がよいことがある、ということを。
また、常人には判らないことを見てしまうことで「悪魔」呼ばわりされることも知る。
そして、いくら未来を見ても、そこで起こる不幸な事故が自分の力では防ぎきれないことがあることも彼は知る。その都度、ジョニーは落ち込み、悩み、そして学んでいく。
ゆえに、映画のクライマックスとなる予知をしてしまったとき、食い止めるためには自分自身でやるしかない、という覚悟がジョニーのなかに生まれる。少しもそれが突飛に思えない。思えないところが、この映画はスゴい

かつてホラーの貴公子などと呼ばれ、初期作品によって貼られたエログロや人体破壊、内臓感覚といったレッテルがいまだに鮮明なまま残るクローネンバーグだが、だがやはり彼の本領はその演出の力なのだろう。
あまりにも自然過ぎてそこが評価されないのは、熟練した達人の技が常人の眼に止まらないことと似ている。あれだけ非現実的で非日常の世界を描きながら、少しも嘘っぽくも薄っぺらくもならないのがその力の証左なのだ。

クリストファー・ウォーケンも素晴らしい。
子どものように無邪気に笑う様子を見ていると守ってあげたくなる(作品によってはその無垢な笑顔を浮かべながら引鉄を弾いたり、飛行船から意に沿わぬ人物を突き落としたりもするが)。悩む顔もいい。内面の深みが感じられる横顔の寂しげな様子と(特に子どもを相手にしたときに)不意に表出するやさしげな正面からの顔のバランスが。不器用で、でも人として深い悩みを抱えているその顔が。

映画は作り物のドラマとして内面を深く描いた方がおもしろい。
だが実際の事件の犯人がどんな人物だったか、おもしろおかしく騒ぐ必要はない。同様の事件を防ぐためだけにしかるべき機関が知ればいい。
犯人の目論見どおりにはいかなかったが、観客のなかに亡くなった人がいる。重傷を負った人もいる。「これだから銃社会のアメリカは」と日本ももういうことはできなくなってしまった。
犯人像に興味はないといいつつ、奈良で起こった事件についてはあまりに情報が出てこず、健全な司法制度が運用されているのかと若干気味の悪い気もするのだが、宗教団体との関わり云々と聞けば、その動機を軽んじて断罪するのもまた軽率だという気がする。いずれにしろ、話し合いを手段とし納得や融和ができなくても暴力に力に頼らない、というのがわれわれの生きる世界の絶対的なルールだ。強権を振るって弱者を苛める為政者も、引鉄を弾かれることがないように、多くの人を慮って政治を行ってもらいたいと思うばかりだ。

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