![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/159941673/rectangle_large_type_2_418db05a651efce4186cf68dc96534d0.png?width=1200)
人に怯えていた私。人に救われている私。
このキーワードを見て、きっと想像した未来を手にいれている人の方が少ないのではないかと感じた。
そんな私も勿論想像していなかった未来を生きている。少しだけ、16歳の私を登場させてお話をする。
ネガティブな話かもしれませんが、今私はすごく幸せです。笑い話だと思って気軽に読んでいただけたら嬉しいです😊
----------
人に怯えていた私。
高校1年の文化祭。私は孤独でいる姿を見られるのが怖くて、トイレの個室に篭っていた。
県内1番の進学校に入学できた時、それは嬉しかった。受験勉強中に亡くなった祖父が私にどうしても入学して欲しいと言うその学校に、祖父の母校に、絶対に入りたいと思って意地で合格を勝ち取った。中学校までは優等生と呼ばれ、人に手を差し伸べることが好きで、人に沢山頼られてきて、そんなことが嬉しくて、気の合う友達も沢山いて、自分のことが誇らしかった。高校生活は充実するに違いないと胸を膨らませていた。
入学後の実力テスト、360人中、350番くらいの成績。衝撃だった。信じたくなかった。
私は勉強が得意なわけではなかった。
単語を覚えることだって、何かをひらめくことだって、立式して解を導く力だって秀でているわけではない。そして、いくら努力しても学業においては上の上がいることを悟ってしまった。トップ校特有の感覚かもしれないが、同級生に圧倒される日がすぐに訪れた。
その日から、頑張ることをやめた。
燃え尽き症候群だったと思う。
追い討ちをかけるように、入部した運動部はトラウマだった。
ハードな練習。中学校で経験していない動きについていけず、同級生にも敵わない。
何よりも顧問の先生の集中的なしごきは耐え難かった。
部活終わりに1時間説教。休日は朝の練習から抜けさせられて1時間説教されて、終わったら2時間説教。最初はちょっとした技術的な指摘だったが、それ以降はもう精神的な話ばかり。頑張るべき場面で妥協する自分を見て、許せない先生が私にこれだけの時間を使ってくれたのだろう。思えば、先生側も相当な負担だったはずなのに、引退までの間、ほとんどずっと怒られていた。他の先生からボソッとターゲットにされたねと言われた。これは愛だったのかな。わからない。理不尽だとか、パワハラだとか、立ち向かう力はなかった。私は洗脳されたように、私に価値がないからこんなに言われるんだと、自分を悪として自己完結していた。立ち向かおうと考えることすら怖かった。
私はもう何を聞いていたかもわからなくなっていた。ぼーっとして、呼び出されて、説教を受けて、ぼーっとしながら家に帰る。自己防衛的に忘れているが、ちゃんと体罰は受けた。しかも、同級生がいる前で。他校の生徒がいる場でも。進学校の生徒なのに彼は可哀想だねという視線で見られた。同級生はそんな私を見かねて優しく声をかけてくれたが、次第に呆れた目で見放す同期もいた。文武両道を掲げて輝かしい進路を遂げた先輩たちを抱える私の部活では、ほとんどの科目で赤点をとるような人物は私しかいなかった。スポーツのパフォーマンスも出せないのにテストの点数は最下位。こんな私には価値はないと言わんばかりの説教の時間。なんでこんな学校に入学してしまったんだろうと自分を呪った。
部活の憂鬱は、クラスでの生活にも影響した。私には価値がないと植え付けられた私は、同級生と会話するのも躊躇してしまった。中学校みたいに周りから頼ってくれる、寄ってくれる環境なんてそこにはなかった。私には価値がないって顧問が脳内で囁いていた。
秋が来て、文化祭。クラスでやったことは覚えているが、私はクラス内の役目を当たり障りなくこなして、学内を回った。一緒に回る友人はいなかった。1人で歩いている時、同じ部活の同級生が他の部活の同級生と一緒に歩いていて、すれ違う瞬間が怖かった。顧問の先生に見つけられたら、お前は友達もいないのかと言われるのではないかと怯えた。帰りたくても帰る勇気がなかった。トイレで時間を過ごせば今日は乗り切れる。トイレに行こうと決めた。そこから何時間もトイレで過ごした。自分が想像した未来じゃない今を悟って、静かに涙を流していた。
家族への依存
家族はこの時、大切な拠り所だった。
高校受験を成功した私に、両親は誇らしげに期待してくれた。それは何かの圧ではなく、あなたならどんなことも大丈夫だと信じてくれる眼差しだった。自分は現状のギャップを申し訳ないと感じた。体罰を受けていること、学業が芳しくないこと、学校生活が辛いこと、すべて隠した。でも、そこを深く探ってこなかった両親に感謝している。家族の時間は変わらずに楽しめた。反抗みたいなこともなかったと思う。
2人の妹は、しっかりしたお兄ちゃんだと私を慕ってくれた。私は家族がいればいいと思った。
そして、苦しい生活は、意地でも自分1人で乗り越えると心に決めた。家族に弱みを見せたら、色んなものが崩壊しそうで怖かった。都合が悪いことも上手く隠して、でもそれを許されながら生きてきた。
あの頃の仲間
