魂の螺旋ダンス(23) 一神教の系譜 イスラームにおける超越性と絶対性
・ 一神教の系譜
キリスト教は、人類史上唯一の「侵略的な絶対性宗教」なのではない。
彼らは近代以降、もっとも猛威をふるっている絶対性宗教であることは確かだが、それは彼らだけの特別な性質なのではない。
国家と「文明」のあるところ、ほとんどどこでも、絶対性宗教はその萌芽を見せていた。
ただそれらの多くは経済と武力の戦争において他の勢力に凌駕されたがために、その侵略性の腰を折られてしまったに過ぎないとも言える。
中でも超越性宗教から絶対性宗教への典型的な道のりを歩んだのはやはり西南アジアにおける一神教の系譜であろう。
西南アジアにおいてはゾロアスター教、ユダヤ教、キリスト教、イスラームが生まれた。
そのそれぞれは、異民族差別を超えていく超越性原理へのまなざしを持っていた。徹底、不徹底の差はあるにせよ、超越性宗教としての契機を有していた。
ゾロアスター教の開祖ゾロアスターは、シャーマニックな脱魂体験において、死後の生における倫理的な裁きを確信する。
その体験そのものは、部族シャーマニズムにも似たものだが、彼がそこから樹立した思想は強い倫理的要請に基づく正義の宗教であった。
「死と再生」は、一度きりのものであり、そこで「終末論的審判」が下される。それは、部族シャーマニズムの循環的な時間意識から、ユダヤ・キリスト・イスラームの直線的な時間意識に向かう画期的な天啓であった。
また彼は閑職神化していたアフラ・マズダーを最高神として蘇生させる。
この価値逆転の運動も超越性宗教に特有なものである。
すなわち、弱き者、徹底して無力なものが、神と直接つながり、神の正義を生きることで逆転の救済を受けるのである。
そんなゾロアスターにとって火は、偶像崇拝を超えたダイナミックな超越原理そのもののシンボルであるはずだった。
ところがその後のゾロアスター寺院はその火を守護する祭司を置き、この宗教も次第に硬直化していく。
そして、この地で最初の大帝国アカイメネス朝の頃には国教化してしまうのである。
主な一神教の中ではユダヤ教は、民族宗教からの離脱がもっとも不徹底だったと考えられる。
ただ少なくともそれは、唯一神への絶対帰依を説き、王権を相対化する視座を有してはいた。
また民族神話の単なる集成であるだけではなく、モーセという一人の預言者によって創唱された創唱宗教という側面も強い。
だが、その民族主義的制約はやはり大きいと言わなければならないだろう。
特に現代においては、列強によって捏造された「民族主義的な帝国主義」である「シオニズム」との関係で、批判すべき点は多い。
キリスト教については既に論じてきたので、ここで改めて取り上げることはしない。
が、イエスは、人類史上において稀有の徹底した反差別性、地上の権威を超越した原理を宣言した存在であることは今一度確認しておこう。
彼の明らかにした意識の地平は、今なお眩しく輝いている。
しかし、そこから生まれたキリスト教もその後「絶対化」「権力化」の道を免れることはなかった。
そして人類至上最悪の殺戮と収奪を繰りひろげるのは、前節に見たとおりである。
・ イスラームにおける「超越性」と「絶対性」
イスラームにおける「超越性」と「絶対性」の問題は実はやや複雑である。イスラームにおいては最初から「超越性」と「絶対性」は近接していた。
まずイスラームは、キリスト教のように抑圧的な国家宗教的なるものへの抵抗運動として始まったものではない。
当時のアラビア半島は数多くの部族が割拠する部族社会であった。
生存競争の必要上、自分の属する部族への帰属意識や忠誠心は発達していたが、部族社会を越える国家観念はなかった。
ムハンムドの提起したイスラームはその横並びの部族社会を垂直に超越しまとめ上げる理念や力、政治体制をもたらすものだった。
つまりアラビア半島においては国家宗教的段階を経ることなく、部族シャーマニズム段階から一気に超越性宗教段階へと飛躍が行われたのである。
それゆえにムハンムドの仕事は、抑圧的な国家の中における個的な超越といった内面的宗教性だけが強調されたものにはならなかった。
それは強く政治性と結びついたものになった。
つまりイスラーム自体が、部族社会を越える超越性原理に基づく「普遍的な社会」を作り出す政治力や軍事力を必要としたのである。
古代アラビアは無数の神々の住むところだった。
聖なる樹木や巨石をご神体とした女神、雷の神、星の神、太陽の神、恋と友情の神など、めくるめく神々の世界であった。
メッカのカーバには数十の神像が祀られており、後にイスラームの唯一絶対神となるアッラーもそのひとつだった。
メディナへの聖遷の後、大軍を率いてメッカに戻ったムハンムドはカーバに敬意を表した後、神像を破壊させた。
そして「真理は来た。虚偽は滅びた」と叫んだと言われている。
ムスリムとは「アッラーのほかに神はなし。ムハンマドは神の使徒なり」と信仰告白する者を言う。
さらに究極的には「アッラーのほかに神はなし」こそ、イスラームの精粋である。
アラビア語の原文では「ラー イラー イッラー アラー」、英語に直訳するならば「ノー ゴッド バット アラー」「神は存在しない。しかしアッラーについては別である」という意味になる。
中田考は『イスラームのロジック』の中でこう語る。
「森羅万象のすべてから神性を剥奪し、神は存在しない、どこにも神は存在しない、との認識に先ず立つこと。イスラームはこの神の否定から出発する。世界の中に形をとって存在しながら『神』として人間の崇拝を求めるもの、すなわち偶像の存在は、イスラームの教義の根本に抵触する。」
こうして誕生したイスラームこそは単独者としての神の超絶性をもっとも純粋に表現した宗教であった。
アッラーの唯一神としての超越的性格は、三位一体を認めるキリスト教以上に徹底していた。
多神教と偶像崇拝を徹底して否定したイスラームは、アラブ世界における部族ごとの雑多な宗教を超越し、唯一神のもとでの人類の完全な平等性を謳ったものである。
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