『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』/バラードが憑依し、クローネンバーグらしさが結晶化した(映画感想文)
至近未来の世界で人間は肉体的な痛みを感じなくなり、そして体内には突発的に新たな臓器が生まれるようになっている。進化の過渡期のごとく。政府は事態を野放しにすることで人間が思わぬ方向へ変わっていくのをおそれ、新臓器にタトゥーを入れることで管理しようとする。
ヴィゴ・モーテンセン演じるソールの体内にも、次々と未知の臓器が生まれてきているが、彼はそれをアーティストのカプリース(レア・セドゥ)に切除させ、その手術を公開パフォーマンスとして人々に見せていた。この世界では、手術もある種の人々にとっては芸術行為であり、そして見世物なのだ、…。
というのが『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』(23)のざっくりとした筋書き。
ある時期のクローネンバーグの映画と違い、ここではその事態をめぐっての大きなスペクタクルやサスペンスは起こらない。ただ(未知の臓器が体内に発生するということを進化ととらえるなら)新たな局面に人類が対峙したとき、個人がそれをどう受け止め、どう行動するかという、背景が大きすぎるあまりその前に配置された個々人が小さく、見えにくくなる異常下でのサスペンスを描いているともいえる。
未来に訪れるべき新たな変化を背景にしているという点で映画は、監督が敬愛しかつて『裸のランチ』(91)で材に取り、まるで作家になりきったようにして完成させたバロウズの小説群、…ではなく、J・G・バラードの小説に似ている。監督にバラードが憑依し、新たな『クラッシュ』を作らせたような印象。
バラード原作の『クラッシュ』(96)は、自動車事故と性愛を絡めた(!)映画だった。バラードが小説で書いたのは、自動車という新たなテクノロジーが人の生活を変え、それにともない思考も変わり、マシンへの偏愛が人への肉欲と交差する、…という内容だったように思うが、映画化されたクローネンバーグのそれは、三角関係(四角か?)がよりスリリングに描かれ、ロマンティックの度合いが強度を増していた。…それにしてもこの監督、『戦慄の絆』といい『危険なメソッド』といい、本当に歪な腹の読み合いになる恋愛を描くのが上手い。なぜなのか。やっぱり恋愛って頭でするものなのかな?
『クライムズ』でセックスに持ち込まれるのは、自動車ではなく「体内の臓器」とそれを切除するマシンである。
誰が観ても判るくらいに、ここでは手術が性行為のメタファとして判り易く描けれる。
思えば、市井の人が普通に行っているあの行為だって内蔵同士の交歓だものなぁ、と当たり前のことに気付かされる。他人に肉体を委ね、他人の肉体を思うがままにするというのは、なんと道徳や日常を超越し脱線した人間行動なのか。
映画には「そうそう、それが観たかったんだ」とこちらの望むものを、やや飛び越えたクオリティで見せカタルシスをもたらしてくれるものと、「そうきたか」と予想外の発見のよろこびを与えてくれるものとがある。クローネンバーグは後者だ、と安易にいえないのは、適度なエンタメ精神がこの人には自覚的なのか否かは判らずともあって、ちゃんと盛り上がるところは盛り上がり、スリリングな描写も(人並以上に)挿入されるのだ。ただ形がちょっと違う。潜入捜査官を描いた某作品のもっともどきどきするアクションシーンがなぜかフリチン、…ということだけではない。思考が、われわれの一歩以上先を行っているというのが適切か。
冒頭に書いたような世界の状況を監督はくどくどと説明もしないし、その世界の奇矯さを強調もしない。ご当たり前の平素のこととして映画のなかに取り入れている。「そんなアホな」と思った次の瞬間に僕が思ったのは「でも30年程過去にもどれば、スマホもなかったしなぁ」だった。電車の乗客の大半が小型の端末にむきあって他者をまったく見ない、という状況はかの『ブレードランナー』(82)でも『SW』(77~)のなかでも描写されてはいなかった。「公開手術が人気パフォーマンスになる時代がくるわけないやろ」と考えたときには、もう同時に頭のなかで反駁が生じ「あるかも」と考えている。回転寿司店でショウガを頬張るのがパフォーマンスになると思う輩が出てきている時代だしな、…とも考える。
その公開手術を参加者たちは個々に撮影するのだが、それがスマートフォンでなく8ミリカメラのような機器であるところもさりげなくってカッコいい。
『クライムズ』はタイトルがクローネンバーグの自主製作時代の作品と似ている点も踏まえ(『シーバース/人喰い生物の島』(75)を監督デビューとすれば、それ以前の1970年に『クライム・オブ・ザ・フューチャー/未来犯罪の確立』という映画を自主製作で撮っている)、これまでのクローネンバーグの総決算といった謳い方がされていた。
僕はわりと熱烈なクローネンバーグファンだとは思うが、総決算とか「監督らしい」といわれる作品が往々にしてセルフパロディに陥ることも知っている。99年の作品『イグジステンズ』はベルリン国際映画祭でも芸術貢献賞を受賞、ロッテントマトでもそれなりの評価を受けているが、『ヴィデオドローム』(83)の焼き直しのようでもあり、映像技術の進化によって洗練された分だけ退屈になったと思った(あくまで個人の感想ですよ)。
なので、今回もやや疑心暗鬼で劇場に臨んだが、そうか、監督のこれまでの総決算というのはこういう形で結実するのか、…と感心した次第。初期の発想から日和った転向をすることもなく、さらに踏み込んだ映画になっている。どう観られるかを以前は映画として考慮する余地があったとすれば、本当にただ言いたいことだけを衒いなく告げている。
これは最近の発言ではない。1979年の作品『ザ・ブルード/怒りのメタファー』についてのインタビューから(『クローネンバーグ・オン・クローネンバーグ』フィルムアート社 93年)。
ほら、ぜんぜん変わってないやんか。