障害を個性と宣う世界に思うこと
こんばんは、りくとんです。かなりお久しぶりの投稿となりましたが生きております。(文字書きとしては死んでいますが…
さてさて早速ですが、表題の『障害を個性と宣う(のたまう)世界に思うこと』であります。
結論から申します。
私は障害は個性であると考えています。ただし!
ただし、強く言いたいのは、一般的に言う個性…もっと言えば発達障害におけるギフテッドのような…の捉え方に関しては明確に異を唱えているということ。
今回は、『私ねぇ、そういった思考を巡らせたよ』と言うことの覚書としてノートを投稿しておこうと思います。どなたかの思考の1ピースになるなら嬉しいな。
思考のきっかけ
さて、今回のこの思案。きっかけになったのはリツイートで回ってきた以下の投稿でした。
https://twitter.com/kayapanman_vp/status/1618432007822016512?s=46&t=vi59z8MVhUVfidqa32W3Fw
【発達障害は個性という考えをどう思いますか?】
ツイート主さんのこの質問。まぁ私の回答は上記したわけですけども、どうしてそう考えているのか、どういう思考でそこに辿り着いたかを以下に言葉を整理しながら細々書いていきます。
この整理はまるで言葉遊びのようですが、この言葉遊びが蔑ろにされ続けた結果が今の言葉のチグハグさであるわけですから、どうぞ(暇ならで結構ですよ)お付き合いくださいね。
『障害者』という言葉は正しいか
さて、そも障害とは何でしょう。
それは本来、『邪魔をする存在』そのもののことを指します。
・線路の障害物
・障害物競争
・その提案にはいくつか障害がある。
・プロジェクト遂行には、あちらの課長が障害だな(どこぞの課長さんごめん
障害という言葉を使うとき、それが人にしろモノにしろ、本来はこのように『その存在そのものが障害』であるはずです。なのにどうしてか、「障害者」だけどうも趣が違うと思いませんか?
この違和感、障害者という言葉が使われるようになった1949年まで遡ると理由がわかります。
1949年…この年は身体障害者福祉法が制定された年。『障害者』という言葉が公用語として使われたことで、広く認知されることになりました。
ちなみに、障害・障碍(しょうがい、しょうげ)という言葉は江戸時代ごろからあった言葉で、言葉の意味は今より少しスピリチュアルで、『悪魔、怨霊が邪魔すること』。また、『物事の妨げになること』の意味でした。
身体障害者福祉法が制定されたことで、障害、障碍2つあった漢字は障害に統合、読み方も「しょうがい」に定まったのですね。
一方、この頃の精神障害者への扱いを見てみましょう。この翌年の1950年、精神衛生法が施行されるまで、精神障害者に対しては「私宅監置」が罷り通っておりました。(私宅監置とは、知的障害や精神障害を有する者を、自宅に作った専用の部屋に監禁しておくことです。)
この時代は精神病院の数自体が少なく、入院できるのはごく一部の富裕層のみでした。
その為、入院できない一般家庭〜中流家庭においては、離れや専用の一室に患者を監禁できる制度が合法として認められていたのです。(役所に届出を出して監禁してたんですね
しかし、働き手にもならず錯乱し暴れることもある人間を自宅で保護し続けることは、一般家庭や中流家庭においては非常に負担で、中には破産してしまう家庭もあったほどでした。
さて話を戻して。
障害者という言葉が普及した1949年頃の社会状況を鑑みると、なるほど障害者という言葉がどちら目線の言葉なのかが理解できると思います。
障害者という言葉は、該当患者を支える家族や社会を主観に据えた言葉です。福祉制度が整わない中、四苦八苦しながら該当患者を支えなければいけない周囲にとって、その存在は自分たち家族が生きていく上で障害に他ならなかった。
その背景を理解すると、やれ『害という漢字のイメージが悪い』だ『障がい者』だの『障碍者』だのといった表記の話そのものが、そもそもの見当違いであることに行き着くでしょう。
現在の使われ方であれば、障害者は『生きる上で障害をこうむることを強いられる人』の略語です。ですから、もし「障害者という言葉のイメージが悪い」「害を与えてくるように見える」というのならば、害という漢字一字に責任を押し付けてひらがな表記にするのではなく、本来の意味である『被障害者』(障害をこうむっている人)など、現代の価値観に適った表現に変えなければ根本の解決にはならないのです。
個性と特性と特徴と特長
言葉遊び二つ目、次は個性についてです。
『個性』とは何なのでしょうか。国語辞典によると、個性とは、その人をその人たらしめる、『その人特有の性格、性質、そのもの特有の性質』のことだそう。
(尻尾をブンブン振って飼い主の帰りを歓迎する猫を想像すると、なるほど確かにそれは個性的な猫ちゃんです。漫画によくあるオッドアイなんかも、珍しさからいくと個性に該当するでしょうね。
個性とは、周りと違うところです。その人特有のものです。周りと比べて一際目立つ違いのことです。
立ち返りましょう、『障害とは個性になるか。』
