『大いなる不在』/声と肉体がもたらす啓示(映画感想文)
ヤングケアラーという言葉どころか認知症という言葉でさえ、ほとんどまだ聞かれることはなかった。「ボケ老人」とあたかもそれが特殊な事例のように誹謗混じりに世間でいわれていた頃、僕は祖父を、それから祖母の面倒を看ている。中学2年の春からだった。
別の家で暮らしていた祖父がある日帰ってこなかった。
翌日保護されて初めて、いわゆる認知症であることが発覚。いっしょに暮らしていた祖母は大事になるまで気付いていなかった。気付かない生活に原因があったと思うのは僕の勝手だ。
父が祖父を引き取るといい、あの日々が始まった。
徘徊、理不尽な暴力。やがて寝たきりになる。身体が大きい祖父の世話を、家の中でできる力があるのは僕だけだった。なにもかも。おしめを替えることももちろん。
数年を経て祖父が亡くなると、介抱の疲れが出たのか緊張が緩んだか、間を置かず祖母も認知症を発症。祖父が亡くなったとき「これでもう世話をしなくてよくなる」と思った覚えは定かにないが、思ったとして不思議はない。あんなに苦しかったのだから。だが終わりではなかった。新たな始まりだった。
いっしょに暮らす人が壊れるということが、どれほど凄惨で絶望的なことかは体験した人にしか判るまい。キレイごとは通用しない。家族なんだから、と建前で考える人も世間にはいる。
近浦啓監督の『大いなる不在』(24)を観た。
ネットから拾うと、
「役者の卓には大学教授だった父がいる。卓がまだ幼いときに、父は自分と母を捨て若い頃から愛していた女性と再婚した。以来父親とは疎遠になっている。その父が警察に捕まったと連絡を受け郷里の町に戻ると、父は認知症になっていた」
「疎遠になっていた父にひさしぶりに会った卓は、義理の母がいないことを知る。父に義母がどこにいるのかと訊ねてみると、『死んだ』と父はいう。だが父は認知症を患い、その言葉をどう信じればいいのか卓には判断がつかない。家には大量のメモと、見知らぬ女性のいた痕跡が、……」
といった(筆者要約)サスペンス的要素を持つ惹句が散見されるが、それは宣伝効果をねらってのことなのか。『大いなる不在』はそんな映画ではない。
認知症の父親と、疎遠だった息子が和解するような映画でもない。
内的な必然に駆られ息子は父を知ろうとするが、この映画がたどりつくのは単純な融和ではないし、伝えようとしているのは、そんな表層のすぐ下にあるような頭で考えただけのお気楽な解決でもない。
役者をしている息子は森山未來。
元大学教授の父親は藤竜也。
父親は正常だった頃から、言葉の細かい定義にこだわり、ちょっとした(自分の考える世界の定義からの)ズレも許さぬ人だった。自身と同程度以上の知識と教養と洞察を他者に求める。だが他者の気持ちに対して洞察をはたらかすことはない。独善的。自分が絶対であり、思うようにならないことはすべて見下す。
だが、それも正常(でエラい大学の先生)だから許されることだ。
こうして書くと、認知症になってからの父親とそれ以前の父親との世界の接し方にあまり違いがないことが判る。
藤竜也演じる父親は自分の接する他者や世界に対し、きびしく自分のルールを押しつけるのだが、よくよく考えてみれば誰しも大なり小なり同じようなことをしている気がする。
くだらない上司は、自分の経験則しか信じずそれを部下や後輩社員に絶対的なものとして押しつける。そして自分以外の(立場が下のものの)言葉に耳を貸すことはない。端っからそちらが間違っている、社会で通用しないと思っている。
権威ある大学教授も同じ。世間知らずの息子の言葉など間違いだらけだと思っている。
認知症が進んだ老人も同じ。自分以外の世界の指図など信用しない。
前者であれば、他者はしぶしぶ「この人にはこの人なりの理屈があって、それも仕方がないわね」と許容する。後者なら「老いて病気になっちゃったから」と思うだろう(前にいた会社で、いっしょに電車で帰ると道中、自慢話しかしない上長がいた。この人のことを僕は後者だと思っていた。この人はきっと頭か心の病気なのだ。僕に自分の立場を自慢することで心が少しでも癒えるのなら聞いてあげよう、…)。
だが、権威的であれ認知症であれ、コミュニケーションが一方通行だという点でどちらも同じだ。
森山未來演じる息子の卓は、父が健全なときは権威的な父親の言動や理屈に阻まれ疎遠にならざるを得なかった。父親がまともに向き合わないからだ。
認知症が進んだいまは、父親のそうした権威の障壁はない。だが意志の疎通はままならない。
