[神宮の杜芸術祝祭](2020-21)名和晃平,松山智一,三沢厚彦,船井美佐
先日、こちらの記事で、名和晃平作品について、神宮の杜に設置された白い鹿の像について「撮影した写真が残っていないのが残念でならない」と書いた。
その写真が出てきた。
古いカメラで撮影したものだが、アップしておこうと思う。
天空海闊 -初開催の野外彫刻展
ウェブサイトには、当時の開催趣旨が残っている。
名和晃平 White Deer(Meiji Jingu)
わたしの中で、名和晃平作品といえば、杜の中で出逢ったこの白い鹿だ。ご覧のように少し高い位置に設置されており、角度によって佇まいが異なって見える。それほど写真に興味のある時期ではなかったのだけど、いろいろな角度から、懸命に撮ったことを覚えている。
このアングルがとても好きだ。
人工林とはいえ、明治神宮の杜は深く、立ち入りできない場所も多い広大な森だ。そのなかに、本当に白い鹿がいても不思議ではない。
角は写実的で強く立派そうだが、それに反して身体は、いかにも軽量そうに感じられる。その理由は、作品表面のゆるやかな波型だろう。このまま変形しそうな、あるいは舞い上がりそうな、やはり何かの化身なのではないかと想像をかきたてられる。
松山智一 Wheels of Fortune
作品への、緑の映り込みがとても印象的だったのが本作だ。正面から観ると、このように鹿の角?のように見えるのだが、
少し角度を変えて観れば、
クルマのホイール?につながっているようだ。タイトルがヒントとなるということだろう。
鹿の角、だけであれば、美しさに見惚れているところだが、ホイールという似つかわしくないものと合体していることで、そこに批評性が入り込んでくる。ただうっとりとはできない、緊張感がある。
しかしホイールはクルマを機能させるものであるし、つなぐものでもある。そしてタイトルも、皮肉でなく素直にポジティブなものである、とわたしは感じた。
三沢厚彦 Animal2012-01B
思わず「わっ」となりそうな、存在感。
驚くのは、作品と設置場所の、違和感のなさだ。もともとこの場所に在って、なぜ在るのかはわからないけれど、みんながなんとなく納得している、などと感じてしまうような。そんなふしぎな作品。
それは、本物の動物と間違えてびっくりする、というたぐいのものでなく、作品と認識されながら、ということだ。作品としての美しさはもちろんなのだけど、この「馴染んでいる感」は何なのだろう、ということが気になった。
そして近寄ったり離れたり、木を間に入れたりしながら、さまざまな角度から撮影したことを記憶している。
船井美佐 Paradise/Boundary-SHINME
馴染む、ということであれば、あえて自然に馴染ませ、近くでなく遠くから鑑賞することを求めているように思えた作品がこちらだ。
参道の横の小高い森の中に設置され、近くまで行くことがなんとなく憚られる。あえて、若い木の奥に設置してある。
そして引いて鑑賞してみることで、作品が自然と一体となり、くりぬいてあるだけの馬のシルエットが、木の葉が揺れることで、活き活きと生命を吹き込まれる。
「残しておく」こと
2020年3月~2021年3月までの開催。コロナ禍もあって、記憶のなかの当時の時間の進み方は、遅くも速くもあり、なんだか歪だ。
写真を辿ることで、この撮影日にどんな道順で出かけたのかはわかる。そして人々は、全員マスクをして、オーバーツーリズム的な現在からみれば、驚くほど人が少ない。
このようにして改めて振り返ると、やっぱりなにか写っているものだなと感じる。そのときの空気感。作品と時間を共にしたときに、自分に込み上げてきたもの。
まさかここまでアートに嵌ると思わなかったし、noteを通じてblogを始めたのは2022年のことだ。まさかこんなふうに記事化しているなんて、当時の自分は思いもしなかった。
撮っておいてよかったし、残しておいてよかった。