砂時計の落ちるまで*海嘯記
逃げた。
高いところへ。
五感で誰もがそう感じて。
銀行から戻ったまま家の中に入らず、逃げた。
パターの練習を止めて車のキーだけ持って急いで、逃げた。
上司の指示で仕事を放り出して、そのまま車に飛び乗って、逃げた。
渋滞になるからと、めいっぱいの人数で一台に乗り合わせて、逃げた。
負けるもんか!と自分で励ましながら遡る波と競争するように、逃げた。
ゆっくりとしか歩けない年寄りの尻を押し上げて坂道を登って、逃げた。
たてついたことなどなかった姑を、後ろを見るなと怒鳴りつけながら、
痛い痛いと泣き付かれながら、強く強く手を引っ張って、逃げた。
防波堤の上におもちゃのようにずらりと並ぶ船を見て、
もう駄目かも知れないと思いながら、逃げた。
揺れ続ける校舎の中を、
先生の声だけを頼りに走って逃げた。
優しい保育士の先生の手でしっかり握られ、
訳もわからず泣きながら逃げた。
上履きのまま、友達に遅れないよう、
教室の窓を乗り越えて裏山に逃げた。
押し上げられて金網によじ登り、
担任の先生に抱きとめられて、
それから訓練通りの避難場所へと、
一目散にみんなで逃げた。
このビルは頑丈ではなかったはずと、
押し寄せた水に二階から飛び込んで逃げた。
耳慣れない大声を聞き、玄関を飛び出し、
渦巻く波に足を取られないよう、
庭木にすがりついてふんばった。
電線がちょうど絡んでくれた、松の木に取りすがり、
近所の人を乗せたまま流されて行く屋根と何度もすれちがった。
屋上で一息つきながら、「助けてくれ!」という絶叫で
引き波と一緒に消えていく人たちを、
何もできずにただ呆然と見つめていた。
いつもの時間に会議が終わっていたら、波にのまれていた。
用事をすませたあと、ゆっくりおしゃべりしていたら、波にのまれていた。
車を六台も追越さなかったら、波にのまれていた。
恐くなってお父さんを探していたなら、波にのまれていた。
体調が悪くて仕事を休んでいなかったら、波にのまれていた。
あと少し下校時間が早かったら、波にのまれていた。
隣の奥さんが叫んでいなかったら、波にのまれていた。
生きていることってなんて危ういことなんだろう。
あーこわかった(疲れた)。
逃げるのってこわかった(疲れた)。
ともかくこわかった(疲れた)。
生きてるのって本当にこわいもんだ(疲れるもんだ)。
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