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奈義町現代美術館 -森の芸術祭@岡山(-11/24)02

 友人の車で「森の芸術祭 晴れの国・岡山」(-11/24)を訪ねた、短い旅の記録、続き。



勝山町並み保存地区を経て…

 この日は、真庭市勝山の町並み保存地区をお散歩して、

出雲街道の宿場町として栄え、白壁の土蔵、格子窓の商家、古い町並みが残っている。各家々には個性豊かな「のれん」が掛かり、町並みを美しく彩る。

同上


奈義/奈義町現代美術館周辺エリア

 奈義町へ。

 磯崎新設計の特徴的なこの建物。来たかった。

国トップクラスの合計特殊出生率を誇る
「奇跡の町」にある、作品と建物が半永久的に一体化した
世界で初めての体感型美術館を有するエリア

奈義町は、中国山地の秀峰「那岐山」の南麓に位置し、季節ごとに自然と調和した雄大な姿を眺めることができます。また、移住や子育てへの支援を充実させることにより、2019年の合計特殊出生率が2.95と全国トップクラスであり、少子化対策の「奇跡の町」と称されています。世界的な建築家である磯崎新氏が設計した「奈義町現代美術館」は、作品と建物が半永久的に一体化した公共建築として世界で初めての体感型美術館です。

また、江戸時代から受け継がれてきた伝統芸能「横仙歌舞伎」は、年4回の定期公演を中心に地元に大切に守られています。

「奇跡の町」は、コミュニティ全体のユニークな意識の共有が背景にあります。それを取り込みながら、共有ヴィジョンの象徴となっている美術館や伝統芸能に新たな光を当てていきます。

同上


今回もクスっと笑える、レアンドロ・エルリッヒ作品

 まず、屋内ゲートボール場で展開される、レアンドロ・エルリッヒのインスタレーションから。

 会場は暗く、森の香りがする。

 目の前には、天井から吊り下げられた針葉樹たちと、下には水をたたえた……。

 いやいや、水ではなく、鏡面。

 写真を撮る自分を、映しこんでみる。

 レアンドロ・エルリッヒ、金沢21世紀美術館の「スイミングプール」の作家。水をたたえたプール…は実は……という、おしゃれで茶目っ気のある作品が人気だ。

 かつての森美術館の大規模展覧会でも、思いっきり楽しませていただいた。(サムネの作品写真、↓最高だ)

レアンドロ・エルリッヒ

1973年、アルゼンチン生まれ。現在はパリ、ブエノスアイレス、モンテビデオの3都市を拠点としている。

エルリッヒの作品は過去20年間にわたって世界各国で展示されてきた。また、その作品はブエノスアイレス近代美術館(ブエノスアイレス)、ヒューストン美術館(ヒューストン)、テート・モダン(ロンドン)、ポンピドゥー・センター(パリ)、金沢21世紀美術館(金沢)、ローマ現代美術館(MACRO、ローマ)、エルサレム美術館(エルサレム)など、権威ある美術館や著名な個人コレクターのコレクションに収蔵されている。

エルリッヒのパブリックアート作品は高い注目を集めている。ブエノスアイレス・ラテンアメリカ美術館(MALBA)の《シンボルの民主化(オベリスク)》や、パリで開催された国連気候変動枠組条約締約国会議(COP21)に合わせて制作された《溶ける家》、「ニュイブランシュ」(パリ)の《建物》、ブエノスアイレスで開催された夏季ユースオリンピックのための《ボール・ゲーム》、韓国国立現代美術館ソウル館(MMCA)で展示された《反射する港》、越後妻有アートトリエンナーレ(新潟)で展示された《パランプセスト》などのプロジェクトが知られている。

これまで、中央美術学院美術館(CAFAM、北京)、ブエノスアイレス・ラテンアメリカ美術館(MALBA、ブエノスアイレス)、ブラジル銀行文化センター(ブラジル国内複数都市)、ペレス美術館マイアミ(PAMM、マイアミ)、ポンピドゥー・センター・メス(メス)などで開催された大規模な展覧会に参加し、来場者数の記録を何度も塗り替えてきた。

コンセプチュアル・アーティストであるエルリッヒの作品は、視覚的枠組みを通じて、私たちの現実認識の土台を揺さぶり、その基礎となるものに疑義を呈する能力について探求する試みである。私たちの身の回りにあるありふれた建築は、エルリッヒの作品に繰り返し用いられるテーマであり、その作品は私たちが信じるものと私たちが見ているものとの間に対話を創出することを狙いとしている。エルリッヒは自らの作品を通じて、美術館やギャラリーの空間と日常的な体験との間の距離を縮めようとしている。

