『プロミシング・ヤング・ウーマン』/いままではうまくヤレてただろう、…⁉ とクズ男がさけぶ(映画感想文)
男たちに乱暴されて人生をフイにした友人の復讐をする、・・・という筋書きだけなら同様の作品はこれまでに多く作られている。「復讐」を動機として殺戮を繰り返すのはホラーではおなじみ。ホラーやスプラッタに限らずアクションでも。
ただこれまで多くの映画は復讐の対象を、特定の個人としてきた(無制限の殺戮を行うスプラッタはその限りではないが)。悪いアイツひとりを倒せば主人公の気持ちに決着がつき、物語も終わる。
『プロミシング・ヤング・ウーマン』(21)も筋書きだけを取り出せば、けっして新しくない。しかしその復讐の対象が特定の個人ではなく価値観そのものとした点が大変新しい。
将来有望だった親友を辱めたやつら、ではなくそいつらを許す当時の価値観すべてに対しキャシーは挑む。その点でこの映画は『ジョーカー』(19)と酷似している。『ジョーカー』においてホアキン・フェニックス演じたアーサーは貧富格差、ひいてはなにごとにも優劣をつけ劣った側を人として扱おうとしない社会の優越的な価値観に対峙する。選択はけっして能動的なモチベーションに基づいて行われたものではなかったが、結果としてそうなる。既製の、いまある優れたもののみが主導権を握る社会に対してノーをつきつけた途端、これまで弱者として社会の片隅に追いやられていたアーサーは多くの共感を得てシンボルとなり、社会をひっくり返す旗手となる。
その登場は現実の社会の腐敗、・・・というと言い過ぎの感があるので現実社会の歪に不満を感じる人が増えた結果だ、としておく。社会の要請が『ジョーカー』という映画を生んだのだ。
『プロミシング・ヤング・ウーマン』も同様。映画が始まってすぐに、これもまた現状の価値観に対する不満へのひとつの挑戦、ひとつの解答の提示ではないかと判ってくる。『ジョーカー』と異なりこちらは女性蔑視、あるいは女性の立場軽視の社会だ。
アメリカのスタジオの有力者に対する告発から起こったMe tooの運動がそのモチベーションとなったことは間違いない。
そのあとで何がどれだけ広がり改変されたかの検証は難しいが、その過程で被害にあった女性が同性に裏切られる場面が多くあったのではないか、という推測は容易だ。デートレイプを題材にしつつキャシーが痛めつけていくのは男ばかりではない。それを容認する女たちにも彼女は戦いを挑んでいく。なぜ女なのに彼女たちは卑劣な男性を容認するのか。それぞれ立場や求めるものは異なれど、そこで発せられる言葉は「彼を告発しますか? でもその結果彼の有望な将来をあなたは壊すことになるのよ」なのだ。乱暴された女性にも有望な将来があった筈だというのに、そのことに気付かないお前の目は節穴なのか。その論点のすり替えは相当に頭が空っぽだからなのか?
映画のタイトルは『プロミシング・ヤング・ウーマン』、「将来有望な女性」はその強烈なパロディとなっている。いちばん被害者たちがいいたかったことだ。
アカデミー賞では作品賞、監督賞、主演女優賞、編集賞にノミネート。脚本賞は受賞している。
『ノマドランド』の諦観混じりの、それでもポジティヴな新しい価値観の提示と比べると確かに分は悪いが、脚本賞は納得だ。先に書いたように古い手垢に塗れたプロットに新たな価値観を提示し、まったく新しいポップでキッチュな映画に仕上げるのに成功している。出てくる連中が(悪いやつも含めて)キュートで、リアリティがある。
ある黒人のデートレイプ未遂犯がヤレる手前でキャシーに対し、「お前たちはなぜそうやって壊そうとする!」と毒づく場面には息を飲んだ。字幕だけでは判らないが、彼がいいたいのは「男が女を酔わせて上手くヤル」というのはこれまでずっと揺らがなかった当然のコミュニケーション手段だろう? それでみんな丸く収まっていたんじゃないか、という宣言である。敷衍すれば「レイプだなんだと声高に叫び出したが、これまで長い歴史のなかではそれで上手くいっていただろう? 男も、女も」という旧弊で揺らがない価値観への信頼なのだ。さりげないところでハッとさせられる。僕自身はこれでもわりと公平で、差別意識も歪んだ尊卑感情もないと思っていたが、その実キャシーに指摘されれば自分もやっぱり固定観念にとらわれていると気付かされるかもしれない。
そこまでしてなぜ、・・・? と思わなくもない。
映画は後半、既視感のあるスリラーに陥るが、・・・。まあ一見の価値アリですよ。