高校へは電車通学。帰りの電車、最寄駅につけば昔の友達であるあいつがいた。あの子がいた。
中学校の友達とは常に連絡を取っていた。
多くが他の高校に進学しながらも、彼らなりに奮闘していた。アルバイトの話、恋愛の話、私が経験していない話題も楽しく話せた。駅の駐輪場にいたあいつとはバカ話ができた。地元ってなんて楽なんだろうって。私は一瞬でも現実を忘れることができた。みんなが少しずつ新しいコミュニティを見つけて大人になっていることを感じながらも、それを引き留めるように、近所の友達に遊びの誘いをした。置いていかないでほしかった。それに付き合ってくれる友達がいたことが本当に救いだった。
俺にだって価値はある
そう思わせてくれたのは、妹の小学校の担任の先生だった。
妹が小学校の担任をしていた先生が父親とPTAのつながりで我が家に来て飲みに来た日があった。私が高校1年生の時だ。
彼は当時26歳の若手教員で、エネルギッシュで端正な顔立ちで、子どもたちからも人気だった。でもちょっとヤンチャそうな雰囲気が私にとっても刺激的だった。
ヤンチャなのは飲みの場ですぐにわかった(まず元でも担任だった先生が私的な飲みでうちに遊びに来た時点で。笑)。私のコップにウイスキーをそのまま注いできた時には大人に警戒していた16歳の私も大笑いした(勿論断った。)。
彼が酔っ払いながら私に1冊の本を渡してきた。
金城一紀のレヴォリューションNo.3
落ちこぼれ高校に通う男子校の生徒が世界を変えるために奮闘する物語。
そして、「先生はこれがバイブルなんだ。りゅうさんにも読んで欲しいな。」と一言。
私は暴力や差別、過激な表現も含まれるこの本を1回読んだ時に、こんな話を教員が勧めてくるなんてなんてウケるわと笑った。そして、この話に引き込まれた。全てのシリーズを購入して読んだ。
高校の朝、昼休み、誰かと話すのをやめて、何かに迎合するのをやめて、ひたすら本を読んだ。
綺麗に生きなくてもいい。何かができないことは価値がないことじゃないんだ。俺には俺の生き方があるんじゃないか。そんなことを確信して、この学校のカリキュラムに従うことをやめようと決めた。いい大学に行くんじゃなくて、俺がやりたいことを見つけよう。俺にも価値がある。目に光が戻ったと思う。そして今の苦しみを1人で背負っていた自分を後押しした。でも俺は弱い。乗り越えるためにも、たくさんの依存先を持っておこうとも思った。
人に救われている私
高校1年生の苦しさは鮮明だった。このトラウマを乗り越えた私は、多少の苦難もなんとか乗り越え、時に転びながらも今まで生きることができた。
家族は変わらず私を信じてくれている。今は一緒に暮らしていないが、私も家族を想っている。
そして守るべき家族が増えた。いつしか自分よりも自分の家族を想って生きるようになってきた。両親がそうだったように。
あの頃の友人は今も会いにくる。子供が生まれたお祝いと言って水戸からわざわざプレゼントを送りつけてきた親友がいる。明日も会いにくる別の友達がいる。地元の友達って、生まれた場所が一緒なだけで、ライフスタイルも価値観も違う。年齢とともに疎遠になることは間違いない。ただ私は、あの時に私が無言の救いを求めて、それに応じてくれた友達を、一緒に留まってくれた友達を、一生大切にしたいと誓っている。沢山はいないが、友人はかけがえのない仲間だ。同志だ。彼らの人生にも寄り添いたいと心に決めている。
高校の友人は1人だけ。部活の同期だった友人と付き合っている。他の同級生に会うのは、もう少し自分が成長してからかな。
あの時に金城一紀の小説を渡してきた先生はもう40歳近くだが、2人の子供を育てながら地元の有力な小学校で中間管理職に就いていると聞いている。私が結婚したと父経由で連絡した時に、「りゅうさん、おめでとう 今度は飲みましょうね」と言ってくれたみたいだ。私は、昔から丁寧な言葉で先生として接してくれる彼が大好きで、きっとまた会えると信じている。学校でお世話になっていないが、先生は私の恩師だ。
本来の恩師は当時の部活の顧問だが、この先生を恨んでいるわけではない。あの経験は糧になっている。でも、そんな言葉で終わらせたくない。私は精一杯幸せを掴んで、あの先生を見返してやりたいのだ。そして、先生から見えていた私はどんな姿だったのだろう。そこを知った時に、また先に進めると思ったのだ。
そして今、周りに恵まれて、たくさんの人に慕われて、幸せだ。人に救われているのだ。
国家資格キャリアコンサルタントを取得したのも、少しでも私を救ってくれた人生に恩返しがしたいという気持ちで動いた結果だ。誰かにとっての居場所になりたい。少しでも救いとなれる存在になりたい。16歳の私が、トイレではなく私の元に訪れて涙を流して相談にきてくれるような、そんな人になりたい。そんなことがおこがましい話だというのも資格を取ってからわかった。でも、私は歩みを止めずに進んでいくつもりだ。
私は適切な方法で思春期を、大切な時期を乗り越えることができなかった。けれども、失敗や苦しみの経験は、他者を救いたいというベクトルに向いている。こんな未来、16歳の私は想像していなかっただろう。そして、想像できない未来こそ、愉快な人生ではないだろうか。
----------
ここまでお読みいただきありがとうございました🍵
どこかで皆さんのお話も聞ける日を楽しみにしています。