同上

 さかさまの森。吊り橋。

 入ってきた鑑賞者からは、「怖っ!」の声があちこちから聞こえ、「種明かし」に気づいた人々は、「な~んだ」と笑い、写真を撮りまくる。

 とても、楽しげだ。

 コンセプチュアルな著名アーティストに対してすごく失礼な書き方だが、レアンドロ・エルリッヒの作品は、すごく大掛かりな悪戯を考えた子供が、まんまと騙された大人たちをみて「どう?驚いた?面白かった?」と問いかけるような感じを受ける。

 瞬間芸?的な作風が大好きだ。これからも追いかけたいと思う。


グラスの中に広がる雲 AKI INOMATA

 いよいよ、奈義町現代美術館の中へ。

 はじめに出会うのは、こんな作品。

 グラスの中の雲。

AKI INOMATAの《昨日の空を思い出す(Thinking of Yesterday’s Sky)》はコロナ禍の只中で構想され、長い時間をかけた試行錯誤の末に実現されたアート・プロジェクトである。

地球環境の著しい変容が顕在化された形で現れたコロナ禍において、INOMATAが「昨日と同じ今日は来ない」と感じたことから本プロジェクトは始まったという。コロナ禍がもたらした隔離生活の中で自室の窓から眺めた空にINOMATAが発見したのは、似ているように見えても一度として全く同じ様相を示すことのない日常の姿であった。

他種との協働が生み出すアートで知られるINOMATAの新作として、《昨日の空を思い出す》は全く新しい発想から誕生した作品であるように思われるかもしれない。本作が彼女の新機軸となることは間違いないが、しかし同時にこれまでの関心とも地続きであることも指摘したい。

グラスに注がれた水の中に出現するのは、昨日の空に浮かんでいた雲の形である。INOMATAが作り出す繊細な「雲」は徐々に液体と混ざり合うことで時間の経過と共に消えてしまうが、鑑賞者は実際にその水を飲むこともできる。

作品(の一部)を鑑賞者が体内に取り入れることができるという点は、例えばフェリックス・ゴンザレス=トレスの《無題(偽薬)》(1991)などを想起させる。エイズで他界したパートナーと自身の体重を合計した重量のキャンディーから成るこのインスタレーションは、そのキャンディーを鑑賞者が体内に取り入れることで芸術を通して集合的に共有された哀悼を構成する。

INOMATAの《昨日の空を思い出す》もまた、コロナ禍が浮き彫りにした過ぎ去りゆく日常のエフェメラルさや日々のかけがえのなさを共有する装置として機能している。(後略)

同上


宮脇愛子 「うつろひ」

 AKI INOMATA作品から、ガラスを隔てて、

 常設の、立体作品。細いワイヤーたちの、美しき舞。

大地の部屋 ≪うつろひ-a moment of movement≫
宮脇愛子

「在る」と「無い」を渡る。〈これ〉、「心」とはそうしたものではないだろうか。路地を影法師がよぎり、薫風が頬をなで、空の高みを鱗雲(うろこぐも)が渡って行く。〈あなた〉は誰か。何の告知(しらせ)なのか〈あれ〉、「気」というのだろうか、何と言って名付け難い〈気配〉、それが「在る」ことのいとおしさをいつも私たちに教えている。

≪うつろひ≫たちのたたずまい。しなやかでかつ剛性に富むステンレスのワイヤーの弧の連なり。ステージを想わせる〈中庭〉のような方形の水の上。その後方の梁壁で枠取られた〈後景〉の水の上。そして長い廊下のような部屋のなかへ。

同上


坂本龍一+高谷史郎

 その、うしろのスクリーンに、

 坂本龍一+高谷史郎の、静かなサウンドインスタレーション。

 思い出されるのは、坂本龍一 × 高谷史郎@京都新聞ビル地下1階のインスタレーションだ。元・新聞社の工場跡の空間と作品内容が、見事に調和していて、なかなか去りがたかった。

 作家たちの魂が響き合う、美しいコラボレーション。


「月の部屋」と「太陽の部屋」

 ずっと気になっていた、常設の2作品も、並びながら鑑賞した。

 「月の部屋」。

月の部屋≪HISASHI-補遺するもの≫
岡崎和郎

安らぎの場所。ここは休らう所である。ためらい、足をとめ、休息する。穏やかな気持を取り戻す。「休」という漢字のかたちからみてわかるように「人が木により憩う」ごとく。庇の下で雨宿りをしたり、影のなかで強い日差しを避けて息づく生き物たちのように。護られてある休息。〈もの〉たちに促されて、限りある生命でしかない私たち個々の〈意識〉が思いを馳せる。降り積もる数万年の過去、茫洋と開かれた未来、永遠の現在。時の宿り。

