短歌「読んで」みた 2021/07/11 No.8
道端の野バラをつみてわが部屋に生けて眺むるここちよきかな
金栗 四三 『走れ25万キロ マラソンの父 金栗四三伝 復刻版』(熊本日日新聞社 長谷川孝道 著 2013年)
金栗四三。一昨年のNHKの大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』で主役の一人となった、明治生まれの陸上選手、というぐらいはどなたもご存知だろう。あのドラマのすごいところは一面だけを取り上げず、なるべく描く時代のその人を余すこと無く伝えようとしたことである。
金栗は学生時代から短歌に親しんだ人だった。いや親しむと言うより、生活の中に短歌があるとした方がしっくり来る。まだ10代前半から日記の冒頭に短歌を書き付けたり、妻への手紙に歌を寄せたり、今回の歌の出典元である伝記に確認出来るだけでいくつもの短歌がある。この事実から無視できない個人を構成するものと思われたのだろう、ドラマ中にも短歌が引用されていた。
今回の歌は、日本人として始めて参加した第5回ストックホルムオリンピックに派遣され、現地での調整期間に詠まれたものである。
意味はそのまま、読める通りであると思う。だが金栗の置かれた環境を考えるとまた違った、意味合いを帯びてくる。
大変な派遣・遠征だった。渡航費は自費の上、シベリア鉄道に二週間乗りっぱなしでの現地入り。着慣れない洋服を着て、聞き慣れない言葉の中で好奇の目に晒されて。白夜の季節なので明るくて寝られず不眠にも悩まされたという。そんな日々の中、練習会場と宿との往復の途中で見つけた野ばらを手折って帰り、自室に生けて癒やされている姿。その健気さに涙が出る思いがする。
この歌は最初に作られた時は、
道端ののばらをとりて吾室に生けて眺むる心地よきかな
というものだった。これを後に表記を改めたものが冒頭に挙げたものである。その推敲の良し悪しは置いておくにしても、短歌の全体のバランスを感じ取って手を入れる人物である。そこを大切にするその姿に、歌を作る人としての金栗が浮き上がってくる。
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ドラマで見かけた一首から、好奇心の赴くまま熊本在住の地の利を生かして金栗の短歌の収集にのめり込んだ。新資料が見つかってそれとともに短歌が3首も出てきたり、楽しくエキサイティングな調べ物だった。
歌を収集し、論を編むにあたって金栗の自伝を読み込んだ。金栗は日本人初や世界新など輝かしい記録の裏に、オリンピックに関しては全くうまく行かなかったことに気づいた。一度目はレース中に倒れ行方不明となり、二度目となるはずのオリンピックは第一次世界大戦の戦禍で中止となり、選手として最も充実した時期での活躍の機会を失った。その後も記録は出しているがオリンピックでの成績は振るわず、何というめぐり合わせだろうと思ったものである。
この事実から今現在の状況について考えずにはいられない。声高に叫ばれるオリンピック開催反対の声。当然である。まだまだ安心できない状況なのだ。しかし、ここにかけてきた選手たちのことを考えると立ち止まってしまう。疫病だからどうしようもないが、人の人生がかかっていると思うと即座に反対とも言えなくて、どちらでもありどちらでもないという曖昧な立場で立ち尽くしている。