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時が止まる情景*翼をください【赤い鳥】

時間が止まったような情景に、
突然出逢ったことはないだろうか?

もうすでに12時を回り、
一人暮らしの小さな部屋に
向かって歩いていた。
涼し気な風鈴の音が
どこからか聞こえてくる。

賑やかな街の通りの角を曲がると、
そこから住宅街で、
寝静まったひっそりとした街灯だけの
夜道を歩きながら、
(なんで私がこんな時間に、
こうやってこんなところを
歩いていなければいけないの?)と
誰かに鬱屈した思いをぶつけたくなった。

住宅街では、
外に漏れる灯りはチラホラと小さく、
物音といえば、コンクリートに擦れる
私のスニーカーの靴音だけだった。

すれ違う人もいない時間、
風もなく、星もなく、
ぼんやりとした夜空に
月の気配を感じるだけで、
ただ泣きたい気分になった。

(こんな時間まで残業してるのは、
私だけかも知れない)

(こんな仕事が
なんの役に立っているんだろう)

(こんな安い給料で
こき使われるのは割に合わない)

胸の中からあふれる出てくる声に、
結局は
(なんで私がこんな思いを
しなければいけないんだろう)と
軽蔑するような、浅はかな不満にたどり着く。

若さだ。

自分に問えば、
答えはすぐに分かるというのに。

夜更けの住宅街は、
家々の輪郭が浮き上がるだけで、
人間も動物も植物すらも
呼吸の気配すら聞こえない。

立ち止まって、
雲から顔をだした白い月を見上げた時に
聞こえてきた、コツコツと軽快な音。

振り返ると暗闇に慣れた目が、
白杖だとすぐに見つけた。

(目が見えないんだから、
昼も夜中も関係ないものね)

声に出して、母が聞いたら、
叱られそうな台詞が、頭の中を横切る。

日常で触れあうことのない盲目の人だから、
興味本位でその場に立ち止まり、
彼のその先を追っていた。

すぐに高校と体育館の間の
道路に入り込んで姿が見えなくなった。

(どこまで歩いていくんだろう?)

そう思った時に、
いきなり朗々としたテノールの歌声が。

今、私の願いごとが
かなうならば翼がほしい
この背中に鳥のように
白い翼つけてください

この大空に翼を広げ
飛んでいきたいよ
悲しみのない自由な空へ
翼はためかせ 行きたい

彼はそこが、大声で歌っても
迷惑でない場所だと知っていた。
だから、白杖のリズミカルな音を刻んで、
心をはやらせていたのかも知れない。
こんな観客がひとりいたとも知らずに、
いつものように歌い始めたのかも知れない。
心に響く歌声だった。
しかも上手い。

その歌声を発した瞬間に、
時計の針が止まったように、
私も虫も草も息をひそめて、
夜風も彼のために
気配を隠していたのだと思う。
白杖の音までが存在を無くして、
コンサートホールのように、
力強く響き渡ったのだから。

【翼をください】は、
決して希望に満ちた曲ではなく、
ただ【今が悲しい】という曲なのだと
彼のテノールが教えてくれて、
私はその歌声に、
ただ(恥ずかしい)と思いながら、
無心になって、帰り道を急いだ。

あの情景と、あの時の恥ずかしさは
夏の夜の白い月を見上げたり、
何かの節目に出逢う時、
今でも胸によみがえる。

【今が悲しい】を戦いの鎧として、
泣いて、戦って、傷ついて、励まされて、
人は優しさや強さという剣を得て、
道を探して歩いていくんだな、と思う。

本当はそういう歌なんだと思うんだけど。






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野原 綾
花の苗を買って、世界を美しくすることに頑張ります♡どうぞお楽しみに♡

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