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さよならだけが人生だ*毎日note330日を前に

井伏鱒二さんの名訳が、どんどん体の中に取り込まれる言葉となる。

3の数字は好きなので、3が2つ並んでなんだか嬉しい330日。

自分の記事は、自分だけしか読んでいないような気がする。

そう思うことで、
「さよなら」、は毎日、
今日の自分が昨日の自分にしているような感覚になる。

それもいいんだけど。

慣れというものは怖いと思う。

何がどうだった、というようなことがあったわけではないが、
どこかで、自分のアンテナを張ってないと、
気が緩んで、平坦な文章を書いてしまうと思う。

それは自分が意図していない吐き出しだったり、
何かにつられたうっとうしいリアルだったりする。

ゴミのような言葉を自分がまとって、
汚れた気持ちになってしまうのは、ただ居心地が悪い。

だけれども泥の中から咲く蓮の花のように、
表裏一体の世の中の数々の例えがあるとおり、
澄んだ水の中でばかり暮らしてはいけない。

悪意を持った視線に出逢った時、
自分が誰かを、同じ悪意を潜在意識に抱えて見つめる時、
なんだか、この世界が空回りしてるような気分になる。

とすると、自分の実体がどこに居場所を求めているのかと、
いつのまにか考えてしまうことになる。

ここは私の居場所ではないのだ、という漠然としたいつもの思いが、
「さよならだけが人生だ」という名訳に助けられていると知る。

(だから、いいのだ)という開き直り。

(きっと新しい場所に出逢う)という切り替え。

(あの人も同じだった)という安心感。

追いかけて日々を過ごしているのだなぁと、立ち止まって考える。

「さよなら」という形が、人との関係性でなく、
少しずつ断捨離していく、物、お付き合い、考え、と変わっていく。

その考えの中で捨てようとするあらゆる感情を、
捨てていこうと努力することになると、「ただの私」だけが残っていく。

過去の私も、未来の私も、今日の今ここにある私のことを
考えてくれているんだろうなぁ、と心強く思う。

毎日、言葉を重ねながら自分を支えてるのかも知れないね。

みんな、きっと。





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野原 綾
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