障害とはその人の内にあるのではなく『障害物』として社会に転がっているものです。そのうちのどれを障害と感じるかは人それぞれで、それを障害特性といいます。(足が不自由なので凸凹道が苦手とか、発達障害の認知特性で文字情報のインプットが苦手とか)
『障害とは個性になるか。』で問われている『障害』とは、本人の中にある『障害特性』を指します。読み替えれば、「『その人が何に障害を感じるか』は、その人の個性ですか?」ということ。
正直、障害特性を持っているだけでは個性と言うには弱いんじゃないの?と思います。発達障害にしろなんにしろ、同じ障害特性持ちをカテゴライズしてグループ形成している世の中ですからね。郷にいれば郷に従えじゃないですが、郷というグループに属して仕舞えば個性と思ってたものは埋もれてしまうものです。
でも、その障害特性を持っていたために体験したこと。特性があるからこその思考の癖。対人関係の歪さや適応時の癖などなど、それは紛れもなくその人しか持ち得ない特徴となります。獲得したその特徴を障害特性抜きに語ることはできません。だからこそ障害は個性を形成し得るし、個性であると私は考えるわけです。
昨今、発達障害には『ギフテッド』という言葉がついて回るようになりました。神様から与えられた才能、ということらしいですが、(ここにも思うところはありますが割愛します)この流れに乗ってか障害は個性と言う言葉も再び聞かれるようになりました。
『障害は個性』。
この言葉は乙武氏の著書『五体不満足』が出版された後に、その読者から生まれてきた言葉です。(決して乙武氏の著書の中に書かれていたものではないのですよ)
ただ、個性と言う言葉は(本来の意味を置いてけぼりにして)好ましい特性に対して使われがちです。
ファッションセンスが個性的で素敵。個性的な思考をする(自分には思いもよらないアイデアを出す)。それはあなたの個性よ(そのままでいいんだよ)。
本来個性は『その人特有の性格、性質、そのもの特有の性質』のことですから、「個性」に良いも悪いもないはずなのに、一般的な使われかたがそういうものだから、「それは個性だ」と言うと「それは好ましいものだ」というメッセージを含んでしまう。
だから、「障害は個性だ」という言葉に、何だか無理やり良いイメージに持って行こうとしている感が否めないのですね。
「個性」と同じようにプラスの特性を示唆する言葉があります。それは『特長』。特別に優れた長所、文字どおり明確にプラスの特性特徴のみを指す言葉です。
(前出しております乙武氏の「五体不満足』の中にも、この「特長」と「特徴」に言及している箇所がありまして、お時間があれば図書館などで読んでみると良いかもしれません。)
障害は個性だ、と言う言葉がなぜこうも論争されるか。
それは「『ただ生きているだけで障害を被りやすいこと』は好ましい特長だ」と聞こえてしまうからに他なりません。
『生きる上で障害を被りやすい』特徴をもつことは、一発もらったら瀕死になるゲームでヘイトを集めやすい状況に近いのではないでしょうか。
どういうことかと言えば…
一発をできるだけ軽くするために装備は他の人より厚くしないといけないし、他の人より多めに飛んでくる攻撃を避けるために周囲にずっと気を配らないといけない。攻撃いっぱい飛んでくるからやっぱり当たるし、そうすると回復薬いっぱい使わないといけないから薬代もかかる。他にもヘイトを集める囮役として隠れ蓑に使われたり、採集クエストでは失敗しやすいから仲間外れにもされやすい。大変なことが山積みです。
もちろん悪いことばかりじゃなくて、副産物として相手の攻撃への見切りが上手くなったりするかもしれないけど、それって好き好んで上手くなるわけじゃないですよね。
それを、「やーヘイト高いっていいよねぇ上手くなるよねぇ!」なんて報酬だけ掻っ攫うハイエナハンターに言われたら?
とりあえず崖から蹴り落とそうと思いませんか?(私なら落としますよ
いけない、ゲームの話になってしまいました…とどのつまり、イージーモードで人生をプレイする健常者が、『障害あるとハードモードプレイになって経験値積めてやりがいもあっていいよねぇ!』って高みの見物をしているような図式になってしまうんです。イージーモードにどうやっても切り替えれない人相手に、ハードモードに切り替える気もない人間が、一体どのスタンスでその話をするんだとなりませんか?
これは何度も論争になるわけです。そりゃそうじゃ。
障害は個性たるか?
あちこちに話が飛びましたが、まとめましょう。
障害は個性たるか?私の答えはYESです。
『障害特性を持っている』ということは、その人特有の性格、性質を形成する上で少なからず影響を与えてくる特性であり、障害特性なしに同じ特徴を得ることはできない。故に障害特性を持つことは個性のひとつである。
この意味で、『障害は個性である』と私は考えます。いいも悪いもない。そういう特徴をもつ、ということ。
だからこそ、障害は個性か否かの論争については本筋からずれていると感じているし、障害を無理やり肯定的に捉えようとする現在の論調には異を唱えます。
さて、ここまでが私が考えたこととその思考のベースになる言葉です。最後まで読んでくれたそこのあなた、本当にお疲れ様でした。
この時代背景や、言葉のニュアンスなどを踏まえ、あなたはこの問いについてどのように考えますか?(おしまい!