道の途中
親ガチャ子ガチャ
他人様はこの一言で片付ける
この世に生まれた瞬間に
抱き上げた人が母になる
見舞いにきて名付けた人が父になった
この瞬間“家族”という名の
愛しくて可愛いと言いながら
この子ためだからと考える事を“とりあげる”
“親に従いなさい”“いい子でいなさい”
親に言われた通りにやっていれば
父という名の人は機嫌が良くなり、
生きる事が許される。
親の庇護がなければ生きられない
親のおかげで生きていけるのだから
親に感謝して、言われる通りにしなければいけない。
親を尊敬しなければいけない。
その歪な空間の中で育ち、私は“いい子”でいれば、という“洗脳”されてしまい、
親のいう通りに動けない私は“出来損ない”で私なんてが口癖になった。
親の監視が少し離れた高校で少しずつ、家に居場所がなくなっていく。
父は怖いだけ存在、私は怒らないように、父のいいなりになっていった。
妹は逃げ出した(グレた…)
そんな妹を蔑みながらも、心の奥では羨ましいと思っていた。
私は…逃げれなかった…
いや、逃げなかった…
母が心配だったから。
子供が親を守るなんておかしいとある人に言われたけれど、私が両親の間に入る事で両親の関係がうまくいってたから、見捨てられなかった。
私は母を守りたかったのだ。
だけど、私にも限界が来た。結婚して家を出ると、自分の子育てに手一杯。
私の心が悲鳴をあげた。ごめんね、
経緯は省くけど、離れる決心をした。
その頃の私は、“私なんて”がすっかり口癖になり、褒められても素直に認められなくなっていた。
あとで知った、アダルトチルドレン…
あぁ、私かもと思った。
家族の中にいると、親ガチャなんてわからない。
外の世界を知らないから。
外の世界を知り、家族以外の人との出会いで私の親はおかしいと気づいた。
母が亡くなった時、
私は“古い家族”からの洗脳が解けた…と思った。
肯定感も自信も今の残量はほんのちょい。
洗脳が解けはじめた今、少しずつ、取り戻したい。
子供の頃は絶対的存在だった父。
離れてみて、虐待の文字が浮かんだ。
男性の低い声や怒った声が父の声に被り恐怖で震えてしまう。
当分、治らない気がする。でも治す!
今思えば、私は親ガチャ失敗だったのだ。と思うが、子にとって親は絶対だったから、どうすることもできなかった。
“親が正しい”と信じるしかなかったのだ。
良くグレなかったなぁと思う。
“ご両親がしっかりしてるから”
力でねじ伏せるようとする親のどこが、しっかりしてるのか?
世間体を気にしてばかりの親の何処が?
私は私の意思で飛び出さなかった
それは、私のためではなかった。
“お前が一人で生活できるはずがない”
“お前はな?”
否定的な言葉ばかりを浴びせる親。
“いいお父さんね”
外面ばかりが良い父
疲れちゃった
親との付き合い
お母さん、ごめんね。
そんな風に思いながら、
“音信不通”にした。
父の声を聞くと、体が固まり、喋れなくなるのだ。
私の恐怖と怒りは父だけであることに
最近、気づいた
“君は悪い子じゃないよ”
小学生の時に、違うクラスの先生に言われた事がふとよぎった。
“おまえは何もできない”
父の無言の圧力の中、父と同世代であろう先生の言葉が私を支えた。
あの子は美人になるから
お母さん気をつけて
なんて事も言ってたらしいけど
先生、全く問題なしです(笑)
私が学んだ事は
自分の意見を押さえていると
①いざ!という時に何もいえなくなり
自分で考えなくなる。
②失敗や後悔を人のせいにするようになる
③神経が過敏になり、空気を読むようになり
人な顔色を気にするようになる
という事。
自分で考えて、人のせいにしない
こうなるまで大変だった
何しろ、何十年も洗脳されてきたので。
神経過敏、人の顔色を伺うは
まだ、治らない…
神経過敏を生かして私を書くようにして
人の顔色ではなく、体調に気を配るようにして、さりげなく気にかけてあげるようにと務めている
私の学びは
欠点を如何にして長所にするか。
何十年もかけられてきた洗脳は
なかなか、消えない。
たくさんのトラウマも植え付けられた
だからと言って
ここで立ち止まるわけには行かない
なぜなら
私は私の足で
私の道を歩かなきゃいけないから。
私の学びはまだまだ
道の途中だ。