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人は神話や物語を見つけたくなる*菅原道真

平安貴族の菅原道真と言えば、学問の神様として名高い。
幼いころから和歌や漢詩をたしなみ、弓矢も得意の文武両道の天才肌だ。
神童と呼ばれながらもひたすら勉学にも励み、
誠実な人柄で政治的手腕もありながら、多くの民に慕われ、
天皇からの信頼も篤く、官職も順調に登り続け、右大臣にまで任命された。
23名とも言われる子宝にも恵まれた子煩悩な父親の姿は、
残した数々の和歌からも、時を越えて感じ取ることができる。

そんな道真を快く思わなかった人たちから、
身に覚えのない疑いをかけられ、策略の中で左遷されたのち、
彼の地、大宰府で生涯を終える事となった。
菅原道真の無実が証明されたのは薨去して2年後、
その数十年後に太政大臣にまで昇進し、京都の北野天満宮に祀られた。
そこまでされたのは、道真の怨霊によるものと語られる死や、
天変地異が続いたためという話は有名だ。
宮殿に落雷を受けて多くの死傷者を出したあとも、
東宮の薨御や天皇の崩御までも、道真の恨みがなしたものだとされている。
道真は不正腐敗された官吏の一掃ができず悔いていたが、左遷すら自費で、
道中も罠や刺客などの危険に見舞われ、執拗な嫌がらせを受け、
大宰府での生活も惨めなものであったからだ。

この辺は多くの方の知識にあることで詳しく語る必要はないのだろう。

ふと思い出したのは、こちらの記事を読んだせいだ。

白状すれば、小さい頃から「人を嫌う」ということを避けてきたのだが、
ある時に、思いの力というのは、
人を〇すくらいできるんじゃないかと気づいてしまったからだ。
その怖れは「祈る」と言うことを、次第に至極シンプルなものに変えた。
祝うと呪うは同じことだと、大抵の人が気づかずにいる。
もしや「良く祈る」ということが出来ずにいたのではないかと、
自問自答させられる羽目になった。

広い世の中には、残像思念というものを見る人も少なくない。
全国津々浦々で菅原道真に祈る人々の純粋な思いが、
やがて怨霊の姿を勇ましい神の姿に変え、幾年もの時の流れの中で、
自分自身も悼み、癒し、人々の祈りに感謝を込めて、
禍々しい現世のタイミングをしっかり見つめていたとしたら。。。
その魂の恩恵に与かれるとしたら。。。

とか、考えてしまうわけですね(笑)

つまり、きっと、このような方であったのだろうという初夢。

今回のテーマは「大谷翔平はなぜ誰も歩いたことのない道を軽やかに歩けるのか?」です。
ご両親の教育が影響しているのはもちろんですが、自然体で数々の偉業を達成する姿は、何かに守られているような気がします。
西暦901年に、突然太宰府に左遷された菅原道真の家族が、太宰府とは逆方向の鎮守府胆沢城に落ち延びたことと関連付ける人もいます。家族とは、道真夫人と娘二人、息子一人です。家族は追っ手を避けて別々の場所に住み、地元の人々は、この高貴な家族を敬い、夫人の住所を母体、姉の場所は上姉体、妹の場所は下姉体と名付けたといわれています。息子は真城北野でした。
8月某日、彼らがそれぞれの地で建立した天満宮を知人に案内してもらったところ、息子の北野天満宮(真城)、姉の八房天満宮、妹の天満宮(新山神社内)は全て車で10分ほどで回りきれる距離でした。道真夫人は、自らを吉祥女と名乗り、道真公の没後3年で亡くなり母体にある吉祥神社(現・一関市田河津)に埋葬されました。
さてここからがミステリーです。地図上で地元のマイアネタウン天満宮菅原神社から、姉の八房天満宮と妹の天満宮を結ぶと、その延長線上に母体の吉祥神社に到達し、菅原神社から南西にある息子の北野天満宮を結ぶとそのずっと延長線上に大宰府天満宮が存在します。そしてそして、菅原神社と3人の子どもたちの天満宮を結んだ四角形の中に、大谷翔平少年の育った実家、よく遊んだ広場や姉体小学校が存在します。また、ある天満宮には八幡様(武士の神様)も並んで祭られており、文武両道(二刀流)の世界です。
われわれも大谷選手を見守っていきましょう。

奥州羅針盤(5年9月)/奥州市公式ホームページ


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野原 綾
花の苗を買って、世界を美しくすることに頑張ります♡どうぞお楽しみに♡

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