短歌「読んで」みた 2021/07/18 No.9
魔女ならばまだまだ若い
白菜のスープをぐつぐつ煮こむ真夜中
林あまり 『ベッドサイド』(新潮文庫 2000年)
何かを煮込む時。大きな鍋で、煮込み時間が長ければ長いほど、いろいろと考える。そして連想。大鍋を煮込む光景で思い出されるのが童話のあの光景だ。深夜の森の崩れかけたおどろおどろしい小屋の中。かまどには湯気を上げる大鍋。その前には蓬髪の魔女がいて、得体のしれないものを入れては混ぜるしわしわの手と鋭い爪。なかなかステレオタイプの連想ではあるが、それであるゆえ、無理のない見立てであり、私たちは歌の世界にすんなりと入っていける。
初句から行替え手前までを言葉の選び方を手がかりにして読めば、そこに魔女でもなく、年の頃はわからないが女性の姿が浮かび上がってくる。彼女は思っている、「魔女ならばまだまだ若い」と。それをその後とつなければ、真夜中にぐつぐつと煮込んでいるが、自分はまだまだそういうことをする歳ではない、との意味になる。この短歌の中では描かれていないが、背景に自分の歳を若くはないと認識する・認識させられるような出来事があったのではないか。なかなか重い。
しかしそこに2つの繰り返し語「ぐつぐつ」と「まだまだ」があることに意味があって、繰り返されることによりややコミカルさが加わって、印象が軽くなる。おそらくそれぐらいの気持ちで、切実でもそれぐらいの落ち着きで事実を受け止めているのではないだろうか。
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若さほど、曖昧なものはない。
大学時代、一つ年上の先輩がため息をついていたので尋ねると、二十歳を過ぎてしまったことを嘆いていた。その数年後は25歳の山。結婚適齢期、過ぎたらこの世が終わるかのように嘆き慌て、ばたばたと結婚していく友人たちに驚き、ああここは慌てなければならないところなのかと思ったものである。その後も年齢由来の事態は出来する。本当に山ほど、つぎつぎと。
確かに歳は取る。取れば失うものもある。しかしそればかりではなく得るものもあることをたくさんの山を超えながら気づいてくる。それなのに直面するたびに惑うのは、初めてのことだからだろう。どの世代の女性も自分のことに引き寄せて共感とともに読める一首だと感じた。
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久しぶりに『ベッドサイド』を読んだ。初見当時は歌集全編にある性愛の歌に圧倒された。そんな歌は見たこと無かった。今再読したのは、別の詩型から作られた歌詞を調べていて、短歌が元になった『夜桜お七』に思い至ったため。頭から順に再読して、分かち書きの特殊さが以前読んだ時よりも迫ってくる事に気づいた。歌集に収録された全ての歌に句の切れ目ではなく、意味の区切りで改行があり、2行の分かち書きになっている。またさらなる区切りや間の表現として、区点読点、スペースの他にもカギカッコや記号が多く使われている。これらは表現の上で欠くことの出来ないものであるから、表記通りに記載した。
1986年から2000年までの作品であることに、あらためて驚きとともに新鮮な思いで歌を見つめたものである。そしてけして作者は性愛の歌が詠みたかったのではなく、自分の詠みたいものを忠実に読んでいたのだということに今更ながら気づいた次第で、今回はこの一首を引いた。