『オッペンハイマー』/たとえ後悔しても許さず糾弾する(映画感想文)
ノーラン監督がオッペンハイマーを描く、主演はキリアン・マーフィーだ。そう聞けばちょっとした映画ファンなら誰しもこの映画が原爆礼賛のオッペンハイマーを英雄視した作品にはならないことは確信できた。なぜならここまでのノーラン作品を観れば彼は常に「複雑で弱い卑劣な悪役(かそれに近い役)」を監督から割り当てられていたのだから。
『バットマンビギンズ』(05)でマーフィーが演じたのはマフィアに抱き込まれた精神科医で、幻覚剤を用い悪事をはたらくスケアクロウだ。だが彼自身もその幻覚によって自身の心の醜さを見るはめになり、そして追い込まれていく。『ダークナイト』(08)、『ダークナイトライジング』(12)にも同役として登場し、彼は引き続き混乱した街の悪を司る。
『インセプション』(10)では偉大な父親との確執を抱え、人間らしい心の弱さから潜在意識を武装化し主人公たちの夢への潜入を阻む(展開上の)ヴィランとして機能していた。
いずれも悪役だ。だがジョーカーやベインのような特殊な能力や優れた力はなく、深遠で壮大な征服の青写真もない。人間としての卑劣さだけがある。人間の弱い側面の象徴として。マーフィーが演じるのは、弱いからこそ悪に染まってしまう人物だった。
この世界で最初に大量殺戮を行う核兵器を作り出しながら、それが使われることに怯えるひとりの科学者という役割を割り振るにあたって、これ以上相応しい役者はない。
キリアン・マーフィーという人物は、さながらマッツ・ミケルセンの対局に位置する役者だと思う。マッツは常に人間としての葛藤に人間としての強靭さで対峙し、人間としての真善美を体現してきた(例外はもちろんあるが。レクターだったりル・シッフルだったり)。マーフィーはその逆だ。
いざ観てみれば『オッペンハイマー』(24)はバリバリの反核映画だった。
もちろん、このご時世に「原爆の父」をヒーローとして描く映画人がいるわけがないことくらいは冷静に考えれば判ると思うが。
難癖をつけるなら『オッペンハイマー』よりははるかに『ダークナイトライジング』の方が核を娯楽映画のクライマックスを盛り上げる装置として軽く扱っている。
強く反核を訴えながらも、ノーランはオッペンハイマーを悪い人間としては描いていない。また科学者として優れているという点も劇中では強調されない。作劇家として、その頭脳の素晴らしさを暗喩的に見せるエピソードのひとつも挿入することは容易だった筈なのだが、それはない。むしろ計算が苦手で人任せにする場面が何度か出てくる。
冒頭に、オッペンハイマーがどんな人物だったのかを雄弁に語る2つの印象的な場面が挿入されている。
ひとつは、彼が文学や音楽に造詣の深い文化的教養のある人物であったこと。科学至上主義の視野狭窄な人物ではなかったことが提示される場面。このことでオッペンハイマーがわれわれと変わらぬ普通の人であることが伝わってくる。
もうひとつは、ケンブリッジ大学時代に自分を蔑む教授の林檎に青酸カリを注射する場面だ。
この場面については是非があり、原作とされるノンフィクションでも書かれているのだが、一方でこの挿話は誇張されているかもしれないとの記述もある。オッペンハイマーの息子チャールズはこの場面について「(父が人を殺すという罪を犯しかけた)深刻な告発ともとれる場面だが、しかし確かな記録はない」と語り、この挿話が映画でも採用されたことを無念だという。(チャールズも含め一族は、しかしオッペンハイマーを描く創作物には一切関わらない立場を貫くと決めているそうで製作時にこの件を知りつつ一言の提案も意見も述べていない)。
ノーラン監督は撮影開始前にチャールズに、この場面が事実か否かが曖昧なことは判っているがそれでも劇中で描いたことについて「自分はこの主題から物語を伝える方法を知っている」と話したそうだ。伝えるべき大きなメッセージがある場合は、それをより有効で明確にするためには創作や脚色、事実の変更も組み込む意味の宣言に違いあるまい。こういった点の見極めができないと、映画を観てもアメリカの技術力を喧伝するとか、なぜ日本の被爆場面がないのだといった見当違いの要求をするはめになるのかも、…。
