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私もずっとそっと他人でありたい

仕事でうへぇとなった日の帰り道、
スーパーのレジのおばちゃんが
ちょうど¥888になったディスプレイを見て
「あら、なんていい数!ぴったり!」って
言ってくれたこと。
これから抗争か討ち入りですかみたいな
ぶっといチェーンを首に巻いた
見るからにいかついお兄さんが、
杖ついたばあちゃんとその伴侶らしき
じいちゃんが電車に乗ってきた瞬間、
「おい」と隣に座っていた恋人らしき
女性に目配せして、一緒になって
スッと立ち上がったのを見たこと。
銀行のATMで順番を待っていたら
後ろに並んだお姉さんが「これついてますよ」と
セーターのサイズ表示のタグが
つけっぱなしだったことを
ひそひそと教えてくれたこと。
たくさんいる先客にもひるまず
(食い意地が張っているだけだが)
風の中を待って大好きなコロッケを買ったとき
「待たせちゃってごめんね」と、
お肉屋さんのおじさんがからあげを2つ
紙袋に忍ばせてくれたこと。
クラスの人間関係でもめた時、
それを見事にさばいてかっちょいい姿を
見せてくれたのは、ほとんど話したことのない、
別のグループの女の子だったこと。

これを含めるのは
ちょっとずるいかもしれないけど、
何だか悲しくてやるせなく歩く帰り道、
ふと目があったネコに「みゃあ」と鳴かれたり
(いや、鳴いてくれたのだ。断固)。
いつもすれ違うときにはそっけないくせに、
そういうときだけなんか察知しちゃって
目の前のアスファルトにゴロン、とかなって
「なでてもいいけど?」
な目線を送ってきたりとか。
そういう他人(他猫)がいなくては、
私はここまで生きながらえてないん
じゃないかと思う。

翻って、今は関係性が「すごく濃い」か
「全然無関心」のどちらか両極端に
世界が振れているような気がしてならない。
インターネットで確かに
人と人のつながりって"広がった"。
(だって日本を飛び出して何なら地球規模だ)
でも本当にそうなのだろうか。
広がっていった先で結局、
自分の趣味や興味が合う人たちとは集い、
そうでない人たちのことは輪の外側に
置いておいてあまり気にならない、という
これまでと同じ世界の範囲が広い版を作って
いるだけなんじゃないだろうか。

世界はアメーバみたいに無限に広がって
いるようで、実は「身内」には手厚く、
それ以外はそうでもない。その"中間"である
どちらにも属さない「ただいる他人」というのが
存在しにくくなっているのでは
ないかなぁと思うのだ。
一過性というかそう言う
「もう二度と会わないだろうけど、
その時その場所にいてくれた人」のことと
いうと分かりやすいだろうか。

他人のささやかな関わり合い、を考えて
真っ先に思い出したのが
有川 浩さん「阪急電車」だった。
阪急電車の各駅名の短編になっていて、
独立した個々の物語でありながら、
それぞれに登場する主人公は当然、
電車が走っている間、
他のお話の「脇役」としても
場面に存在している。
たまたま乗り合わせただけの人々が
少しずつ他の人たちに
影響を与え合う空間として
電車が選ばれているのだ。

線路沿い斜度45度の斜面を降りて行って
ワラビを採りたいと恋人にねだる美帆ちゃん
(個人的にこの子はかなり好き)や、
矜持を持って凛とした時江さん(with孫)
も捨てがたいのだが、
やはり一番印象に残っているのは
「折り返し」「小林駅」に登場する翔子さんと、
同級生にいじめられているとみられる
小学生女子との「他人」のお話だ。

翔子さんは、2編目の「宝塚南口駅」では
裏切られた女性という役で主役を張っている。
結婚間近に、婚約者と自分の友人と思っていた
会社の同僚から手酷い裏切りを受け
婚約者を奪われる。
婚約を解消する交換条件として
披露宴には招待するという約束(半ば脅迫)を
取り付け、新婦となった同僚を食うほどの
白いドレスで「参戦」した帰り道に
阪急電車に乗っているという設定だった。

