適応障害で休職した38歳の私と、ジョン・コルトレーン(1) 風に吹かれて
「(仕事を)休ませてください」
振り絞って、絞って、ようやく雑巾から出た一滴の雫のように、私は上司にそう告げていた。
喉にずっとつかえていて、あるいは、食道の真ん中、みぞおち辺りに溜まっていて、さらに言えば、胃の入口でとどまっている、重くて黒い塊のようなもの。
それをなんとか、口から吐いた。仕事を休む、ということは、私にとってそういうことだった。
とはいえ、一年間、心療内科に通い、毎日、抗不安薬、抗うつ薬を飲みながら、このまま仕事を続けていくのはもう限界だった。
何よりもミスが増える。タイピングもそうだし、ちょっと考えればわかる常識の類であっても判断がつかなかった。そして立て続けに起こった私個人に対するクレームが、もう傍から見ても「私は仕事を続けることができない」ということを告げていた。
私は「適応障害」による「うつ状態」と診断されていた。
遡ること数年前、妻の実家の近くに家を建て、家族で東京の端から、他県に引っ越してきた。
前の職場も通勤できなくはなかったが、時間がかかること、何よりも、もう満員電車に揺られながら通勤したくなかった。それで家を建てると決めると同時に、転職活動を始めた。
その結果、三十代半ばを超えた年齢としては、スキルアップもでき、定期的な昇給も望める転職先に奇跡的に受かることができた。
これで問題なく自宅のローンも払える。小さい子どもたちに教育を受けさせながら、不自由のない暮らしができる。月並みながら心機一転、頑張ろうと思って仕事に取り組んだ。
転職し半年が過ぎた頃、一通りのオリエンテーションも終わり、業務について上司がつきながら、独り立ちを目指していくこととなった。
だが、ここからが、しんどい時期の始まりだった。
どうしても上司のように仕事を行うことができない。他部署との連携、外部連絡、フォローがうまくできない。求められる専門的な知識は、それまで得たものよりもさらに幅広く、深いものであった。
毎朝上司に、当日の業務内容の計画について自身の考えを交えながら報告する。終業時間が近くなれば、計画の結果を報告し、その上で明日以降の計画を報告する。もちろん業務時間内にもいわゆる「報告・連絡・相談」を行った。
しかし、数ヶ月が経過しても、上司の求める基準に合うような仕事はできていなかった。
ある日、業務中に相談を行った際に「もう嫌になった」と告げられ、終業前の報告のため声をかけると上司から「もう大丈夫だから、明日から一人で頑張って」と言われた。
上司も出来の悪い中年の新人を指導し続けるのは辛かったのだろうと思う。申し訳ない気持ちがとても大きくなった。
併せて、自身の仕事に対する不安も同じくらい大きくなった。
上司は大丈夫だと言ったけれど、どう考えても大丈夫じゃない。大丈夫じゃない私が、一人で仕事を行うことは、やっぱりどう考えても大丈夫じゃない。
私は、私自身が努力した、とは言えない。職場では、結果の出ない努力は、努力ではなかった。
方法が間違っているのか、努力そのものが足りていないのか、それともその両方なのか。
両方な気がした。
報告する態度、聞く態度やタイミングなども良くなかったかもしれない。
眠れなくなった。仕事の案件が来るたびに、緊張と不安が大きくなった。
妻が見かねて、私を心療内科に受診するよう勧めた。
仕事は、なんとかできている状態ではあり、また私の仕事の継続の希望もあり、医師は抗不安薬、抗うつ薬の処方をしてくれた。それでだいぶ楽にはなったが、業務が変わるわけではない。少しずつ感じる、身体的・精神的な負担は増えていった。
心療内科に通っていることは、職場の誰にも相談できなかった。本来ならすぐにでもそうすべきなんだろうけど、今振り返ると、それは「自分の弱さ」なんだと思い込んでいたんだなあ。