この林檎の場面は大変重要である。
オッペンハイマーが、思考がある方向にむくとそれが大それたことであっても刹那的に実行する人物であることが判る。感情的というのともまた違う。その手際は鮮やかであまりにも迷いがなく確実(に相手を死に至らしめることのできる方法)だ。そして時間を置き自分がしでかしたことを激しく後悔し、苛まれる、修復しようとする人物であることも判る。この一時をとって「莫迦だなぁ」と誰が思えるだろう。「このクソ上司、殺すぞ」と考えたことがない人は少ない筈だ。だが、誰もがここまで手際よくそれを行動に移すことはできない。ここでも是非はさておき、彼は「やれる」人物であり、そしてもたらされる結果について「後悔する」人物だ。
そのことを誰が責められるだろう? 責めてもいいが、同じ感情が誰ものなかにあることを看過してはならない。
たまたま注射する機会があった、たまたま知識があった。そのたまたまが訪れなければ、という過程は多分ノーラン監督の描く方向としてはナンセンスで、そのたまたまのチャンスを得てやってしまったあとでどうするべきか、またその人がどうなるのかをいま一度考えたいというのが、監督の意図ではなかったか、と僕は思う。
しでかしたことでオッペンハイマー自身が激しく後悔する様を描き科学者に反省を促すことだけが意図なら、ヒロシマやナガサキの場面を劇中に入れ、事の重大さをオッペンハイマー自身に知らしめてもよかったのだ。だがそうはしなかった。作り出した科学者は死神として責められるべきだが、それだけでなく、今後われわれが同じことを繰り返さないように、人類は何に気付かなければならないのか。政治の仕事として考えることも可能だが、ノーランはそれさえも別の問題(問題の一部)として捉え、作中ではやや後方に置かれているようだ。核を保有してしまったこととそのプロセスは、われわれ自身のこととして普遍的な人類すべての問題として描かれ、考えるべきこととして提示されている。
「よかれと思ってやった」としても、その「正義」を履行する際にはより慎重に検討するべき課題があると示唆しているのだと思う。
「一度転がりだしたものを止めることは容易ではない」ということには、何かを思いついたとしても、実際に始める前により慎重になるべきだという教訓が含まれているとも思う。
結局、人間というのはまだまだ不完全なのだ。判断のすべてが正しいわけではないのに、時々自分の判断が完璧に正しいと思い込む困った存在なのだ。
『オッペンハイマー』の、というかノーラン監督のスゴ味は、反省して前に進もうとか、しでかしたことを当事者が後悔しているなら許してやれ、といった発想で映画を作っていないことだ。
原子爆弾を作り出したことを彼は徹底して糾弾する。ポジティヴな前進をこの映画は少しも促していない。この映画の公開に反対していた人たちが、もし本当に核兵器に反対する立場であるのなら、逆に公開推奨するべきなのだ。繰り返すが、ここまで徹底して反核を叫んでいる映画は近頃観ない。ただ物事をちゃんと見る目がないと(フィルターをかけて見ることが習慣化していると)テーマは理解できないだろう。
物事には表面の下に本質があるのだからして。
われわれは核兵器が存在する世界で生きざるを得ず、そのためにもっときびしく真剣に対峙するべきものがある。
それを3時間もかけて娯楽作品に仕上げちゃうんだものな。
前後しましたが映画としてははめちゃくちゃ面白いです。何かを期待したりある方向のベクトルで先入観を持って臨んだら、わけがわからなくなると思う。「原爆を扱う創作物はこうあるべし」なんて思考停止した状態で観るのは間違っている。ただ映し出されるものを観るべし。
その価値はめちゃくちゃあります。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?