短歌「読んで」みた 2021/10/02 No.17
眠るまでをあづける闇のまなうらに無花果は生るむかしのいろに
近藤かすみ『花折断層』(2019年 現代短歌社)
寝床に入り、横になる。そこから眠りに落ちるまでのひと時のことである。この場合の「あづける」とは、ゆだねる、任せるとの意。寝室の暗さに目を閉じている、その目の奥に浮かぶ無花果、いちじく。それは遠い記憶の中の色をしている。
規則的で安らかな呼吸の中、ひきよせられるのは知らない光景でも新しいものでもなく、懐かしい記憶の中のワンシーンである。無花果、いちじく。どのような姿だろう。ほどほどの背丈で伸ばされた枝には葉脈も美しい緑の葉があり、その間に実る赤紫のいちじく。記憶の中の原風景的な、良いものなのではないだろうか。意識を送る前によぎる光景がそれならば、静かで良い眠りがそこにあると思う。
こんな読みをした要因に「むかしのいろに」と平仮名になされていることも大きい。視覚的効果が大きい。「あづける」と「まなうらに」も同様。
試しに全てを漢字に直してみる。
眠るまでをあづける闇のまなうらに無花果は生るむかしのいろに(元)
↓ ↓
眠るまでを預ける闇の眼裏に無花果は生る昔の色に(全部漢字)
非常に硬い印象になる。
この歌のイメージに合うように、漢字のイメージを壊さないように調節された結果、ふわっとした眠る前のひと時の様子や、浮かんでいる昔のことの空気感を伝えていると感じた。
この作者第2歌集である『花折断層』には以下のいちじくの歌もあった。
父母の疾うにをらねどふるさとはイチジク実る吉田本町
たらちねの母の居ぬ世を四十年生きて無花果甘きを食ぶ
初めに挙げた歌の光景は歌中の吉田本町にあったのだろう。そこにいた人はもういなくても家族に紐付いたものとして今も鮮明に心の中には有り、いちじくはその象徴・キーワードとなっている。
寿命があり、見送る順番はわかっていても気がついたら一人となっている。それは当たり前のことで私たちはそれも込みの、生という時間を過ごしている。
* *
過去は鮮やかだ。自分の幼時のこと。育った家のこと。忘れたように思っていても、何年経っても色褪せず、眼裏にある。
昨年、ついにひとりぼっちになった。十六年前に亡くなった祖父についで、祖母を失った。私が進学で家を出るまで暮らした家の家族。実母と母方の祖父母が私の家族だった。なかなかにいびつな家族で今で言う毒が満ち満ちていたけれど、私を作ったのは間違いなくあの場所だ。まっさきに実母が亡くなり、祖父が亡くなり、祖母。その家の最後の構成員となってしまった。私には家族がいるけれど、それとは別の拠りどころを失った心地を抱えて暮らしているのが今だ。
子供であった時分、私は自由だった。好きなだけ本を読んで遊んで、学校帰りは寄り道をしたり、午後の陽に輝く草原で遊んだり。すべてのものがみずみずしかった。悪いこともいいこともあったが、今のように全てが現実にリンクしていないというか、今より気楽だったからだろうか、思い出すと満たされた心地がする。
失った家族もきっと、見送った人たちに似たようなことを思っていたのではないかと思う。その前の人も、さらに前の人も。自分だけの光景を眼裏にもって生き、旅立っていく。何も考えず日々暮らしていると鈍感になってしまうが、私もこの摂理の中で、子どもたちや誰かの眼裏の光景となってやがて消えていく。だからこそ、今回挙げた歌の光景がまぶしく、共感を持って感じられるのではないかと重ねて気づいたところである。
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