『ジョーカー/フォリ・ア・ドゥ』/「もう無理だ!」と叫んだ二人の男(映画感想文)
『ジョーカー/フォリ・ア・ドゥ』(24)を観た。
監督は前作に続きトッド・フィリップス。「フォリ・ア・ドゥ」とは一人の妄想が別の一人に感染し妄想を共有する精神障害の状態を指す。三人ならフォリ・ア・ドライ。
「『フォリ・ア・ドゥ』はミュージカルだ」と公開前からいわれていたようだが、僕は別にミュージカルに偏見はなく(特に好きでもないが、…)、鑑賞前には情報を入れたくないクチなので先入観なしに臨んだが、その点について感想を述べれば「これ、ミュージカルか?」だ。物語に唄が落とし込まれているのではなく、日常会話をフツーに交わしていると相手が突然情感豊かに唄い始め、「あれ、この人オカシイんかな?」と気付くのに『フォリ・ア・ドゥ』の唄う場面は似ている。この感想はしかし正しく、アーサーが唄っているところは(刑務所のサロンでテレビを観ながら唄う場面からして)きっとすべて彼の妄想の声なのだ。
興味深いのは、その妄想の場面で語られることこそ彼の本心なのだ。
前作『ジョーカー』(19)においては主人公アーサーの内面が常に混沌とした謎であり魅力でもあったが、今作は『ジョーカー』とはまったく違う。アーサーは高らかに感情を唄い上げ、そして彼の無垢さや高潔な純粋性は観ているわれわれの心にダイレクトに響く。だが、それを素直に受け取っていいかどうかは別の問題だ。ひとりの人間の内面をここまで徹底して掘り下げ表現した作品はそうそうないのだが、「だから今作も素晴らしい」と評価するべきか否かはまた別の問題である。
監督が「いいミュージカル映画にしよう」などと考えていないのは明らかで、唄うという方法が用いられたのは(ミュージカルという一つの形式に落とし込まれたのは)アーサーの内面をスクリーンのなかに情感豊かに顕現させつつ、現実としての強度に揺さぶりをかけ、虚構性を付与するためだろう(無論、その形式を揶揄する意図は監督にはない)。
なぜ、そんな方法を続編である筈の今作に監督トッド・フィリップスは用いたのだろうか?
アーサーは前作では、社会を映す鏡もしくは大衆が無責任に担ぎあげる偶像として描かれていた。
あれは彼の望んだ結果だったのだろうか。あるいは、彼のなかに潜むもうひとつの人格が望んだ結果だったのだろうか。
『フォリ・ア・ドゥ』を見ると、「アーサーなる心優しき道化」が積極的にあの結末を望み、招き入れたのではないことがよく判る。アーサーは、大衆に祭り上げられ崇拝されることなど少しも望んではいなかった。偶発的な事象の出来事の結果として、彼はジョーカーになってしまった(ジョーカーを出現させてしまった)のだ。『フォリ・ア・ドゥ』でアーサーは大衆の無責任な担ぎあげに因る被害者として描かれている。ただ受動的に刑務所のなかで彼は過ごしている。周囲は彼を「ジョーカー」として見ているが、その内面を理解しようとはしない。持ち上げたり、蔑んだりして翻弄する。
だが、メタな話になるが、あの映画により生じた現象を望んでいなかった人物がもうひとりいる。
アーサーとは別のその人物は、監督トッド・フィリップス自身だ。
前作劇中で「社会が過剰に暴走する様」を描いたところ、映画自体が現実においても過剰に暴走してしまった。その困惑と、社会の狂いっぷり(無自覚で思慮の浅い大衆の暴挙)に対し感じた恐怖が今作には滲み出ている。
「映画は1作目の反響に対する答えになっているのか」と問われ、「ノー。反響に対する応答として映画を作るのは難し過ぎる」とトッド・フィリップス監督はインタヴューで答えているが、前作公開後に起こった様々なことが頭の中にまったくなかったとは思えない。「(前作公開時の)あの当時より社会は確実にクレージーになっている」ともいっているし。
一度作って世に出した作品をコントロールするのは難しい。
だが、そういった経緯が理解できれば、より暴走したジョーカーを描く筈がない。社会はいっそうクレージーになり、より過激な思想と行動を人びとは求めている。その期待に応えることは、暴力的な思想の火に油を注ぐ行為だ。それはできない。
ジョーカーはただの「悪」ではなく「混沌」の象徴である。
「法と混沌」という概念の対立は(日本と違い)普遍的で、単純に裁けるものでもない。それは一面では「保守と革新」の対比構造にも似ている。保守が安定した状態の継続を指すのであれば、革新はその安定を破壊し、新たな何かを生み出すわけだが、現実の世界においてはそれは痛みを伴う。安定した現状を望む人も多くいる。安定した状態を壊そうとするものは、その状態に不満があるものだ。格差のなかで下位に置かれたもの。上位のものに虐げられ、満足を得られずにいるもの。そういった下に置かれた人びとは構造の破壊を目論見、混乱を招きいれようとする。何かが変われば少しは自分の立場もよくなるのではないかと、妄信的に暴力行為をはたらき、現状を脅かす。