翔子さんは、上記の討ち入りの帰りに
車内で(時江さんに)教えられ立ち寄った駅で
新しい生活をスタートさせている。
それがこの小林駅なのである。
彼女が仕事を終え、新たな自分の
地元に帰ってきてホームに降りたところで、
その小学生女子が数人の別の女子から
卑しいやり方でバカにされそうになる
場面を目撃したのだ。
いじめられている様子の女子と翔子さんは
どうやら似ているところがあるらしい。
容姿に恵まれているところと、
気高いところである。それゆえに、
まだ小学校の低学年程度だというのに、
標的に選ばれてしまうのである。
翔子さんは、自分をなんとか保とうと
毅然と電車を待っているその少女につい、
話しかけてしまう。

「あなたみたいな女の子は、
きっとこれからいっぱい損をするわ。
だけど見ている人も絶対いるから。
あなたのことをカッコいいと思う人も
いっぱいいるから。私みたいに」
だから頑張ってね。

有川浩「阪急電車」幻冬社文庫

翔子さんは
「ちょっとあなた達なにしてるの?」などと、
主犯の女子に直接話しかけたりしない。
そんなことをしても反抗されて
ますます厄介な状況にいじめられている側の
女子を追い込んでしまう。
そして知っているんだろう。
それよりも今、この子に必要なのは
目先をほんの少し変えてくれる一言
だっていうことを。自分もまた同じだったから。

この出会いは、長いこと記憶に残るのだろうか。
きっと少女は学年が上がりクラスで気の合う
(多分、こういう子はワラビを採りたいと
言い張る美帆ちゃんみたいな子と
気が合う気がするなぁ)
友達ができたらすぐに、自分がいじめられていた
なんてことは忘れてしまうかもしれない。

かつて小林駅で知らんお姉さんに
頑張れと言われたことだって。
でもたぶんそれでいいんだ。
翔子さんだって覚えていてほしい
だなんて思ってない。
自分に感謝してほしいなどということだって
当たり前だが思ってない。

ただあの時
あの場面に居合わせた「他人」だからこそ
起こった出会いだったんだから。
お母さん・お父さん・学校の先生・幼馴染・兄弟、
誰にも代わりは務まらない。もう二度と会わない
かもしれない翔子さんだからできた。
偶然が連れてきた人だ。

このお話では、小説らしく驚きの偶然が
最後にもう一つ示される。
実はこの女子は、翔子さんと同じ名前
(ただし発音されただけなので
同じ漢字かどうかまではわからない)
だったのである。

でも個人的な本心を言えば、
相手の名前なんてどうでもいい。
バックグラウンドだって知らなくて構わない。
職業も性別も年齢もこの場合、
あまり意味がない。ただ、仲間でも身内でも
家族でもない「他人」がたまたま自分のそばを
通り過ぎてくれた、その時の自分の状況とは
全然関係のない言葉をかけて
目先を変えてくれた、ちょっと笑ってくれた、
それだけで私の世界は救われるのです。
その場に「いてくれた」それだけで幸せ。

「他人」というのは言うなれば
「余白」であり「隙間」なのだと思う。
それがたくさんあればあるほど、
この世界はもっともっと息がしやすく
住みやすい場所になるように私は思う。
友達や親や兄弟、はたまた恋人や
職場の上司、同僚のような近しい、
濃い関係だけでは答えが出ないこともある。

そこを余白や隙間である他人が
そっと手を差し伸べてくれる幸運は確かに存在する。
深入りはしない、でも軽やかなお節介(言葉)を
くれる人たちにたくさん出会えたことで
私は生かされてきた。
そんな他人のちょっとしたことに救われた人は、
翔子さんのように、それをまた別の他人に
手渡していこうと思えるのではないだろうか。

役に立つ・楽しい・なかよしなどなど、
ほとんどのことに意味づけをして【大事なことBOX】に
入れて私たちは生きている。

でも一方で、そうではないもの、
名前をつけられないこと、
名前もバックグラウンドもよく知らない人などは
「意味づけができない」=「不要なもの」と
簡単にぽいってしてしまっている。
でも意味がある、はずのことで行きづまった時
自分を助けてくれるのは、
意味のないように見える何かなのだと思う。

"本"ていうものも、
言ってみたら他人と同じだよなぁ。
強制もしないし、感じ方を聞いてきたり
なんてこともしなくて……。
向こうから差し出しはするけれど、
こっちの事には深入りしてこない。

なーんてことがちらっと頭をよぎったけど、
かっこよすぎるまとめ方に
なってしまいそうで恥ずかしいから、
この辺にしておく。

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