半年ほど経って、件の上司に業務のことで相談する機会があり、その流れで「いま少し精神的に辛くて、心療内科に通って薬を出してもらっているんです」と話をしたが、上司は「あの時行った指導について、反省はしているが後悔はしていない」と言い放った。
私は自分が辛いことを上司のせいにしたいのではなかった。私自身の辛さをわかってほしかった。だが、返ってきたのはその言葉だった。
仕事は続いた。しんどさは変わることはなかった。薬を飲めば少し落ち着くが、またすぐに不安に襲われる。また薬を飲む。家に帰ると精神的な疲労感で倒れるように眠るが、夜中に目が覚めて朝を迎える。そんな日々がまた半年続いた。
そして、その日の朝、
ベッドから起き上がれなくなった。
体が動かない。冷汗をかいている。足先も冷たい。四肢の隅々まで自分が何か重たい金属のようになった、今まで体験したことのない感覚だった。
それでも習慣というものは恐い。「この時間までに起きなければならない」という時間になると、不思議と体が動くようになり、ぎりぎりで朝の支度を始めた。しかし、もう限界だった。会社に着くが、会社の看板を見ることもその日は憚られた。
そして冒頭の希望を上司に告げることになる。いつもの上司ではなく、別の上司に。
すぐにその(別の)上司は上長に報告し、三者で面談することとなった。(別の)上司と上長は私の精神状態に理解を示してくれ、とりあえず休むことを勧めてくれた。心療内科の定期受診がすぐに控えていることもあり、医師と相談して休むことにした。
結果、三ヶ月の病気休養をとることとなった。
初めの一ヶ月は、ほとんどベッド上で過ごした。仕事に対する不安はずっと続いているし、休んでいることに対する罪悪感も強かった。妻に「私はこれで良いのだろうか」と毎日のように質問しては困らせた。
それでも妻は毎回「それでいいのよ」と、答えてくれた。
子どもにはリモートワークだと嘘をついた。
これが一番辛かった。
一ヶ月と何週間かが経ち、休んでから、初めて外出した。行き先は図書館だった。初めから図書館に行こうと決めていたわけではなく、子どもが借りていた本を返しにいく、それだけの予定だった。
図書館で本を返したその帰り道、私は公園のベンチに腰掛け、ぼうっと木々のゆらめきを見て、風に吹かれながら、それに身を任せていた。
空はとても晴れていた。私は目を閉じた。
いてもいなくてもいい存在。
社会から必要とされていない存在。
涙がこぼれた。
このまま塵となって、風に吹かれて消えてしまいたいような、そんな気持ちになった。
その時、ふと、メロディが吹かれてきた。
頭の中に流れてきたのではなく、
風とともに「運ばれてきた」、
そんな感覚だった。
ソプラノサックスの、慈愛に満ちた音色。
木漏れ日のような、そよ風のような。
または道ゆく人々のような。
「あなたはここにいていいのだ」という、
赦しのような。
私はここにいていいんですか。
今度は違う、涙がこぼれた。
神が人を塵から創り、その罪を赦したように、
また私も赦されて、創られた感覚になった。
ジョン・コルトレーンの
「central park west」。
公園にいたからなのか、
そうではないのか、はっきりしないが、
確かにそれは私に「運ばれてきた」。
私は感謝した。何に感謝したのかはわからない。おおいなるものに対してなのか、自分自身に対してなのか。それともコルトレーンに対してなのか。
そしてそれは同時に、「今までの自分ではなく、これからは別の自分になる」瞬間を私に感じさせるものだった。やはりそれは、どこへ向かっているかわからない感謝であった。
ただ、この瞬間、この感情は書き残しておきたいと思った。
そしてこれからも書くことで、あの時の感謝を忘れないようにしたいと思った。
それは、私なりのやり方で。
この優しい、
ソプラノサックスの調べのように。
誰かにとって、
音楽が特別な意味を持つことができるように。
「ありがとう」
私は空に向かって、呟いてみた。
風が吹き、木々が揺れているだけだった。