ジョーカーとは「負」である自覚が生み出す破壊の意志だ。よってその存在がなくなることはない。
であれば、続編を作るにあたって、たとえ監督といえどもその存在を安易に否定することはできず、安易に「善」や秩序だった「法」へ宗旨替えさせることも、またできない。
だが、トッド・フィリップスという人はよくよく善人にできている、…のか無謀なチャレンジをこよなく愛するのかは不明だが、彼は『フォリ・ア・ドゥ』においてそのジョーカーに対しノーを突き付けるという荒業にチャレンジしている。『ジョーカー』で得た名声やファンを失うことも厭わず、前作ではアーサー自身が飲み込んだ本音を引きずり出そうと。
前作を支持するファンからたとえ総スカンを食おうが、無様なアーサー/ジョーカー像を描き、観客に対して「こんなことは上手くいかない!」というのだ。…自分がそう告げたとしても同様の暴挙が繰り返されるのは判っている、とも。
さすが、『ハングオーバー!』(09~)シリーズの監督だけあって、この人、本当にエラいと思う。
アーサーがジョーカー(役)を降りる、という方法でその無効宣言は描かれる。愛や(苦労はするけど)幸福な人生を手に入れられるのなら、もうジョーカーは辞める、とアーサーは決意する。
だが、もちろんそうそう簡単にハッピーエンドにはならない。ジョーカーになることが出来たのは彼自身が何も持たない、蔑まれる立場にいたからであり、だからこそ他の多くの同輩たちの代弁者として象徴になることができたからであり、その負の(孤独の)エネルギーが暴発するのをやめてしまえば、彼はジョーカーでもなければ、他の何者でもなくなってしまうのだから。
彼が手に入れたものは、愛も幸福な人生もジョーカーとしてのペルソナによってもたらされたものだ。アーサーとして掴んだものはない。ジョーカーの役を降りれば当然それは消え失せるのだが、そのことがアーサーには理解できていない(この点をもっと上手く処理できていれば、映画はもう少しカタルシスを与えたのではないか?)。
ではジョーカーで居続ける? 再びジョーカーになる? それももうできない。
劇中の白眉は「もう無理だ」と両手を挙げる場面だった。
そこに行きつくにはゲイリー・パドルス氏の登場があり、パドルスの魂の叫びを聴く必要があったが、それにより心優しき、だが心の壊れた道化の、他人を笑わせることのできない役立たずのコメディアンにアーサーはもどる。内面の弱い部分に一度気付けば(降板の宣言をして、他人の無責任に仮託した象徴の地位を降りてしまえば)カリスマ性は損なわれ、メッキは剥がれ、輝きは失われてしまう。演じ続けることはできない。もとより意図して演じ始めた役ではなかったのだから。
ゆえにあの結末しかなかったことは理解できる。
いったい何だったのか。
エンドクレジットを観ながら頭のなかを過ったのはウォーホールの言葉だ。「15分だけなら誰でも有名人になれる」
だがその15分が過ぎてしまった人はどうなるのか?
誰かがその方法を真似て、その有名人(になった人物)に取って代わる? そう、確かに社会が求める限り新たなジョーカーは現れる。それでこそ、『ダークナイト』で語る度に出自が出鱈目だった男に相応しい。誰であってもよく、現れる度同じである必要はまったくない。
(アンディ・ウォーホールには「なんでオリジナルじゃないといけないんだ?」という名言もある)
監督からのジョーカー無効宣言は僕なりにそうして理解したが、だが映画として、エンタメ作品としてはどうなのか。アメリカでは公開直後から是非が分かれ、二週目にして興行が失敗しているといった話も聞く。日本でも観た人がネットで書き込んでいる評判はあまり芳しくない。
ミュージカルである点云々については先程書いたとおりで、それはねらいに基づいている。無論ガガはいうまでもなく、ホアキン・フェニックスの歌も悪くないどころかハイレベルの良さだ。始まる度に狂気の妄想が始まった! と思えるのだが、ただちょっとくどい(というか多い)気はする。
それよりも、鑑賞後の感想がいまひとつなのは最初から最後まで場面がほぼ監獄内と裁判所という閉塞感のせいではかしら。それが物語の必然なのか予算の都合なのかまでは判断のしようもないが、それがいまひとつカタルシスを与えていない大きな理由だという気がしている。
単純にミュージカルを期待していない、とかヴィランとして暴れない、とかいった点だけで、あるいは前作との比較だけで、つまらないと即決していいタイプの映画ではないと思う。