『恐怖の報酬』/いいわけはしない、無駄口も叩かない(映画感想文)
小心で細心なのに破滅的な一面を持つ。いざとなれば底力、というよりはやけくその捨て鉢で、それまで見せなかった思わぬ力を発揮する。
『ジョーズ』(75)のブロディ署長もそうだった。『フレンチ・コネクション』(71)においては、その破滅型のキャラクターはジーン・ハックマンがひき受けたからか、ややスマートな相棒だった。だが『ブルーサンダー』(83)の主人公マーフィーもライバル相手に大人気ない挑発や小競り合いを引き受け結果として大きな陰謀に飲み込まれてしまう、・・・。
ロイ・シャイダーが演じる役の多くには追い詰められてから発現する狂気にも似た何かがあり、そしてそれは少年の頃に秘かに憧れた中二病的な得体の知れないパワーでもある。破滅と表裏一体になった男らしさとでもいおうか。
ウィリアム・フリードキン監督の『恐怖の報酬』(77)を観た。
53年に制作されたフランス映画『恐怖の報酬』のリメイクだが、筋書きにはフリードキンの構想が加味されている。アメリカ公開時のタイトルは「Sorcerer」、魔術師のことだ。映画を観た人なら「複数形ではないのはなぜ?」と思われるかも。日本で公開されたときには元ネタ通りのタイトルとなっている。ただ公開版については、当時はオリジナル版の素晴らしさに比べ所詮リメイク、・・・と軽視される風潮が残っていたこと(これは『パピヨン』のリメイクへの風当たりなど、モノによりいまでも根強いと思うのだが)、公開当時『スター・ウォーズ』が世界的に大ヒット中で対極にある泥臭い本作はアメリカでの公開時に惨敗を喫したこと、などから海外版は大幅に本編をカット、バッドエンドの予感漂うラストシーンも切られてしまい、・・・作品としての魅力が正しく評価される機会を長い間失っていた。
今回、観たのはフリードキンの意向が尊重された121分の版。
危険なニトログリセリンを男たちがトラックで運ぶ、という筋書きは知っていた。冒頭から運搬が始まる、・・・と思っていると違って、前半では縁もゆかりもなかった男たちが危険な仕事を引き受けるに至る運命としかいいようのないそれぞれの出来事が描かれる。根っからの悪党ではなく、たまたま正しくない側へと踏み込んでしまった男たちだ。誰もが何かから逃れ、そして辿り着いた辺境で生命を賭した難事に挑まねばならなくなるのだが、きっとその経緯は女子どもには(←すみません)判るまい。いや、成功した男にも判るまい。「なんでそんな莫迦なことを?」と思うだろう。
男たちは言い訳をしない。
それが何より魅力的だ。思うところもある筈なのだが見舞う災厄に対して愚痴を叩くこともない。
観ていると判ってくるがこの映画、説明もセリフも極端に少ない。これでもか、という程に削ぎ落されている。それでも絵の圧倒的な説得力で状況は痛いほど理解され、あるいは少しあとで理解が追いつき辻褄が合い、その瞬間にカタルシスに見舞われカッコよさに息を飲む。省略の美学だ。
当時『フレンチ・コネクション』、『エクソシスト』(73)と映画史に残る傑作を続けて撮り、次回作をどうするか、と考えあぐねていたフリードキンは「堅気ではない男たちが、予測できない運命に逆らいながら生き残るために戦い続けるドラマ」を作りたいと、この『恐怖の報酬』に辿り着く。制作にあたってはオリジナル版はもとより同じジャングルを舞台としているということでデヴィッド・リーンの『戦場にかける橋』(57)も参考にしている。入念な準備のなかでリーンに話を聞きにいき意見を求めた。その会談において「もう一度自分が『戦場にかける橋』を撮るとするならセリフを三分の一に減らす」とリーンがいうのを聞き、フリードキンはセリフを削ぎ落していく。
その結果出来上がったのは、無駄口を叩かず、恨みつらみや後悔も口にしない、子どもじみた冒険心を胸に難事に挑む男たちのなんともハードボイルドな物語だ。
そう考えるとやはりまたしてもここで「なぜ『魔術師たち(Sorcerers)』ではなかったのか」と疑問が湧く。ロイ・シャイダー演じるドミンゲスが仲間たちに心を許していなかったからか? いや、そんなことはない。冒険が始まる前はたとえそうでも、道中において彼らはたがいに認め合い、・・・。いや、これはネタバレになる。
北米以外で最初に公開された海外版にはラストのダンスシーンがないのだとか。
あのシーンを観たときに僕は衝撃に撃たれたのだが、・・・。多分、藤沢周はこの映画に影響を受けて『ブエノスアイレス午前零時』(98年芥川賞受賞)を執筆したのではないか。違うか。あれはマルティネスの代わり? そして当然ここでも何の説明はない。
『恐怖の報酬』には過剰な演出も「いまから何かが起こりますよ」的な音楽もカットもない。ただ淡々と、出来事だけが描かれる。予兆なくアクシデントや不幸がやってくる。ロイ・シャイダーはそれをただ受け、足掻くだけだ。思えば子どもの頃は世界にどんなアクシデントや不幸があるか考えてもいなかった。無垢と無知とがほぼ同義であると演技で示せる役者はそうはいない。誰もが利口ぶりたがる。降りかかる災厄に対してこうも無防備な演技ができる役者というのは大変貴重な存在だったんだなぁ、といまさらながら思う。121分、あっという間。
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