しかし、健全だったときは息子から近づくその行為でさえ「くだらない」と愚弄した父親はもういまはいない。こちらが前向きな姿勢を見せれば、意志として拒否されることはなく、蔑まれることもない。ただ、もう正常でもない。
(息子もまた、子どもの頃にそうして上手く父親には受け入れてもらえず、実の母親は父親によって家を出されたことで、些か他者とのコミュニケーションを苦手としている。あるいは、アプローチの方法が世間とは少しズレている。ただ彼は他者に対しての興味を失ってはいない気がする)
近浦監督は「物語の着想のきっかけはコロナだった」と語る。
そこで感じた『不在』について考え、生まれた物語であると。またコロナ禍が始まった頃に実際に監督の父親が認知症を発症したことから「『父親の物語』を追う息子の物語」という構造が出来たのだとも。
先の僕の勝手な見解に則れば、息子は父親が認知症になったがために、はじめて父親に寄っていくことができた。近づくことができたのだと思う。
その過去への探索のよすがとして劇中で大変上手に使われるガジェットが、母(息子にとっては義理の母。父親が深い愛を注ぎ、家庭を捨ててまでもいっしょになった女性)の日記だ。そこには「若い頃の父が、まだ妻になる前の恋焦がれた女性」へ送った手紙も差し挟まれている。その手紙から窺い知る若かりし頃の「父という人物」は、息子がこれまではっきりと知ることのなかった父親であり、これもまた認知症の進行により起こった今回の事件があったればこそ、覗き見ることの出来た父親の過去の姿である。
こうして、息子は父親の過去の姿を知り、若かった偏屈で厄介で情熱的で、刹那とは無縁に思われながらすべてを投げ捨てる覚悟を持った(独善的な)男と向き合うことになる。
しかし、その男はいまはもういない。肉体はあるが、精神性は異なる別の人物になってしまった。年月を経て、老いて、いなくなってしまった。
いや、本当はどうなのだろう。
ここにいるのは誰なのか。
僕という人間は確かにいま生きてここにいるが、若かった頃の自分といまの自分とはもう違う人間だ。いくらか謙虚になり反省することも覚え、その分勝負強くもなり他人の面倒も少しは見られる人間に変わった。情熱は減り(多分)、短気ではなくなり、理想と妄想の区別がつくようになった。こういった点において、過去の(たとえば大学時代なんかの)僕は、もうこの世にはいない。
同じ名前の見た目はずいぶん老けた人間がここにはいるが、あの頃の無謀な自分は世界のどこにも不在なのだ。だが、その当時の僕を好きだといってくれた誰かは、もしかすれば、いまもその過去のままの僕を心のなかに見ているかもしれない。
変わらぬ人はいない。成長しない人は(基本的に)いない。そして、その変化の是非に絶対的な判断を下すことはできない。
認知症になる前の人物と、なってからの人物は別の人間だと思う。物覚えが悪くなり、それが悪いで済むレベルを越え過去とのつながりを失ったとき、他者との関係性も死ぬ。では、その人は他者にとっては「誰」なのか。何者なのか。
夫であることを放棄した男は、妻にとってもう何者でもない?
父親であることを忘れてしまえば、もうその人は息子から見て他人同然の存在でしかなくなる?
この映画は、そうした根源的な存在についての問題を突き付けてくる。
あなたは「誰でもなくなった人間をこれまでどおりに受け入れるのか、どうか」と。またいつかあなたが「誰かを誰かと認識できなくなってしまうときがくるかもしれない。そのとき、あなたの心はどこにあることになるのだろうか」と。
こうした哲学的、というか小難しくなりそうな形のない厄介なテーマを、だが森山未來演じる息子は肉体性やときには声を使って観客に投げかけてくる。もちろん、それは劇中の悩めるひとりの息子としてなのだが、彼の行動にわれわれは深い共感を覚え、彼が出す声にときには啓示を感じる。
脚本はほぼ当て書きだった、と監督はいうが確かに森山未來という役者でなければ薄っぺらい、観ている僕らが「芝居臭い」と思う危険もあったと思う。
ある場面で声に出して読まれた父の手紙は、メタレベルで突き刺さってきた。それほどに生々しい、「人」について、「人がそこに存在すること・していたこと」について、そして「不在になってしまったこと」について相当深く考えさせられる稀有な映画だった。
テキストとしてでなく、おもしろさにただのめり込むでもなく、物語が我が事として身に迫ってくるという体験はそうそうできるものではない。こういう評価は小説だけのものだが、しかし確かに、行間から何かが立ち上がってくる気がした。
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