短歌「読んで」みた 2021/08/07 No.11
身動きもならずつどひしよこはまのはとばの友は我等を送る
金栗四三 手記『㐧七回オリンピック遠征の記』(未出版)
オリンピック、TOKYO2020も8月7日である本日、あと一日を残すのみ。期間中にて今回もスポーツを詠んだものを探したものの、前回の最後に、「アスリート自身による短歌作品をご存知であれば教えて欲しい」と書いたものだが、結局見つからず。短歌「読んで」みたNo.8 でも取り上げたが、今回も金栗四三の短歌を取り上げることにした。
日本人初のオリンピアンである金栗四三は3回オリンピックに出ている。1回目は1912年第5回ストックホルム大会。2回目となるはずだったその次の第6回ベルリン大会は1914年に勃発した第一次世界大戦の戦禍により中止。2回目の出場はその次、1920年の第7回アントワープ大会となった。金栗は29歳、ストックホルム大会の一年後に驚異的な世界記録を出しているが、そこから6年が経ち、選手としてのピークは過ぎている印象がある。
この歌は自身2回目のアントワープ大会への派遣の際に詠まれたものである。この旅は横浜の大桟橋から貨客船にて、太平洋をハワイを経由しつつ横断、サンフランシスコに上陸しアメリカで1ヶ月の滞在の後、ニューヨークからさらにイギリス船でロンドンに渡り、アントワープに入ったという。全くアスリートファーストでは無いが、アメリカの現状の見学と在留邦人から寄付を受けるため組まれた行程であったらしい。
この歌は金栗が横浜の大桟橋から貨客船「これや丸」に乗り込み、いよいよ出航というシーンである。金栗は船上から集まる見送りの人々を見ている。ただ見ているのではない。たくさんの友人・知己が身動きもできない程の人混みをじっと耐えて自分たち選手団を見送ろうとしている、と捉えている。
自身1回目はいい意味でも悪い意味でも、周りのことがあまり見えなかったことと思う。しかしそれから8年が経った。途中棄権となった前回出場の後は強いバッシングも受けたし、その後の8年間で現在の箱根駅伝の元となる大会の開催や世界新記録などで称賛も受けた。社会人となり経験を重ねて、自分にかかる人々の期待や思いがどんなものであるのか、つぶさに感じ取れるようになったことだろう。
また、現在でも選手から「オリンピックの借りはオリンピックでしか返せない」と聞くが、前回の出場では脱水症状を起こし途中棄権となった金栗も同じような心持ちだったに違いない。今度こそと思う気持ち、人々の思い。現役アスリートの大会を控えた心持ち・感覚が、読むこちら側の私達にも伝わってくる。
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それにしても、今も昔もアスリートにとってプレッシャーは付き物であると感じた。プレッシャーは緊張感とも密接していて、プレッシャーも緊張感もなければないで張り合いが無いが、強く出ると本来の自分を縛るものとなってしまう。
アントワープ大会での金栗は自身のベストより大幅に遅いタイムで16位。直前にアメリカで見た選手に触発され走り込み、足を痛めていたという。そして前回派遣の時の苦しみを選手団に味あわせないために、食事・寝具の手配にまで奔走したという。横浜の大桟橋で乗船した時に感じた使命感やプレッシャーがどう働いたのかと考えずにはいられない。
後年出された唯一の伝記『走れ25万キロ』の中には短歌も少なくはない数が収録されているが、その中に今回掲出のこの歌はない。
この歌は偶然収集出来たものである。金栗の短歌について、出身地の博物館で金栗の資料担当の学芸員のMさんにお尋ねしようと何度か訪問するもお会い出来ず、行くたびに展示室を見ている内に、展示用に開かれたページにこの歌含め2首があることに気づいた。
この大会で振るわなかった金栗は載せたくないと判断したのかもしれないが、アスリートのその時そのままの気持ちを歌ったものとして取り上げることとした。
なお、歌としては手記に書かれたままの姿である。表記などは本人の手で調整した跡があったため、そのまま載せられるものと判断した。