朝日について
あれは高校生の時のことだった。
通学中のバスの中で、膝の上に新書を広げていた。養老孟司さんの本だったと思う。
バスが橋の上を通過する時、川に反射したあまりにも眩しい白や黄色の朝の光が目に飛び込んできた。
その時私は、光に包まれながら、朝日は夕陽に似ていると思った。
始まりと終わりは、実は同じものなのだと直感的に思った。
その瞬間だけは、自分は世界の真実に接続している気がした。この光景と、その時の思考を、自分は一生忘れないだろうと思った。そして実際、それから10年経った今もはっきりその時の情景や感覚を覚えている。
時が経ち、去年、その年に退任する教授が授業でこんなことを言っていた。
その授業は、提出した文章を添削してもらう授業で、教授は演劇の評論を生業としていた。
「僕は、芸術家ではなく評論家だから、芸術家のように誰かの心を動かすものを作ること・書くことはできないと思っている。でも、若い頃に朝日を観た時に、その時だけは、本物の美しさに触れることができたと、そう思ったんだよ」
ところどころ間違っていると思うが、彼は私の提出した文章に対しておおむね上記のようなコメントをした。私がどんな文章を提出したのかは忘れてしまった。
私も高校生の頃、朝日を見て、世界に触れられたと感じたことがありました!
授業中に発言する勇気のない私は、教授の眼を見ながらそう心の中で呟いた。
教授との意外な接点や、退任前の彼が私の中に思想を痕跡を残そうとしてくれたように思えたことが嬉しかった。
朝日や夕陽は人を感傷的な気分にさせる。
感覚を過敏にし、感受性を豊かにする効果がある。
それはきっと、1日のうちで目に見える変化があまりに大きい時間帯だからではないだろうか。
私たちは変化に対して敏感である。その理由は、変化に対応できない個体は天敵や災害を予測できず滅んでいったからであり、そうでない個体の子孫としての私たちがここにいるから。ということに尽きると思う。
そして変化とは、失うことと得ることであり、その反復の中に私たちは生きている。
得ることは失うことであり、失うことは得ることであり、それらは尾を噛む蛇のウロボロスのように円環をなす。
1日の始まりは終わりへ、終わりは始まりへと、何度も何度も、永遠に近い瞬間を繰り返していく。
高校時代の私が感じ、世界の真実だと思ったことは、そのようなことだったのではないか。
なんでこんなことを書いているかというと、今日の朝、成果展の搬入のために早起きして出掛けて、久しぶりに朝日を見たからです。
極度の夜型なので、普段は朝日など到底見られない生活をしているのですが、久しぶりに朝日を見ると、やはり圧倒的に美しく神聖なものだなと感じました。
朝の、冷たく誰にも穢されていない空気は、山頂の空気に似ています。
朝日ってすごいいいなと思い、ついでに昔のことも思い出したので、noteに書くことにしました。
で、ここからが本題ですが、そこまでして頑張って早起きして搬入した東京藝術大学先端芸術表現科の学部2・3年生の成果展が、11/26まであります!
場所は東京藝術大学取手校地です!
ぜひ観に来てください!
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