三日月のかたちの大きな部屋。その端から入ると、白い大きな平面の壁に取り付けられた3体の黄金色の≪HISASHI≫たちがいる。HISASHI <この有機的な形態は、雲のようにも見えるが、作者の行為をとおして「時」が凝固したオブジェたちである。ブロンズに移されて、それらは時が経つにつれてもっと渋く色付いてゆくことだろう。金色の光の反映を投げ、影を落す。いや≪HISASHI≫そのものが〈影〉なのだと作者は言う。またこれらの〈横構造〉はきわめて日本的な情緒を醸し出しているのかもしれない。それらに近付いたり遠ざかって眺めたりしながら、人それぞれが心地よい場所にやがて落ち着くことだろう。

そこには岡山産御影石の対となる2つの長い石のベンチが用意されている。壁の曲面にあわせてゆったりと曲がっているこのベンチは、ひとつの重さが2トンほどあり、一本が無垢の石材からとられていて、よく見ると淡い桃色と灰色の二色の部分に別れている。これは同じような二色の模様の二つの石塊から各々が切り出されて、うまく左右対称のベンチになって、曲面の壁に沿ってほぼ中央に置かれている。

人はそこに旅人のように休息するだろう。ベンチに腰をおろしたり、三和土(たたき)の床に寝そべったり。心と身体の休息。ここは何処だろうか。今は何時なのだろう。私は何をしに来たのだろう。

そこで人は大空を行く雲たちを見るかもしれない。父、母、子の雲の家族を見るかもしれない。またブロンズに凝固した生き物を想わせる≪HISASHI≫と、幾何学的だが柔らかなカーブで空間に嵌り込んだ石の≪ベンチ≫に託された、〈もの〉たちの密やかな語らいに耳を澄ますかもしれない。〈もの〉たちのしぐさは昇華されてはいるが、かなりエロティックな感じもする。それはかたちだけではなく質感や色、つまり何より「影の色香」のようである。

あるいは飛天たちの奏でる音楽を耳にするかもしれない、奈良朝のいにしえのように。ミケランジェロが、フィレンツェの洗礼堂に取り付けられたギベルティの扉について言ったように、「天国の門」と一言口にするかもしれない。あるいは≪松林図≫。または書の「一」の文字。備前の名刀、刀の一振り。瀬戸の海。または京都の禅寺の庭園の枯山水…。影に息づく生命たちとともに私たちはいる。

中秋の名月の夜10時、月光はちょうど大平面の白い壁を滑って影を落とすという。光の反射と影…。昼間は両側から差し込む光に満ちる部屋。それは修道僧が日課に励む修道院の中庭。須彌山のある禅の庭。つまり世界を飲み込みかつ護られてある〈庭〉。

「人類は過去も現在も、本当の休息の場が与えられていなかった」と作者の岡崎和郎は言う。建築空間と〈もの〉たちにもてなされる客人として、この安らぎの場に私たちはいる。しかしここまでに何と苦い思いをしてきたのか。そしてこの部屋から出ていってもまた…。いったい私たちは何をしているのだ。何を失い、何を忘れたというのだ。これは〈しばし〉の休息にすぎないのか。それともここに全てがあるのか。

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 「HISASHI」。

HISASHI(ひさし)
HISASHI。テーブルの端に垂らされた石膏はへラで延ばし折り返されて、20センチほどの〈もの〉になる。丸いとろっとした石膏はほぼ10分で固まる。その間に全てが決まる。これが原型である。謂わば偶然の彫刻である。

岡崎はいったい幾つこの手のものを制作したのだろう。この10年、よりクリアーな形象になってきている。これは壁に水平に取り付けられる。いや巖谷國士の言うように「どんな壁にもとりつくことができる」といったほうが正しいかもしれない。それらから選び、今回のようにスケール・アップして大型のブロンズに鋳込まれ、ほぼ眼の高さで壁に取り付けられて、作品≪HISASHI≫になった。

毎日毎日の手の動きが偶然の彫刻を修練する。接触と運動。手の記憶。眼ではなく、手が知っている。〈もの〉の凝固の過程。延びと垂れ。介在する重カと行為。そこに生命が出てくる。「時」が生命のかたちになって現出する。反復する手技が〈意味〉を生み出す。

<『奈義町現代美術館』常設カタログ「3つの会話 高橋幸次(東京国立近代美術館研究員)」より抜粋>

同上

 一方の「太陽」のほうは、20分待ち。

 この建物(物体?)の「中」を観る。

 螺旋階段を上がった、その場所は。

 足元がおぼつかなくて、写真の多くを失敗した。

展示室「太陽」
遍在の場・奈義の龍安寺・建築する身体

今から一億年のイベントに向かってここに進み入りましょう。
「始まり」「過去」「未来」「私が」「私に」そして「あなた」はここではすべて意味がありません。それらは一億年という過程にとっては余分なものです。

