見出し画像

「悲しみ」と「肉を焼くこと」と「ダンディズム」について

誰かが、こんなことを言っていた。

「悲しいときには、肉を焼くといい」

いや、誰かがこんなことを言っていたのか、あるいは全く別のことと取り違えているのか、もしくは単純にぼくがいま、まさに思いつきで書いたのか。正直なところ、確かなことは思い出せない。

そのどれかだとは思う。でも、そのどれでもない可能性も否定できなかったりもする。ただともかく、ぼくは改めて、自信を持って言おう。

「悲しいときには、肉を焼くといい」

悲しみの果てに何があるかなんてオレは知らない見たこともないと急速にエレファントカシマシ化しつつも、悲しいときには肉を焼くことをオススメしたいのである。

そして、ただあなたの顔が浮かんで消えるだろう。オーベイベー。

「肉を焼く」とは繊細な行為である

「肉を焼く」という行為は、一見すると単純かつワイルドな行為に見える。火を点ける、フライパンなり鉄板なり焼き網なりを温める。その上に、肉を乗せる。火が通るまで焼く。以上。

確かに単純である。

しかし、一度でも肉を焼いたことがある人は、きっとわかっている。

「肉を焼くことは、実は繊細さを要する仕事である」

そう。ただテキトーに肉を焼く。それでももちろん、美味しく仕上がることもある。だが、本当に美味しく肉を焼くためには、どうしても「繊細さ」が必要だ。

ステーキを焼く場合であれば、肉の厚み、フライパンや鉄板の温度、そして室温。さらには、どのタイミングで塩・コショーをするのか・・・etc。考えるべきことはたくさんある。

それは焼肉であっても同じ。肉を網に乗せる。火が、肉の表面を炙り、チリチリと焼いていく。裏返すタイミングも重要だ。焼きすぎると火が通り過ぎるし、焼かなすぎてもいけない。

さらに焼肉の場合は、部位の差も加味しなくてはならない。ハラミ、ロース、カルビ、そしてホルモン類が全て同じ焼き加減で良い訳がないのである。

そして「ココ!」というタイミングを図って、裏返す。そして、再び火が肉をじわじわと変えていくさまを見届ける。そして、最善の時を見計らって、引き上げる。

何を七面倒なことをダラダラと書き連ねているのか・・・と思うかもしれない。確かにその通り。だが、この「七面倒なこと」が、実はめちゃくちゃ楽しかったりもする。これも、肉を焼いたことがある人なら、わかるはずだ。

例えば、バーベキュー。あるいは、焼肉もそう。もちろん、キッチンで一人で牛や豚、鳥を焼くこともそう。

「肉を焼く」という行為は、それだけでもはや喜びであり、エンタメですらある、とぼくは思っている。

なぜ悲しい時に「肉を焼くといい」のか

なぜ、ぼくが「悲しいときには肉を焼くといい」というのか。

それは、肉を焼くという繊細かつ大胆な行為が、心の悲しみを一時忘れさせてくれるからである。

肉を焼く時、人はその肉と向き合うことになる。

ひとたびフライパンや焼き網に乗せられた肉は、一秒たりとも待ってはくれない。時は刻々と過ぎていく。火は、容赦なく肉を、正確に言うならば肉のタンパク質を変質させていく。

ああ。そんな時に、悲しみに暮れているヒマなどあるだろうか、いやない。

五感を働かせて肉の焼け具合を把握し、ステーキの場合にはそそくさと付け合わせ等々の用意を済ませ、焼肉であればキムチなどを一口つまみつつ「その時」を待つことになる。

そして「その時」は来る。

焼き上がった肉を、皿なり、鉄板なりに移す。

ここからもスピードが勝負だ。肉が最善の状態で、食さなくてはならない。肉を口に運ぶ。ああ美味しい。

それでもまだ、あなたは悲しみに暮れているだろうか。いや、そんなことはないはずだ。美味しい肉を焼いて、食べているというのに、まだ悲しい?そんなはずはない。

いやいや、それは単に、ぼくがお肉大好きの食いしん坊だからではないか、と思う方もいるだろう。

その通りである。

ただ「肉を焼く」ことには一種のストレス解消効果があるのではないか、とぼくは割と真剣に考えている。

何か悲しいことがあったときは、そう簡単に前を向けるわけではないだろう。悲しいときは、悲しい。それが人間だ。

そしてもちろん、悲しみに打ちひしがれるのも悪くない。でも、思い切って肉を焼いて、食べて「ああ、いつまでも悲しみに囚われている場合ではない」と気持ちを切り替えるのも悪くないとは思わないだろうか。

「肉を焼くこと」と「ダンディズム」

「肉を焼く」とは、そういう意味では「ダンディズム」に通ずるものがある、とも言えるかもしれない。Official髭男dismは全く関係ない。それにしても、どういう意味なのだろうか、Official髭男dism。

「ダンディーである」とは、決して「強さ」だけでは語れない。小説家・レイモンド・チャンドラーが生んだ名探偵であり、ダンディーの代名詞のような人物、フィリップ・マーロウはこう言っている。

タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きている価値がない。
If I wasn't hard, I wouldn't be alive.
If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.

 『プレイバック』/レイモンド・チャンドラー

いかがだろうか。

「唐突に『いかがだろうか』と尋ねられても困る」という感想はごもっともだが、今回は無視させていただく。

再三再四述べている通り「肉を焼く」ことは、大胆かつ繊細な行為である。強さと優しさが共存する活動である。大げさだと思うだろう。ぼくもそう思う。だが、間違っているとは思わない。

男たるもの(というと、ジェンダー的観点からそれはどうなのか?という指摘が飛んできそうだが、一旦置いておく)、いつまでも悲しみに暮れているわけにはいかない。

悲しいことがあったとしても、翌日にはその悲しみを心の奥底にグッと収めて、笑顔で居続けることが大切だ。そのためには、肉を焼くべきだ。お肉を焼いて、美味しく食べて、涙を拭いて、グッと悲しみを堪えて笑うべきだ。

ちなみに、こんなメンドーなことをしなければならないのは、ぼくらが「男性」だからである。女性は元々もっとタフで、もっと優しい。ぼくらが肉を焼いてそっと涙を拭いている間に、女性たちはきっと既に気持ちを切り替えて、まっすぐに前を向いているはずだ。

そう。女性のようにタフにも、優しくもなれないダメな男たちは、今日も肉を焼くべきだと、ぼくは勝手に思っている。

いいなと思ったら応援しよう!

あべ のぶお@セッション型フリーライター
いつもありがとうございます。

この記事が参加している募集