【短編小説】研究者Yの日常
研究者Yは厭わない。自分の研究欲の為なら何でもする。
「ミカヅキモ♪アオミドロ♪アメーバ♪クンショウモ♪ミジンコ♪」
今朝も意味不明な歌を歌って、せっせと小動物の解剖をしていた。
研究者Yは生物学研究者である。自分と同じ生物の神秘に魅せられた人間である。
そのため、一日中研究室に篭っている。
本当に研究室から出てこず、食事はおろか水分もとらないので、ついこの前も干からびかけて、妻にこっぴどく叱られた。
研究者Yは惑わされない。どんなに学生時代仲が良かった悪友から久しぶりに飲まないかと誘われても、歯を噛み締め誘いを断ることができる。娯楽をしている暇などない、自分の研究の時間を奪われたくない、いや、奪ってはいけないという彼なりの使命感が働いている。
研究者Yは溺れない。
彼はまだ30代前半、本来ならば不倫の一つや二つやりたい盛りな年代だろうが、彼はそういったことには全く興味を示さない。
あろう事か妻にも溺れない。妻から妖艶な笑みで誘われても、頭を抱えて二時間悩んだ末断ってしまう。自分の興奮する心を研究をすること以外に向けたくないのだと言う。しかしあまりにも断り続けると妻が拗ねるため、昨晩は彼が折れた。
研究者Yは残酷である。
学生時代、自分の実験が失敗したせいで後輩が死んでしまった時、「あ、ご愁傷さまだ」と口にしただけというくらいには残酷である。なんならその後輩の遺体をこっそり拝借し、解剖して実験に使うという研究者としてはある意味鏡のようだが、人間としては極悪非道なこともしている。
だが彼の妻は、そんな所も含めて彼のことを深く、深く愛している。まさに犬も食わぬ夫婦である。
研究者Yの妻は、彼のことを本当に愛していた。
だが、彼に執着する心はない。
研究者Yは憎まれる。素晴らしい研究者なのだが、研究や実験に協力してくれる人々を大変危険に晒しがちなのだ。後輩の遺体を実験に使うような男だ、言わずもがなであるだろう。
ある日彼がいつものように研究室で研究をしていると、がちゃり、と部屋のドアが開いた。
妻は出かけているはずだ。おかしい、と思い後ろを向くと、首を傾け微笑んでいる男が立っていた。
その手にはナイフ。
研究者Yは瞬時に悟った。自分の人生の結末を。
「俺の事、覚えてるよな?」と男に問われ、彼は焦った。
全く男の事を覚えていなかったからだ。
どうすればいいか分からず黙っていると、男は洞穴のような目で彼を睨めつけた。
「まさか覚えていない?そんな訳ないよな。お前が大学2年の夏、お前が実験に失敗して、その時実験に協力していた俺の彼女のH山M子が下半身不随になったんだ。そのことをずっと気に病んでM子は昨日、自殺した。ここまで言ってもまだ覚えていないと言うか?」
研究者Yはやっと彼女と、今ここに立っている男の存在を思い出した。それと同時に、どうしようもない罪の意識が彼を襲った。
罪を自覚するには遅すぎたようだ。彼の病的な周りの見えなさが巻き起こす不幸が、ここへきてようやく形となって彼本人に降りかかった。
「このままじゃ、M子があまりにも可哀想だよな。お前のことを殺したら俺も死ぬから、死んでくれ」
ゆっくりと男がこちらに歩いてくる。
なんとか逃げられるかもしれない、とも考えたが、彼は結局動かなかった。
自分は制裁を受けるべきだ、と思ってしまったからだ。
男が、研究者Yの目の前に立った。
男の持つナイフが、重く、深く彼の腹に食いこんでいく。
「う、」
彼が小さく声を漏らすと、口からだらだらと血液が流れ出てきた。
腹からも鮮血が零れ、ぼたり、ぼたりと床に広がっていく。
彼は倒れた。朦朧とする意識の中で、男が自分の腹にナイフを刺すのが見えた。
研究者Yは自分の体から流れる血液を見て、妙に嬉しかった。自分の生きている証が、身を持って、この目でしっかり確認できている。それが嬉しかった。
職業病だろうか。今、自分の体内ではおびただしい量の細胞がどれほど目まぐるしく動いているのか、今際の際に己の体は何を感じ、心臓が止まる瞬間はどんな感覚に陥るのか、そればかりが気になった。
研究者Yは、最期まで研究者Yだった。
しばらくして彼の妻が帰ってきた。
研究室で血溜まりの中倒れている自分の夫と、見知らぬ男を見て、ああ、ついにこの時が来たのだな、と思った。
彼の罪の多さを彼女はよく知っていた。そこも含めて彼を愛していたから、この光景をすぐ受け入れることが出来た。
彼女は泣かず、取り乱さず、ただ、少しだけ寂しそうに彼を抱き寄せた。
彼は自分の心臓に手を当ててこと切れていた。
彼は最期まで研究者を貫き通したらしい。彼女は、そっと彼にくちづけた。
研究者Yは、裁かれた。
彼女は罪深い男の重みを胸に感じながら、優しく微笑む。
研究者Yの日常は、とても満ち足りていた。
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