永遠とは化石じみた愚かな夢あるいは解釈です。不死とは無論まったく別物です。どのようにして死から逃れるかを知るために、《遍在の場・奈義の龍安寺・建築する身体》へと入りましょう。

不均衡な均衡状態の中で肉体は磁気を帯びたように動き、人は肉体を離れてアイデンティティを得ます。シンメトリーがアイデンティティに取って替わるでしょう。シリンダーの中ではそれは可能であり、事実、そうなのです。
シリンダー内には、かつて肉体が動作を制御していたようなものは何もありません。

あなたはシリンダーの中に入っていく、しかし、もしあなたが動作をつかさどる肉体として入っていったのなら、途端に無に帰するでしょう。一度均衡状態が崩れると、おそらく同じようにシリンダーによってしか、それを回復することはできないのです。

シリンダー内には一度にたった一人 -もし二人が本当に一つに成り得るならたぶん二人- しか入れません。シリンダーは人の領域を拡張するのです。

シリンダー内では肉体が、かつてないほど完璧に環境の中の存在として人間を認知させます。肉体はシリンダーあるいはシリンダーのシンメトリーに対して自己を失います。シリンダー内のすべての物体、あらゆる面、さまざまなズレが、かわるがわる、肉体によって自己を導きます。

人間がつくりだした世界と完全に適応する自分を見つけだすとは奇妙なことですが、さらに奇妙なのは、来館者がこのシリンダーの中に入ると肉体があやつり人形のようになってしまうことです。例えば、シリンダーの壁に固定された岩は、訪問者の内部に表われた目に見えぬ岩のイメージよりもさらに身近に感じられるのです。

前室を通って生理的にも精神的にもほどよく疲れた後、訪問者は形も時間も自分自身へとうねり返ってくるカプセルの中へ、階段を登って入り込みます。そこには大きな今のほか何もありません。

大きな今において肉体をつかさどるのは、シリンダー内のあらゆるものと、初めてシリンダーへと導いてきた肉体を構成するすべての要素とのアマルガムであり、人はすべてを新鮮に感じる永久のバージンとなるのです。永久のバージンにとって先立つ龍安寺は存在しません。このシリンダーの庭がオリジナルなのです。シリンダー内のものはすべて、ごくありふれた、この上もなく身近なものなのに、シリンダー内で動くと誰もこのことに気づきません。ひとたびシリンダー内に入ってしまうと、誰もが、何もかも新鮮でオリジナルな永久のバージンになるのです。

シリンダー内には新たなものなど何もないのに、どうして大きな今や永久のバージンが浮かび上がってくるのでしよう? 位置がすべてなのです。あらゆる知的なイメージ操作と建築的な場が疑問の余地なく正確に配置されることで、「心」はついに心と出会い、包み込んで共振し、どのようにして死から逃れるかを教えます。私たちは長い間、シンメトリ一が、そしてシンメトリ一だけがこの状態をもたらすに違いないという強烈な直感的洞察を養いつつそれと共生してきましたが、今、大変うれしいことに、本当にそうだということに私たちは気づくのです。

距離感を喪失させるために補色が天井と床に用いられていますが、「大きな今」は補色的な色使いに、それぞれが自己を必ず発見するというより大きな役割を与えるのです。

荒川 修作 + マドリン・ギンズ
(訳:GA JAPAN編集部) 愛子

同上

 もっと空いているときに、ゆっくり来たいな、と後ろ髪をひかれつつ。


森山未來 創作歌舞伎と舞の美

 最後は、森山未來による創作歌舞伎ライブを撮影した動画を鑑賞。

 この通りにどこか見覚えがあり、

 まさにこの美術館前であることに気が付く。

 創作歌舞伎は、まるで神楽のような舞台にはじまり、そのあと、舞踊の要素を取り入れたかのような激しいダンスに変わった。

 そのあと、さんぶたろう祭りでの、地元の人とともに踊る森山未來の動画も。

【さんぶたろう祭りについて】
日常の「ケ」と非日常の「ハレ」。

大地から食物を収穫し、感謝と祈りをその大地に還す。人間同士のつながりを再確認し、かつ解き放たれ、自然との接続と循環を祝祭する。そんな「ハレ」の時と場を分かち合う「祭り」は、ひとつの集落が持つコミュニティそのものを現していると言えます。

那岐山を含む那岐連峰(横仙地方)に抱かれた奈義町で、「なぎ」の地に残る民話「さんぶたろう」をベースに、奈義町で活動する生活者であり芸能者の方々と共に、その土地に生きる人々のコミュニティと土着の芸能・文化の関係性を再考する「さんぶたろう祭り」を開催します。食べて飲んで、歌って踊ってください。

森山未來

同上

 プロダンサーのキレのある踊りは、かくも美しいのかと新しい発見があった。



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